新選組!23
新選組! 第31回「江戸へ帰る」
冒頭、会津候に拝謁する近藤勇。江戸に下り、長州征伐のために将軍上洛を促すよう老中と談判してくるよう頼まれます。考えてみれば、凄い出世ぶりですよね。多摩の農家出身で小道場の主に過ぎなかった近藤が、幕府の老中と掛け合いに行くというのですから。驚天動地の出来事と言っても過言ではありません。それほどまでに池田屋事件の与えた衝撃は大きかったという事なのでしょう。この将軍上洛の建言については、永倉新八の「新撰組始末記」や子母澤寛の「新選組始末記」では、会津藩の再三の要請にも係わらず将軍上洛が実現しない事を憂えた新選組側から会津藩に申し出て、会津候の同意を得た上で下向したとあります。
「会津に帰る事になった。お役ご免だ。」と秋月悌次郎。「私のような軽輩が、いささか出過ぎたかな。」と自嘲する秋月ですが、彼は会津藩にあって100石取りの家柄の出ながら、年少の頃からその才覚を買われ、江戸の昇平校に学び、その後藩命で西国を遊歴して見聞を広めるなど英才教育を受けてきました。そして、会津候が京都守護職として上洛するにあたって京都公用方に抜擢され、八・一八の政変時における薩摩藩との同盟を実現するなど人脈の広さを生かして会津藩の外交を担って活躍して来ました。しかし、軽格の出という事から藩内に敵が多く、彼を抜擢した家老横山主税の死と共に失脚し、この後蝦夷地代官へ左遷されてしまいます。そして1867年(慶応3年)に窮地に陥った会津藩を立て直すべく京都に呼び戻されますが、既に時遅く、活躍の場のないままに戊辰戦争へと突入してしまいます。明治以後は東京大学などの教授を務め、熊本五高では小泉八雲と同僚になり、八雲をして「神のような人」と言わしめています。秋月の人格の高さを伺わせるエピソードですね。 ドラマでは堀部圭亮が、秀才でありながら人当たりの良い秋月を好演していますね。
壬生の屯所での幹部会議。江戸へ下る人選を巡って話し合いが行われています。藤堂平助は江戸に行っているのですね。「局長、江戸には誰を連れて行きますか。まあ、私がお供するのは当然として。」と武田。「決まってんのかよ!」とつっこむ土方。何をそんなに勢い込んでいるのかと言わんばかりの、武田の飄然とした表情が面白いですね。「私も行きたいな。」と沖田。しかし、咳き込む沖田を見て、近藤は永倉を指名します。「永倉は謹慎中だぞ!」と異議を唱える土方。そう言えば、なんで謹慎中の永倉が会議に出ているのでしょうか。「永倉さんはいかがですか。」と山南。「局長の考えに従います。」と永倉。「それでは決まりだ。」と近藤。憮然とした様子の土方。会議が自分の意のままに進まない事に、苛立ちを覚えているのでしょうか。「永倉君を連れて行くのは正解でしたね。私もあの件以来土方君とは離しておくのが良いと思っていました。」と山南。近藤は何も言いませんが、同じ思いだったのでしょう。
薩摩藩邸で藩兵の訓練を見守る大島吉之助。そこへ、坂本龍馬が訪ねてきます。「おはんは、何がしたかとな。」と大島。「とりあえず、今将軍家の回りにいるやつは、皆お役後免にするきに。ほんで、勝先生を筆頭に、各藩から頭と腕を持った連中を集める。薩摩、会津、長州、土佐。ほんで、みんなで将軍家を盛り立て諸外国にも負けん強い日本を作るがよ。」と龍馬。前回出て来た「日本を今一度、せんたくいたしもうし候」の手紙にあるとおりの構想ですね。「話が太すぎて、めまいがし申す。」と大島。彼は、この時期はまだ薩摩藩を超えた発想までには至っていなかったようですね。「大島さん、おまはんや、長州の桂さんがどうしても必要になるがよ。」と龍馬。後の薩長同盟への伏線ですが、実際にはこの構想はそれこそまだまだ絵空事の段階で、とてもこんな話は出来なかった事でしょう。
寺田屋で会合を持つ尊王攘夷派の志士達。その中心に座っているのは、なんと捨助です。「新選組は潰す。池田屋と御所の戦いで死んでいった同志達の敵を討つんだ。」と志士の一人。「おいおい、あんたらどうしようもねえなあ。これから長州征伐が始まるかもしれねえってのによお、新選組なんてどうでも良いだろう。」と捨助。随分と語る様になったものですが、これって近藤達に対して残っている思いが言わせているのでしょうか。「桂先生に会わせろ。」「やなこった。俺を先生だと思えばいいんだよ。」と捨助。なんともまあ、大物になったものです。いや、そのつもりになっているだけか。「桂先生もなんでこんな男に託したんだ。」ともう一人の志士。ウン、ウン、その気持ち良く判ります。どう見ても完全な人選ミスですよね。でも、捨助の言っている事は妙に的を射ています。根からの志士で無い分、かえって客観的に情勢が見えるという事なのでしょうか。「お話中すんまへん。新選組が下に来てます。」とお登勢。階段の下には、土方と沖田の姿が。「御用改めである。」と叫ぶ土方。慌てて逃げ出す志士たち。たちどころに地が出て、あわてふためく捨助。「危ないから。」と言いながら、2階の窓からお登勢に突き落とされるようにして、叫びながら転落していきます。その直後に入ってきた土方と沖田。捨助の叫び声は聞こえなかったのでしょうか。「あら、おこしやす、土方先生。沖田はんも。」と笑顔で誤魔化すお登勢。大した度胸です。疑わしげにお登勢を見つめる土方。
江戸の試衛館道場へ戻った近藤と永倉。藤堂も江戸で合流したのですね。出迎える江戸の面々。周斎の体調を気遣う近藤。前年、芹沢を粛清した前後、周斎は体調をこわして寝付いていたのですが、近藤は新選組の運営に掛かりきりであったため見舞いに帰ることが出来ず、会津藩から近藤の故郷に宛てて近藤が京都を離れられない旨の手紙が届けられています。近藤が江戸に帰ったこの時期は、周斎の体調は小康を得ていて、起きあがれる程度には回復していました。故郷には、池田屋事件、蛤御門の変など、主な活躍は全て手紙で知らされていました。近藤にすれば晴れがましい凱旋だったのでしょうね。1年半ぶりに会った娘のたま。可愛らしく成長した姿に近藤の顔も緩みます。「こないだ、拳骨くわえて寝てました。」とふで。親子の繋がりが感じられて良いシーンです。
松前藩邸を訪れた近藤達。一緒に居るのは、藤堂、武田、尾形の三人です。永倉は、松前藩脱藩の身である事から遠慮したのでした。老中格松前伊豆守と対面する近藤。「攘夷より長州です。まずは国の中を納め、それから諸外国との事に取りかかるのが筋です。」と存念を述べる近藤。なかなか堂に入ったものです。「この間上洛されたばかりではないか。」と伊豆守。「先のご上洛は、この5月まででございます。」と素早く近藤に伝える尾形。目立たないですが、なかなか有能そうな人ですね。「今度の上洛を期に、公武力を合わせて攘夷を行っていただきたく存じます。」と近藤。やはり、近藤にとって新選組の本意は攘夷にあるのですね。「ここだけの話だが、上様上洛には莫大な金が掛かるのだ。」と伊豆守。「旗本達が上様をお守りして上洛するには支度金が要る。兵を動かすには金が要る。しかし、幕府にも旗本にも今はその金が無い。」これが幕府の本音でした。
「全く情けない。支度金が出ないから上様のお供が出来ない。今の旗本は腐っている。」と近藤。全くそのとおりで、本来、旗本の俸禄はいざというときに戦場へ駆けつけるために与えられているもので、別途支度金を貰おうなどと言える筈も無いのでした。金が無ければ家財道具を売ってでも将軍家に尽くすべきであり、それが250年間もの間旗本としての地位を保証されてきた見返りだったのですが、長年の飽食が続いた結果、本来の役割を忘れてしまっていたのです。この旗本達が、徳川家を潰したと言っても過言ではないでしょう。「この先どうされるのですか。」と藤堂。「地道に説得するしかないだろう。」と近藤。実際、近藤は何度も伊豆守と会い、建白書も提出していますが、将軍の上洛が実現したのはさらに半年後の事でした。
襖の陰から現れた一人の人物。満面の笑みを浮かべて近藤に近づいてきます。「局長。無沙汰しておった。」となにやら親しげです。なんと、ずっと以前に近藤を百姓の出だからとして講武所から追い出し、浪士組の結成時には集まりすぎた人数を前に気を失い、仮病を使って逃げ出した松平上総介(当時は主税助)でした。「新選組!浪士組を作ったこの上総介も鼻が高い。これから尽忠報国の志を持って、共に長州を懲らしめてやりましょうぞ!」と手のひらを返したような持ち上げ方です。あっけに取られる近藤達。なんともいやらしい人物ですが、いわゆる腐った旗本達の代表格なのでしょうね。ただ、彼の名誉の為に言っておくと、当初50人の予定だった浪士組が235人にふくれあがり、恐れをなした主税助がその場で職を投げ出して逃げたというのは誤りのようです。実際には、彼はその前に異動があって昇進を果たしており、併せて上総介に叙任されていて、浪士組取扱は解除されていたのでした。彼もまた、誤った情報でいわれのない汚名を着せられている一人のようですね。
京都の新選組屯所。山南と土方が深刻な顔で話し込んでいます。「それはなりませぬ。あれはもう終わった話。」と山南。「俺の中じゃ終わっちゃいねぇんだ。」と土方。ずっと覚えておくぜと言ったのは、嘘では無かったのですね。「あいつらがやった事は謀反だ。謀反人を処罰して何が悪い。」と土方。新選組を一つの組織として見た場合、永倉達の取った行動は確かに造反でした。「彼等は今謹慎している。何も腹を切らせなくても。」山南も、実は土方の見方を半ばは認めているようです。「甘いんだよ。ここで引き締めておかないと、また同じ事を繰り返す。」と土方。烏合の衆である新選組をまとめて行くには、強烈な法規を確実に執行していくよりないと土方は見切っているのですね。「だったら起こらない様にすればいい。彼等の不満の方向を見定め、それに対処する方が先。」と山南は、あくまで常識論です。今の世の中なら、むしろこの方が真っ当な方法論ですよね。「そんな事したって、誰かさんが裏で唆したりしたら、同じ事だろうが。」土方の不満はここにありました。本来なら、新選組を強化しようとする自分に同調してくれるはずの山南が、裏に回って自分の脚を引っ張るような真似をしている事が我慢ならなかったようです。「とにかく私は承服しかねる。」と山南。彼にすれば、これ以上仲間内での争いは見たくなかったのでしょう。憮然とした表情で座り込む土方。どうしても自分を理解してくれない山南に対するやりきれなさを表している様です。
言うまでも無い事ですが、このあたりの山南と土方の関係は完全な三谷オリジナルです。通説としては、「新撰組始末記」や「新選組始末記」の記述から、土方と山南の間に勢力争いがあり、二人は犬猿の仲だったとなっています。その最たるものは、山南が切腹するときに現れた土方に向かって叫んだという「おお、やってきたか、九尾の狐。」という言葉です。このあたりから、山南にすれば土方は近藤局長に取り入ってたぶらかし、新選組を私して道を誤らしている存在で、自分をも奸計をもって陥れた相手と見ていたとする説が一般的なようです。しかし、それ以前の二人の間にどんなやりとりがあったのか、知る術はありません。その一方で、土方は、実は山南を慕っていたとする説があります。その根拠が土方の作った「水の北 山の南や 春の月」という句で、解釈の仕方によっては山南を敬慕する内容と受け取れなくもありません。三谷演出は、この句から感じ取れる二人の関係を描いている様に思えます。
このところ、2部構成が普通になってしまいました。長くなって申し訳ありませんが、後半は明日アップします。
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