新選組!25の2
新選組! 第33回「友の死」その2
「つまり、土方さんは、山南さんを憎んでたん?せやから、切腹させるんやろ?みんな、そう思てるわ。」とひで。実際、今に伝わる山南の切腹の原因は、土方との確執がもつれた為というのが通説になっています。「どんどん、土方さんの事が嫌いになっていく。」このドラマを見ている山南ファンの気持ちを代弁するかのようなセリフですね。「それは違う。」と言い出したのは、意外にも普段他人の事には感心が無いと言っている斉藤でした。「いつだったか、大阪船場のなんとかいう呉服屋に、不逞浪士が金をゆすりに押しかけた事があった。知らせを受けて、たまたま大阪に居た土方さんと山南さんと俺が店に向かった。(以下、斉藤の回想シーン:このとき、山南さんは浪士に刀を折られ、危うく斬られそうになったのだが、土方さんが相手の浪士を背後が斬りつけたため難を逃れた。土方さんは何事も無かったかのように倒れている山南さんに手を差し伸べ、山南さんはややためらいながらも、恥ずかしげにその手を借りて立ち上がった。)俺から見ると、あの二人は互いに敬い、認め合っていた。」
これは、大阪岩城升屋事件の事でしょうね。この事件については以前にも書いてた事がありますが、岩城桝屋というのは大阪の高麗橋にあった大きな呉服屋で、江戸にもその支店がありました。その店は大阪の名所に一つ数えられる程の立派なもので、当時の旅行記にわざわざ見物に出かけた事が書かれています。また、大塩平八郎の乱の時にも豪商の一つとして標的にされ、砲撃を受けた事がありました。この大阪有数の大店に押しかけた不逞浪士を山南敬助が討ち取ったという記録が、その時折れてしまった山南の愛刀「赤心沖光」の押し型と共に残されています。ただし、このとき山南の他に誰が居たのかは判っていません。
これについては、良く似た出来事として鴻池家を強請ろうとした浪士を新選組が斬ったとする事件があるのですが、この時も山南が刀を折ったとされており、この類似性からこの事件の舞台は鴻池家ではなく実は岩城桝屋だったのではないかとする説があります。この鴻池事件については、一緒に戦ったのは土方と山南とする説と近藤と山南とする説があり、後者の場合は山南の折られた刀の代わりに近藤が自分の履刀を与え、近藤自身は鴻池家(岩城桝屋)から虎徹を貰ったという事になっています。このドラマでは、前者の説を採ったのですね。
「そしたら、何で山南さんは、死なんならんの?」「法度に背いた者は切腹、それだけの事だ。」斉藤の答えは明確です。「どうして、こういう事になるのかなぁ。私の好きな人は、みんな私の刀で死んでいく。私は..、私は、こんな事のために剣を学んで来たんじゃない。」そうつぶやくように言う沖田の表情は、悲痛そのものです。芹沢を斬った時の事も思い出しているのでしょうね。ひでは沖田の心を知って慰めたかったのでしょう、そっと背中に近寄ります。しかし、前日の沖田の言葉がひでを阻みます。思いを伝える事が出来ないひでが哀れですね。
この沖田の心境を伝える手紙が残されています。山南が死んだ翌月の3月21日に佐藤彦五郎に宛てて出した手紙がそれで、時候のあいさつと、皆が変わりなく過ごしているという報告、そして土方が間もなく江戸へ帰るという連絡の後にこう書かれています。「山南兄去月廿六日死去仕候間、就而一寸申上候。(山南兄が先月26日(この日付はおかしいですが)に亡くなった事を、ついでながらちょっと申し上げておきます。)」これをどう解釈するかは意見が分かれる所ですが、私としては、沖田にとっては山南の死は耐え難い出来事であり書きたくもない事なのですが、かといって黙っている訳にもいかず、わざと軽い調子でついでの事として書いたと思いたいところです。その前段に京都での出来事の委細については土方に聞いてくれとあり、とても自分では詳しく書く気になれなかったのではないでしょうか。ちなみに、この沖田の手紙と前後して出されている近藤や土方の手紙には、山南の死について触れたものはありません。これが何を意味するのかは、謎としか言いようがないようです。
再び、山南の部屋の前に戻っている島田魁。今度は立っています。そこへ現れた井上源三郎が、「土方さんがお呼びだ。」と声を掛けます。「えっ、またですか。もう、一度で済まして欲しいんだよな。」と今度は素直に持ち場を離れていきます。「お食事でございます。」と声を掛けて部屋の中に入る井上。「これは、済みません。」と迎える山南。「山南さんが、好きなものを揃えてみました。」と井上は山南の前に膳を置きます。「源さんが作って下さったのですか。」「はい。」「ただ、どうなんでしょう、切腹の前に食事というのは。腹を切った時に見苦しい事になりはしないだろうか。」「そこまでは、考えませんでした。」腹を切った時に飯粒などの食べたものが飛び散って見苦しくなるとして、切腹の前には本格的な食事は控えるというのが作法の一つでした。薄いかゆとか、食べて良いものは決まっていたそうですね。井上の家は、八王子千人同心の家柄ですから作法を知らないはずは無いと思うのですが、井上の狙いは別の所にありました。「置いておいて下さい。暫くは、目で楽しませて頂きます。」最期の時に好きなもの食べられないと言うのも寂しい話ですが、目で楽しむというのも慰めの一つにはなったかも知れません。「これは、持っていって下さい。」と山南は、竹の皮に包んだ握り飯を井上に渡します。無言で受け取る井上。「島田君を呼び戻す事も、お忘れなく。」この食事を持ってきたのは、切腹などせず、好きなものを食べて腹ごしらえをして、どうか逃げて下さいという井上流のメッセージだったのですね。しかし、山南の決意は変わる事はありませんでした。
座禅を組む近藤の所に、尾形がやってきます。「局長、よろしいですか。山南先生に会いたいという者が、参っていますが。」山南を訪ねてきたのは、明里でした。「明里が?丹波に帰るように言ったのに。」「会いますか?」と近藤。「申し訳ありません。」と山南。山南の部屋に通される明里。それを見守る永倉、原田、松原の3人。
部屋の中では、明里と山南が向かい合って座っています。山南の背後には、近藤が控えていました。「どうして、戻ってきた。」「そうかて、帰れ言うたかて、一人じゃ無理や。」「だからと言って。」と山南は困った様子です。「なあ、一緒に行こ。」と甘える明里がなんとも可愛いです。「うちな、もう先生と一緒やないと、生きていかれへんねん。」「無理を言わないで下さい。私は、これから行かねばならない所があるんです。」「そしたら、うちも付いていく。」「それは出来ない。」「邪魔にならんようにするから。後ろの方から、そっと付いていくから。せやからなあ、うちを一人ぼっちにせんといて。」一度は郭に売られた明里です。里に帰ったとしても、周囲の見る目は冷たいものだと知っているのでしょうね。その様子を辛そうに背後から見ている近藤。その近藤に向かって「あんたからも頼んで。」と明里は言い出します。近藤は、明里の隣にまでやってきて、静かに言います。「暫く山南先生は、あなたと会う事は出来ない。あなたの事は、我々が必ず無事に親元まで送り届けます。」しかし、「いやや、うちは山南さんやないと。」と明里は聞きません。「わがままを言うな!」とついに山南が切れます。その剣幕に驚く明里。山南は、すぐに平静に戻って「これ以上、私を困らせるな。」と静かに言います。呆然と山南を見つめる明里。山南は、明里のほつれた髪を直してやります。そして、頬に触れながら「必ず行くから。丹波で待っていなさい。」と優しく言ってやります。「いつ来る?」「約束は出来ないが、必ず行く。」「ほしたら、一緒に富士山見に行こうな。」「約束する。」「きっとやで。」「ああ。」「忘れたら、あかんで。」そう言って、明里は嬉しそうに笑って、山南に抱きつきます。その様子を見ていた近藤は、遂に居たたまれなくなり、そっと部屋を出て、別室で泣き崩れてしまいます。その様子を見ている松原、永倉、原田の3人の隊士達...。
夜、山南の切腹を前に集まった、伊東、武田、永倉、原田、斉藤、井上、土方、そして近藤の面々。それぞれ、新選組の正装である浅葱色の羽織を着ています。一方、別室で死装束に着替え、静かに時を待つ山南。トントントン、トントントン。不意にその部屋の窓を叩く音がします。不審に思った山南が障子を開けると、にっこり笑った明里の顔がありました。「先生。」「まだ、居たのか。」明里は息を弾ませています。「これ。」と取りだしたのは、黄色い花でした。「菜の花やろ?」紛れもなく、菜の花でした。それをじっと見つめる山南。「菜の花だ。」「うふふ、そこに咲いてたの、見つけたんや。」すぐそこで咲いていたように言う明里ですが、恐らくは山南に見せようと必死になってあちこちを探していたのでしょうね。「今頃でも咲く事あるんや。なぁ、うちの言うてたとおりやろ。」「私の負けだ。」「うふふふっ。」と嬉しそうに笑う明里。明里の背後には、山崎が居ました。「山崎君、明里の事、よろしくお願いします。」「必ず送り届けますので、ご安心下さい。」「待ってるからな。」と笑顔で言う明里。「ああ。」そう言って、明里と暫く見つめ合ったあと、山南は静かに障子を閉めてしまいます。
その障子を見つめながら、さっきまでと違って、静かな調子で明里が言います。「あの人、偉い人なん?」「新選組総長、山南敬助さんです。」と厳かに答える山崎。「何、しでかしたん?」と山崎の方を振り向きながら、「切腹するんやろ、これから。そうかてあれ、死装束やもん。」「先生は、人の道に背いた訳ではない。」と、懸命な調子で言う山崎。「安心した。」と笑う明里。「ご存知やったんですか。」「うち、それほど阿保やないもん。うちが泣いたら、あの人悲しむだけやろ。ほやから、騙してやったん。先生も、すっかり信じ込んで。案外、あの人もああ見えて信じやすいんやな。」泣くのを堪えていた明里は、ついに堪えきれずに、泣き顔になってしまいます。「阿保や。」そう言い残して、明里は去って行きます。彼女にすれば生きている事こそが大事で、観念に従って死のうとする山南が阿保に思えたのでしょうね。
この明里については、子母澤寛の「新選組始末記」にだけ出てくる人物で、恐らくは子母澤寛の創作だと思われます。「新選組始末記」については、長い間、子母澤寛が壬生の生き残りの人達から聞き集めた実見談に基づいて書いたもので、全てが史実だと思われて来ました。ところが、その後の研究でかなりの部分に創作が入っていることが判っています。特に子母澤寛自身が、「一番良い所は、全部私の創作だ。」と言っており、物語的に描かれた部分はほとんどが創作と見て良いようです。少し前にベストセラーになった「輪違屋糸里」は新選組始末記に出てくる糸里という名前をヒントにした作品ですが、この糸里は実在の人物ではないようです。この系統の源氏名は輪違屋には無いそうですね。明里もまた島原の天神とあるだけで、その存在は確認されていません。ですから、山南と明里の別れの場面も創作という事になりそうですが、それでも私はこの場面はあったと思いたいです。それほどに綺麗な場面ですし、無かったとなれば山南が哀れすぎるではないですか。
また、ドラマで明里を送っていったのが、山崎だったというのも意味深長ですね。実際に山崎が送ったのは、山南自身でした。光縁寺に山南の墓があるのですが、そこに山南の遺体を運ぶ頼越人となったのが山崎で、光縁寺の過去帳に記載されています。山南の墓は、当時は台座の付いた立派なもので、今の倍ほどの大きさがあったそうです。その後、京福電車の工事によって今の場所に移され、台座もはずされて現在の姿になったそうです。ですから、実際に山南が眠っているのは、線路の下という事になりますね。
山南が端座する横の障子を開けて、土方が顔を見せます。土方は何も言わずに去ろうとしますが、山南から声を掛けます。「悔やむ事はない。君は正しかった。私を許せば、隊の規律は乱れる。私が腹を切る事で、新選組の結束はより固まる。それが総長である私の、最期の仕事です。」晴れ晴れとした表情で淡々と語りかける山南の言葉を背中で聞きながら、そっと振り向いた土方の顔は、寂しさを堪えた子供のようでした。
切腹の座に着く山南。軽く一礼して、裃を取り、着物を脱ぎ始めます。山南の前には、幹部の面々が座っています。じっと見据える近藤、視線をそらす斉藤、まともに見ていられない土方、凝視する井上、事務的な感じで見つめる武田、痛ましそうに目を伏せる伊東...。
上半身裸になり、短刀を手にして紙で巻く山南。その横でたすき鉢巻きで身支度をした沖田が刀を抜きます。「声を掛けるまで、待つように。」と沖田に言った山南は、三方を腰掛けにして、腹に手を当てます。それを見つめる近藤と土方の目には、涙が浮かんでいました。山南の切腹は、作法通りの見事なものだったと伝えられています。
全てが終わった後、縁側で放心したように腰掛けている近藤と土方。その背後に伊東が現れます。「見事な、ご最期でした。山南君を偲んで、一首詠ませて頂いた。春風に、吹き誘われて山桜、散りてぞ人に、惜しまるるかな。お辛いでしょう。お二人の心中、察して余りあります。」策士とされる伊東ですが、この時の言葉に偽りはなかったでしょう。しかし、近藤にとっては、所詮伊東は他人でした。「あなたに、何が判るというのか!」近藤にそう叫ばれた伊東は、心外だったのでしょうが、黙って引き下がります。後に残った近藤と土方は、男泣きに泣き出します。土方は、日頃の冷徹さはすっかり消え、親を亡くした子供のように泣き崩れます。近藤がそれを支えるようにして抱きかかえ、いつまでも二人で泣き続けるのでした。
このドラマでは、伊東が酷く扱われていますが、実際に最も山南の死を悼んだのは伊東でした。彼は、ドラマにあった歌の他に三首もの追悼の和歌を詠んでおり、生前に厚情があった事を伺わせています。先に書いたように、永倉とともに命がけで助命しようと尽力したのも彼であり、今回の演出はちょっと可愛そうな気がしますね。ただ、山南が情に流されやすいと言ったその本人が、山南の最期の場面では居たたまれないような表情になっており、それが彼の弱点という事なのでしょうが、しかしまた本当の人柄を表してもいるようで、救われたような気もします。
山南の切腹については、脱走が原因ではなく、浪士組が京都に着いた日を選んだ意図的なものではなかったかとする説もあります。新選組が当初の攘夷の魁となるという目的を忘れて幕府の爪牙となり、西本願寺という由緒ある寺院を力ずくで脅すという暴挙を犯す組織になった事に耐えきれず、初心を思い出させるためにその日を選んで自裁したのではないかと言います。新選組を抜ける事は理由さえあれば可能(現に武田や浅野は、後に隊を抜けています)であった事を考えると、わざわざ脱走する必要はなく、それからすればこういう解釈もあり得るのかなという気もしますね。
この項は、永倉新八「新撰組顛末記」、子母澤寛「新選組始末記」、新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」(「新撰組始末記」「沖田総司の手紙」)、別冊歴史読本「新選組の謎」、河出書房新社「新選組人物誌」、歴史群像シリーズ「血誠 新撰組」を参照しています。
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