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2004.08.04

新選組!22の3

今回の「新選組!」マイナー隊士の紹介は、前回の谷三十郎の弟達、谷万太郎と昌武です。

まずは万太郎。ドラマでは若松力が演じています。私はこれまで知らなかったのですが、この人も小劇場系の役者さんなのですね。プロフィールに依ると、知る人ぞ知るという存在のようです。

前回の三十郎と重複しますが、万太郎は1835年(天保六年)に備中松山藩に生まれています。父親は旗奉行であり剣術師範も務めていた谷三治郎、120石取りの家柄でした。万太郎は、父の指導の下、武術の修行に励み、特に種田流槍術の達人となっています。父親の死後、兄の三十郎が家督を継ぎ、万太郎も兄と共に剣術師範を務めていたと言いますが、1856年(安政3年)万太郎22歳のときに自身が起こした不始末によって谷家は断絶となってしまいます。万太郎が主君の娘と問題を起こしたとも、家老の奥方に不義を働いたとも伝えられます。

松山を後にした万太郎は大阪に出て、中山大納言の侍医を務めていたという医師岩田文硯と出会い、居候となります。当時、岩田家には武道家を目指す若者が大勢居候していたと言います。その中で万太郎は文硯に認められ、その娘スエと所帯を持ち、南堀江2丁目に道場を開かせて貰うに至ります。この道場は繁盛していたらしく、後の新選組隊士である原田佐之助や島田魁もこの道場で万太郎に槍を習ったと言われています。兄の三十郎も、師範代としてこの道場で暮らしていました。

1863年(文久3年)後半から翌元治元年の初め頃までの間に、谷三兄弟は揃って新選組に入ります。この道場の出身者である原田や島田からの勧誘があったのでしょうか。兄の三十郎は間もなく副長助勤となりますが、万太郎の方はなぜか京都の屯所には入らず、大阪に止まっていた様です。新選組の大阪屯所として下寺町の万福寺が充てられますが、ここにも出入りしていた様子はなく、元のとおり道場の経営に当たりながら、大阪の尊王攘夷派の志士達の情報を探っては京都に送っていたと思われます。

万太郎は1864年(元治元年)6月5日に起こった池田屋事件では近藤の隊に属して参戦し、手柄を立てています。この事件では、「浪士文久報国記事」に「表口に逃げ出した浪士を永倉が追い、(この浪士を)表口から槍の名手谷万太郎が突くやいなや、永倉が肩を切った。」とあり、相当な活躍をした事が伺えます。万太郎が受け取った報奨金は20両で、兄の三十郎よりも上でした。子母澤寛の「新選組始末記」の中で大活躍したとされる三十郎は、この万太郎と取り違えられている事は前回書いたとおりです。しかし、この事件で活躍したにもかかわらず、万太郎はまた大阪の道場に帰っています。

次に万太郎が活躍した事件が1865年(元治2年)1月8日に起きた「ぜんざい屋」事件です。蛤御門の変によって長州藩が朝敵となり幕府から追討を受ける情勢となったため、長州藩に身を寄せていた土佐浪士達は身の置き所を失います。その中の田中光顕、那須盛馬、島浪間、大利鼎吉らが大阪に集まり、天下の形勢を逆転しようと、大阪城に焼き討ちをかけ、将軍である徳川家茂を襲うという計画を立てていました。彼等は最初、道頓堀にあった旅籠鳥毛屋に潜伏していましたが、取り締まりがきつくなったため、松屋町にあったぜんざい屋「石蔵屋」に移ります。この店の主人は、本名を本多大内蔵と称する長州人でした。この噂を谷川辰吉という倉敷出身の人物が聞き込み、万太郎に知らせます。この谷川という人の事は良く判っていないのですが、恐らくは同郷という事で、谷家とは親しい人物だったと思われます。これを聞いた万太郎は、自分達で手柄を立てたかったのか、時間がなかったのかは判りませんが、京都の新選組に知らせる事なく、兄三十郎、門弟の高野(阿部)十郎、正木直太郎の4人で石蔵屋に踏み込みます。このとき、浪士の多くは外に出払っており、石蔵屋に居たのは、本多とその家族、それに大利だけでした。本多は家族を連れて隣家へ逃げましたが、大利は踏み止まり万太郎達と戦います。大利はたった一人ながら奮戦し、三十郎は脚を、正木は右腕を切られ、万太郎は胸を当てられています。苦戦の後、万太郎達は大利を切り伏せ、他の浪士達は取り逃がしたものの、証拠書類の押収には成功しました。万太郎は事件の2日後に近藤、土方に当てた手紙を書いています。それには、非常に手強い相手で切り伏せるのに苦労した事、押収した書類については会津藩の町田氏が立ち会って検分している事などか認められ、なにやら言い訳めいた内容となっています。

この事件の後、万太郎と新選組の繋がりは薄くなり、1866年(慶応2年)4月1日に兄の三十郎が亡くなった後は完全に途絶えてしまった様です。1867年(慶応3年)6月に新選組が幕府直参に取り立てられた際にも、万太郎の名はありません。一説として、田内知の切腹の際に介錯をしくじって立場を無くしたとされる三十郎のエピソードは、実は万太郎が起こした出来事だったのではないかと言われていますが、確証はありません。一方、伊東派の篠原泰之進とは親しくなり、広島の出張から帰って来た篠原と新選組からの脱退について相談しており、その後も親交が続いたと伝えられます。

万太郎は、鳥羽伏見の戦いにも参加せず、明治を迎えた後も道場主であり続けた様です。1874年(明治7年)に一子弁太郎に恵まれますが、その直後明治10年頃には商売に手を出して失敗し、妻のスエと離婚しています。その後、吉村たみという女性と結婚しますが、たみは弁太郎を虐待していたらしく、1885年(明治18年)に弁太郎をスエの実家に預けています。そしてその翌年、明治19年に万太郎は大阪の桃谷で病没しました。享年52歳。彼の墓は息子弁太郎に依って大阪の本伝寺に建てられ、兄三十郎、弟昌武と共に眠っています。

一方、三男の昌武。ドラマでは浅利陽介が演じています。彼はキッズウォーで有名ですが、「北条時宗」で時宗の子供時代を演じるなど過去3回も大河ドラマに出演しているのですね。

昌武は、谷家の末の弟として1848年(嘉永元年)に生まれています。二人の兄とは、母が違うという説もあるようです。谷家が断絶となった時はわずかに9歳、恐らくは兄たちと共に大阪に出て来たと思われます。兄二人と共に新選組に入った昌武は、間もなく局長近藤勇の養子となり、近藤周平と名を改めています。この養子になった理由には諸説があることは前回書いたとおりですが、大きく分けて池田屋事件の前に養子になったとする説とその直後になったという説とに別れます。前者の場合は、近藤は谷家の家筋の良さに惚れ込んで養子にしたという説になり、後者の場合は池田屋事件でかなりの活躍を見せ、その武勇に近藤が惚れ込んで養子にしたという説になります。

このあたりの事情について、近藤が故郷に当てた手紙では、まず池田屋事件について触れ、「討ち入り候者は、拙者、沖田、永倉、藤堂、養息子周平今年15歳、5人に候。」「永倉の刀は折れ、沖田の刀はぼうし折れ、藤堂の刀は刃切れささらの如く、倅周平は槍を切り折られ、拙者刀は虎徹ゆえに候や無事に御座候。」とあり、同じ手紙の末尾に「先日板倉周防守家来より養子貰い申し候。当節柄死生も計り堅く存じ奉り候間、右等の心構え致し候。追って、くわしく申し上げ候。」と書いています。これを素直に読めば、板倉候という名家に繋がる家柄の息子を養子に貰い受け、池田屋事件の際には近藤家の養子として共に最初の斬り込み隊に参加し、沖田や永倉達と共に槍を切られるまで勇敢に戦ったという事になります。

しかし、池田屋の報奨金として周平が受け取っているのは最低の15両であり、近藤と共に活躍したとするには辻褄が合いません。このあたりから様々な憶測が生まれるのですが、最も一般的なものが周平は息子として近藤と共に討ち入ったものの、案に相違してとんでもない臆病者であり、手槍を切り折られただけで後はひたすら逃げ回っていたとする説です。このことから報奨金は最低額となり、近藤は早まって臆病者を自らの養子にしてしまった事に嫌気がさし、次第に周平を遠ざける様になり、後の谷三十郎の粛清にまで繋がっていくとされます。この説の傍証として、池田屋事件の後の周平の刀は無傷だったという記録があげられます。(ただし、この記録の信憑性には疑問があるようです。)次いで、周平は実は最初の斬込隊には属しておらず、井上の組に入っており、一番後から参戦したために15両の報奨金になっているという説があります。この説では、近藤が故郷への手紙で一緒に斬込んだとしているのは、師匠への相談もなく養子を貰い受けた事に対する言い訳として、周平がいかにも天然理心流を継ぐのにふさわしい勇敢な少年であるかのように書いているのだとされます。さらに、周平が池田屋で活躍した事で養子になったという説に立てば、彼は井上隊に属して大きな手柄を立てており、近藤はその事を手紙ではやや変形させて書いているという事になりそうですね。いずれも決め手はなく、どれが正しいかは判りません。ドラマでは、周平を連絡係に使う事で、上手く辻褄を合わせていましたね。

周平のその後については、あまり判っている事はありません。万太郎の妻のスエの妹コウを許嫁とし、近藤は後でコウを養女として迎え二人を夫婦養子にするつもりだったとされますが、これは実現していません。周平の隊での身分は、局長付とも平隊士とも言われています。慶応2年の三十郎の死の後、翌年の12月頃までには養子縁組が解消され、谷周平となっています。なぜ、近藤から離縁されたかについては、周平が酒色に溺れるようになり近藤がこれを見限ったためだとか、近藤に実の息子が生まれたからだとか諸説がありますが、定かではありません。周平は鳥羽伏見の戦いに参戦しており、一説にはそのまま行方知れずになったとありますが、実際には江戸までは新選組と共に帰っています。そして、行方を眩ませたのは江戸での出来事でした。

その後周平は、1868年(慶応4年)に一人の女性を連れて近藤の妻のつねと会っています。つねは、甥の勇五郎に「周平さんも女のためにあんな事になった。」と語っているそうです。周平が酒色に溺れて身を持ち崩したとする説は、ここから出ているようですね。周平はその後高梁に戻り、家名断絶から再興されていた谷家に戻っていたようです。しかし、1872年(明治5年)に再び出奔し、大阪に出て警察官として奉職しました。このとき、谷千太郎という名を名乗っています。そして再び谷昌武と名を変えていますが、翌年には警察官を辞職し、この後暫くは消息が途絶えています。その後、1877年(明治10年)に神戸で播田ツルという女性と同居している事が判っています。このとき、昌武には2歳になる正栄という娘が居ました。昌武は明治13年にツルと結婚し、播田昌武となります。そして明治20年にはツルと離婚し、再び谷正武と名を改めています。このあたりの事情として、ツルは相当な悪女で、正武にしきりと退職を勧め、退職金が入るとこれを巻き上げてすぐに正武を追い出したと言われますが、離婚後もツルは長女正栄の面倒を見続けており、どこまで本当なのかは判りません。その後正武は山陽電鉄の職員として勤務し、1901年(明治34)年に亡くなりました。享年54歳。

谷兄弟の後半生は、華々しかった前半生からするといずれも寂しさが漂います。特に、運命に弄ばれたような昌武は哀れでさえありますね。しかし、彼の後半生の記録は、新選組の生き残りとして、生きにくい世の中を懸命に生き抜いて来た軌跡であり、晩年が不幸だったとも断言出来ません。昌武は全身古傷だらけだったと言い、あたかも彼の人生を象徴しているかの様でもあります。

この項は、木村幸比古「新選組日記」(「浪士文久報国記事」)、新人物往来社「新選組資料集」(近藤勇書簡)、「新選組銘々伝」、別冊歴史読本「新撰組の謎」、子母澤寛「新選組始末記」、文藝別冊「新選組人物誌」、司馬遼太郎「難波城焼討」を参照しています。


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