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2004.08.26

新選組!異聞

今日は、これまで紹介してきた新選組隊士について得た新たな情報の紹介と、若干の訂正をしたいと思います。題して「新選組!異聞」。

まずは、山南敬助。

山南敬助についての基本的な情報として、北辰一刀流の使い手というものがあります。これは、永倉新八が「殉節両雄之碑」の拓本の余白に「剣術北辰一刀流千葉周作門人免許、新撰組副長山南敬輔」と書いてある事が根拠になっていて、疑う余地のないものとされてきました。ここから、山南=北辰一刀流=尊王攘夷思想の持ち主という図式が出来上がり、近藤、土方との対立や、同門である伊東甲子太郎との繋がりが説明されてきました。ところが、この図式を否定する資料があったのです。

柳剛流の剣客である中山幾之進という人が残した「攪撃修行録」という資料があるのですが、これは幾之進が修行の為に行った剣術の試合の記録として、対戦した相手に流儀、氏名を書いて貰ったというものです。その中に「飯田町堀留大久保九郎兵衛門人 一刀流 山南敬輔」という署名があり、試合があったのは1853年(嘉永6年)4月15日の事と推定されています。この山南の師匠である大久保九郎兵衛は、北辰一刀流ではなく小野派一刀流の使い手でした。この後九郎兵衛は1856年(安政3年)に亡くなっており、一方、山南が試衛館に居た事を確認出来るのが1861年(万延2年)です。山南が試衛館の門を叩いたのはこの5年の間の事だったと考えられ、北辰一刀流に入門して免許皆伝を受けるまでの時間的余裕はないと考えて良さそうです。(「新選組銘々伝」)

山南が北辰一刀流ではなかったからといって尊王攘夷思想を抱いていなかった事にはなりませんが、少なくとも伊東甲子太郎や藤堂平助との関係を、同門だから濃厚のものがあったとする従来の解釈は訂正を迫られる事になると思われます。

次に、河合耆三郎

前回書いた時には、河合が新選組に入った動機として「武士になれるのが魅力だったのではないか。」と書いたのですが、河合家に伝わる話では「ぐらつく徳川幕府を立て直すという大志を抱いて故郷を出た。」とされているようです。それからすると、商人の子として会計方に回されたのは不本意な話で、戦う会計方として池田屋事件に参戦したのは、彼にとってはむしろ本望だったという事になりそうですね。

次に彼の死についてですが、前回は新選組始末記の「隊士絶命銘々録」の記述から斬首と書きましたが、新撰組始末記では不算の譴責を被り切腹したと書かれています。また、新選組始末記の方にも、一説として帳簿の付け間違いから生じた出納の不算の責任を取って切腹したという記述があり、「隊士絶命銘々録」にあるような斬首を巡るいきさつはなかった可能性があります。

また、彼の墓についてですが、現在壬生寺にある立派な墓碑は彼の死を悼んで親戚一統が建てたとされていますが、実際に建てたのは彼の姉妹や弟で、それもずっと後年になって明治以後に建てられたものです。さらに、彼の葬式の際に親族達が1000両箱を馬の背に乗せて屯所前を行き来したという話や父親が50両を持って駆けつけたという話については、河合家によれば当時はかなりの窮乏にあえいでいた時期であり、とてもそんな余裕は無かっただろうとされています。これらからすると、「隊士絶命銘々録」の記述は、子母澤寛による創作という可能性が高いような気がしますね。(「新選組銘々伝」)

3つ目は、内山彦次郎の暗殺

内山については、新撰組始末記の記述からかなりの能吏だったと書きましたが、彼は多くの方によって研究されており、「大阪町奉行きっての財政通であり、敏腕な与力であった」ことが証明されています。その裏付けとして、与力としては破格な扱いである「御目見」の資格が与えられています。また彼は、有力な町人との間に一定の距離を置いて一切私邸には入れなかったともされ、潔癖さを誇り、難波の三傑の一人に数えられるような人でした。しかし、その一方で、内山の裁きを受けた側からは、収賄による依怙贔屓を行った極悪非道の輩と酷評を受けてもいます。どうやら敏腕なあまりに、仕事を忠実に実行した結果恨みを買う事も多かった人のようですね。

この内山の暗殺犯ですが、「重兵衛事山崎要蔵一条覚」という資料に、内山殺害を山崎が手引きして、長州の中島作太郎、筑前の結城一郎、肥後の津田小田郎が暗殺を実行したとあるそうです。この山崎要蔵は、新選組の山崎蒸とは全くの別人で、これからすると暗殺の実行犯は、新選組ではなく西国浪士の仕業という事になりそうですね。ただし、実行犯とされる三人は特定されておらず、現在のところあくまで一説に止まるようです。(新選組人物誌)

4つ目以降は訂正です。

まず、浅野薫の紹介の中で、「(佐久間象山の息子である)三浦敬之助は父の敵を討つ為に、勝海舟の紹介で新選組に客員として迎えられていました。」と書きましたが、三浦を新選組に紹介したのは会津藩士で佐久間象山の弟子でもあった山本覚馬でした。海舟には、あとで土方が書簡で知らせているようです。(新選組銘々伝)

次に、谷昌武についてですが、彼の新選組内での地位については「局長付又は平隊士」としたのですが、1867年(慶応3年)の編成変えの時に、諸士取締役兼観察に就いていました。ただし、この時には養子ではなくなっており、谷周平と名乗っています。(新選組全史)

そして、昨日と一昨日にアップした山南の脱走について。

まず、「新選組始末記では、宿を取っていた山南を見つけてすぐに連れ帰ったとあり、一泊したという事実はない。」と書いてしまいましたが、良く読んでみると見つけたのは21日の事で、連れ帰ったのは翌22日の朝となっており、確かに一泊したことになっています。ドラマは、この記述に従ったのですね。

次に、明里について輪違屋所属の天神と書いてしまいましたが、これは私の思いこみでした。新選組始末記には、明里は単に島原の天神とだけ書かれており、輪違屋とは書かれていません。よって、昨日の記述は一部変更させて頂きます。

以上、お詫びと訂正です。申し訳ありませんでした。

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コメント

keyfordです。
少し前に新選組局長・近藤勇「士道に殉じたその実像」という本を読みまして、そこでも山南敬助については小野派一刀流の使い手となっていました。また、何かの本で小野派一刀流から北辰一刀流ほか数派が派生したと言うことが書いてありました。流れは汲んでいるようですね。

余談ですが大河に最近登場してきた伊東甲子太郎、改名前の大蔵という名前、あれはオオクラなのですね。わたしはずっとタイゾウと読んでおりました…

投稿: keyford | 2004.08.27 19:45

keyfordさん、コメントありがとうございます。
一刀流は伊藤一刀斎を流祖として、小野派一刀流はその正当後継者とされているようですね。ここから中西派一刀流が別れ、さらに北辰一刀流が派生したという流れになるようです。
ウェブ上に小野派一刀流の公式サイトというのがありました。今でも流儀は継承されているのですね。
http://onohaittoryu.3.pro.tok2.com/
伊東甲子太郎は、策士のイメージが強すぎて、このドラマに限らず常に損な描かれ方をしていますね。ちょっと気の毒な感じがしています。

投稿: なおくん | 2004.08.27 20:50

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