新選組!23の3
今回のマイナー隊士の紹介は、尾形俊太郎と尾関雅次郎です。
まずは、尾形俊太郎。ドラマでは、飯田基祐が、さりげなく切れ者の雰囲気を出していますね。
尾形俊太郎については、幹部を務めていた割には記録が少なく、謎の多い隊士です。出身は熊本とされますが、生年は不詳で出自が武士かどうかも判っていません。新選組に入隊したのは、新選組始末記に記載されている第一次編成に助勤としてその名があることから、1863年(文久3年)6月頃の事と考えられています。新選組始末記には学者と記され、後に文学師範を務めている事から、武よりもむしろ文に秀でていた人と思われます。このことから、華やかな戦いの場には登場することはなく、その代わり近藤のブレーンを勤める一人として活躍しました。
隊士としての活動は、まず八・一八の政変の際に出動した52人の隊士の一人だったと思われます。次いで1864年(元治元年)6月5日に起こった池田屋事件の際には、報奨金を受け取ったメンバーには入っておらず、山南敬助や山崎蒸らと共に屯所を守る留守部隊の一人だったと考えられています。その後の蛤御門の変においても、永倉新八の「新撰組顛末記」や「浪士文久報国記事」にその名が無く、同じく留守部隊であったと思われます。
1864年(元治元年)9月、近藤は将軍上洛の催促と新隊士募集のために江戸へ下りますが、このとき同行したのが永倉新八と武田観柳斎、それに尾形でした。永倉は、松前藩出身である事から老中の松前候との橋渡し役として同行したものと思われ、後の二人は近藤のブレーンとして随行したものと考えられます。これより前、藤堂平助が新隊士募集のために江戸へ先行していました。尾形は近藤に従って、松前候のほか各藩の江戸屋敷を歴訪しています。
江戸から帰った後、新隊士を迎えた新選組は、長州征伐に従軍する事を想定した行軍録を作成しています。このとき、尾形は5番組長に任命されました。さらに1865年(慶応元年)に再度の編成換えがあり、このときは諸士調役兼監察とされています。伊東一派の入隊により腕に覚えのある隊士が増え、実戦向きではない尾形は指揮官からはずされたのでしょうか。しかし、軽く扱われていた訳ではない証拠に、文学師範役を拝命しています。
この年の11月に近藤は永井尚志と共に長州訊問のために広島を訪れますが、その随行員として伊東甲子太郎、武田観柳斎らと共に尾形が選ばれています。長州側には永井尚志の従者として届けられ、近藤は給人、武田は近習、伊東は中小姓、尾形は徒士とされました。これからすると、尾形は末席という扱いだったようですね。このときの訪問では、なんら得るところ無く、12月には京に戻っています。ただ、同行していた山崎蒸や吉村貫一郎は長州領に忍び込み、周防方と呼ばれる情報を収集する役目に就いています。
翌慶応2年2月にも近藤は広島を訪れており、この時の随行者は伊東、篠原泰之進と尾形でした。この訪問では、伊東は近藤とは別行動を取って、諸藩の周旋役に長州藩に対する寛大な処分を説いて回るなどしており、明らかに近藤とは立場を異にしつつあった事が伺えます。近藤と尾形は、今回も何も得る事なく、3月に帰京しています。
1867年(慶応3年)6月23日、新選組隊士は幕臣に取り上げられますが、尾形は助勤として大御番組を仰せつかっています。この翌日、尾形は、土方、山崎、吉村と共に近藤の建白書を携えて、柳原前光、正親町三条実愛のもとを訪れて、長州征伐についての意見を述べていますが、聞き置かれるだけで不調に終わっています。
1868年(慶応4年)1月3日に鳥羽伏見の戦いが起こり、敗れた幕府軍と共に新選組は江戸へと帰還しますが、尾形もその中の一員にいました。新選組は、このあと甲陽鎮撫隊として勝沼で戦って敗れ、江戸で永倉と原田が離脱し、さらに流山で近藤が投降するなど衰退の一途をたどりますが、尾形は斉藤一と共に会津へ向かい、戦い続けています。ただ、会津でどのような行動をとったのかは良く判っておらず、8月22日に他の隊士と共に若松市中の斉藤屋に宿泊していた記録を最後に、消息が消えてしまいます。斉藤はなおも如来堂に向かって戦い続けたのですが、そこには尾形の名はありませんでした。一説には、会津若松城に入って戦っていたのではないかとされますが、確証はありません。尾形が戦病死したという記録もないのですが、その消息を伝えるものとして、郡山市の正福寺に尾形姓の墓があったという話があります。ただし、これも寺に残る過去帳からは確認出来ないようです。
一方、永倉が板橋に建てた供養塔には尾形の名は無く、永倉は尾形が会津で死ぬ事なく生き延びて、依然として生存している事を知っていたのではないかとも考えられています。尾形のその後の伝承としては、熊本の警察で剣道を教えていた、警視局で古閑膽次という名で藤田(斉藤)とコンビを組んで密偵をしていたなどがありますが、いずれも確証はありません。
武闘派集団である新選組において学者という特異な存在であった尾形俊太郎でしたが、常に幹部として重用され、最後まで新選組にあって戦い続けました。その人柄を伝えるエピソードは残っていませんが、他の文学師範であった伊東甲子太郎、武田観柳斎、毛内有之助がいずれも最期は粛清にあっている事と比べると際だった違いを見せています。優秀であると共に、時勢に流されることなく近藤と新選組に対して誠実であり続けた人であったことが偲ばれます。
次は、尾関雅次郎ですが、ドラマでは熊面鯉(くまづらごい)が、どこかユーモラスな役柄を演じています。この一風変わった芸名は、元はと言えば三谷幸喜が新見錦を演じていた相島一之に付けようとした名前だったそうですね。それを相島が嫌がったため、せっかく良い名前だからと「はなまるマーケット」という番組の中で三谷が中心になってオーディションを行い、見事ゲットしたのが今の熊面鯉との事です。そういった縁が、今回のドラマの出演に繋がっているのかも知れないですね。
尾関は、大和高取の人で、同じく新選組隊士として勘定方を勤めた尾関弥四郎の弟です。1863年(文久3年)6月以降の入隊と考えられ、最初は平隊士、後に伍長を勤めています。1864年(元治元年)に起こった池田屋事件では、尾形と同じく留守部隊であったと考えられ、報奨金のメンバーからは外れています。このあたりは、ドラマにあったとおりですね。元治元年12月頃に作成された行軍録では、中村金吾と共に旗役として先頭を任されています。これも時期は違いますが、ドラマの設定どおりです。1867年(慶応3年)6月23日の幕府直参取り上げの際には、平同士とされています。その後、1868年(慶応4年)1月3日に起こった鳥羽伏見の戦いでは伍長として参戦し、無事に戦い抜いて江戸に帰還しています。その後は、会津から蝦夷地まで戦い続け、中島登覚書では指図役を勤めていたとあり、4月27日の大谷地村の戦いで、さらに翌明治2年5月12日の御台場の戦いでそれぞれ手傷を負ったと記録されてます。そして5月15日、ついに降伏し、弘前薬王院に収監されました。その後は東京へ移送され、さらに高取藩に預けられたあと、1870年(明治3年)年に赦免されています。その後の事はよく判りませんが、1895年(明治25年)2月28日に郷里で亡くなっています。
あまり詳しい事は判っていませんが、新選組の初期から在籍し、最期まで戦い抜いて生き残った数少ない隊士の一人ですね。この人も特にエピソードは残っていないのですが、島田魁と同じく、古参隊士として筋を通して生き抜いた人だったという気がします。
この項は、永倉新八「新撰組顛末記」、木村幸古「新選組日記」(浪士文久報国記事)、「新選組全史」、子母澤寛「新撰組始末記」、新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」(「新撰組始末記」「中島登覚書」)、別冊歴史読本「新選組の謎」、河出書房新社「新選組人物誌」を参照しています。
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