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2004年8月

2004.08.31

新選組!26

新選組! 第34回「寺田屋大騒動」

冒頭、剣道場での稽古シーン。剣先が細かく揺れる北辰一刀流独特の構えです。面を脱いだのは、山南敬助でした。江戸・千葉道場の一室で、師匠?と対座する山南。「私は、この道場を離れようと思うのです。先日、ある道場を訪ねました。門人も少なく、普請も粗末なものでしたが、人々は気概に溢れていた。そこには、私の忘れかけていた何かがあった。ようやく、自分の居場所を見つけたような気がしました。」もう聞けないと思っていた、山南独特の語り口です。彼はやっぱり自分の居場所を探していたのですね。その彼が、最後にはもうここには居場所がなくなったと言って自ら命を絶ったのでした。こうして振り返ると彼の寂しさが伝わって来るようで、なんだか悲しくなりますね。「流派を、変えようというのかね。」「一から出直しです。急ぎますので、これで失礼を。」「どこへ行く。」「間もなく、祝言があります。」「祝言?」「これからお世話になるであろう、お方の。後免。」

「山南さんは、その明くる日、正式に千葉道場をお辞めになったそうです。」と藤堂。ここに出て来た山南は、藤堂の回想でした。藤堂は、「山南敬助 霊位」と書かれた位牌に向かっています。位牌に供えられた菜の花が悲しいですね。藤堂の後ろには、土方と井上が座って神妙な様子で話を聞いています。「たまたま、隊士募集で千葉道場に伺ったとき、話が山南さんの事になり、そこの塾頭が教えてくれました。まさか、こんな事になっているとは。」と藤堂は位牌を見つめながら涙ぐんでいます。

「周囲の者は、山南さんが女を連れて逃げた事に一番驚いています。しかし、私には、山南さんの気持ちが痛いほどよく判るのです。」と近藤。近藤の側には深雪太夫が居ました。「あの人は、最後の最後に、真の安らぎを見つけたような気がする。」確かに、明里が居なければ、山南は救いのない結末を迎えていたかも知れません。明里と一緒のときの山南は、本当にいい顔をしていました。「うちもそない思います。」と深雪太夫。さすがに太夫だけあって、明里とは違う豪奢な装いですね。横を向いて咳き込む太夫。「すんません。」「あまり、具合は良くないのですか。」「心配ないです。」「あの、良かったら京へ来ませんか。少し、疲れが溜まっているのでしょう。ゆっくり養生して、身体を治した方が良い。」深雪太夫については、大阪新町に居た太夫で、京屋忠兵衛の仲介により近藤に身請けされ、その後間もなく病死したというのが定説になっています。その一方で、新選組始末記には、異説として後年深雪太夫自身が語ったとされる話が紹介されています。それによると深雪太夫は島原の木津屋の太夫で、近藤と馴染みになった後、近藤の都合により一度大阪新町へやられ、その後身請けされたとあります。そして深雪太夫は病気で死ぬのではなく、リューマチを患って医者の家で養生している内に妹のお孝に近藤の手が付き、これきっかけに身を引いて近藤から200両の金を受け取って島原のお茶屋を買い取ったとあります。その後変遷を重ねますが明治の終わり頃まで長寿しており、明治41年71歳のときに鹿島淑男という近藤勇の研究家と会ってこの話をしたとされています。「ええなあ、近藤先生のおそばで、毎日、近藤先生とだけ会うてたいなぁ。」「それでも私は構いません。」「無理言わんといて下さい。勤めも休まんと、大阪を離れる訳にはいかへん。先生が身請けしてくれはると言うんなら、話は別ですけど。」と近藤を試すように見る太夫。「いや、私は、その事を言っているのです。」と詰まりなから言う近藤。意外そうに近藤を見つめる太夫。「あなたさえ良ければ。」という近藤の言葉に、太夫は笑顔で応えます。

伏見寺田屋で、沖田から山南の遺した手紙を受け取る坂本龍馬。「亡くなる前に、山南さんから渡されました。」と沖田。「なんて書いてあるん?」と手紙をのぞき込むおりょう。「す?何す?」「託す、じゃき。」「何を託されたん?」と無邪気に聞くおりょう。龍馬は山南の言葉を思い出します。「私は近頃思うのです。つまるところ、この国を動かすのは考え方や主張ではなく、人と人の繋がりなのではないでしょうか。」

夜、山南の手紙を前に、酒を飲みながら考えに耽る龍馬。「託す」とだけ書かれた手紙を眺める龍馬に、再び山南の言葉が聞こえてきます。「だからこそ、藩に属さず、一つの考え方にこだわらない、あなたのような存在が日本にはなくてはならないのです。」起きあがって、蝋燭の炎を見つめる龍馬。どうやら、山南の手紙が彼をやる気を復活させたようです。

1865年(元治2年)3月5日 京。「西本願寺への移転に関しましては、本日、土方副長と伊東参謀が先方と会い、引っ越しの期日など細かいところを詰める事になっています。」居並ぶ幹部達の前で議事を進めているのは、尾形俊太郎です。「おい、ちょっと早くねえか。」と言ったのは原田。「山南総長が西本願寺への移転に不同意だったという事は、誰もが知っている事。それが、総長が亡くなってまだ間もないというのに、すぐに実行に移すというのは、いかがなものだろうか。」と人情論を説いたのは永倉です。「移転は、総長が腹を切る前から決まっていた事だ。」と土方。「ここは、山南さんの思い出も沢山残っているし、私は早く越したいな。」と別の人情論を出したのは沖田です。「という事で、伊東先生、後ほどよろしくお願いします。」と一方的に議事を切り上げる土方。「承知しました。」と今日は言葉数が少ない伊東。「次によろしいですか。近藤局長は、本日、伏見の寺田屋に視察に行かれます。依然として長州の浪士を匿っているという噂があり、局長が直々に女将のお登勢を取り調べます。」「よろしくお願いします。」と土方。「わざわざ局長が行かれる事もないでしょう。私が、行って参りましょう。」と出しゃばったのは武田。彼の言う事ももっともで、旅館の女将への訊問にわざわざ局長が出て行くなど普通はあり得ない事です。それを遮るように「ここは局長にお願いしよう。」と強い調子で言う土方。「いや、しかし。」とあくまで自説を主張しようとする武田。ところが、「いや、私が行く。」と局長自らが決定してしまいます。「この話はこれまで。」とまたしても議事を打ち切る土方。憮然とする武田とそれを見て背後で愉快そうに笑う原田。意味ありげに武田や原田、永倉達を見る沖田。

会議を終え、別室に集まった近藤、土方、沖田、井上。「怪しまれなかったかな。」と言ったのは近藤。「本当は、寺田屋で深雪太夫と会うと判ったら、永倉さん達怒ると思いますよ。」と沖田。「隊士の間では、すでに深雪太夫の身請けの話は、噂で広まっております。」と井上。「早いところ行っちまえよ。一軍の将たるもの、側室の一人や二人居たって、どうって事ねえだろ。」と土方。実際に近藤と関係のあった女性は深雪太夫一人に留まらず、その妹御幸太夫をはじめ、駒野、植野、金太夫、祇園山絹の女など数多く居た事が知られています。このうち子供を産また女も居ました。「そういう間柄ではない。」と近藤。「でも、私はどうかと思うな。近藤先生に側室は似合わないよ。だって、江戸にはつねさんという、可愛いご新造さんが居るじゃないですか。」と沖田。若い彼には、側室を持つという事が不純に思えるのでしょうね。井上も、同意するかのように微笑しています。「それは、ガキの言う言葉だ。」と土方。彼もまた、数々の浮き名を流した事で知られており、それをぬけぬけと故郷への手紙に書いていますから、相当遊んだ事が伺えます。土方の言葉にむっとした沖田は「わるいけど、江戸に手紙を書きますから。」「総司。」「つねさんに、みんな伝えますから。」あくまで潔癖な沖田。何か言いたそうで言えない近藤。「そろそろ、寺田屋へ向かった方が良いのでは。」ととりなす井上。

おたふくに来ている原田と永倉。入り口にはいつぞや原田が贈った暖簾が掛かっています。「おかわりおまっとうさん。」と原田にぜんざいのお代わりを持ってきたおまさ。嬉しそうに食べ出す原田。「局長、深雪太夫を身請けするらしいぜ。」と原田。「らしいな。」と永倉も知っていた様子です。「それって、妾って事どすか。」とおまさ。「驚きだろ。」と原田。「その件に関しては、俺は何とも言えん。」と意外な反応を示す永倉。「なんで?」「局長の気持ちは判る。山南さんが、あれだけ安らかに死を迎えられたのは、明里という女と出会えたからだ。そうは思わんか。」と原田に向かって問いかけます。「まあな。」と同意する原田。「そういう訳で、実は俺も、大阪で知り合った芸者を、こっちに呼ぶ事にした。」と永倉。「ええっ、どういう事だよ。」と驚く原田とおまさ。「名は小常という。」「それって、ひょっとして。」「元々は、俺の古い知り合いの女だった。俺は、江戸を立つ時、女にやってくれとかんざしを渡された。先月江戸へ戻ったとき、宇八郎を訪ねたが、長屋は既に空き家になっていた。」と話す永倉。あれ、前回小常と会ったとき、宇八郎は死んだというような言い回しをしてませんでしたか。あれは、単なる推測だったのか。それに、長屋から居なくなっただけで、本当に死んだとは限らないようですね。「亡くならはったんどすか。」そうだと言うように、うなずく永倉。「可愛そうな話やわ。」とおまさ。「それでお前はその女を手込めにしたんだな。」と無遠慮に話す原田。「そういう言い方をするな。俺は宇八郎の替わりに、小常を幸せにしようと思っただけだ。そして、俺たちは、いつしか男と女になっていた。」「格好ええわ。」「お前、いつの間にそんな事になっていたんだよ。」「それで、夫婦にならはるんどすか。」と交互に言う原田とおえまさ。この二人も、なかなかに似合っています。「先の話は判らんが、とりあえずこっちへ呼んだ。」と永倉。「何だよ、何だよ、みんなやる事やってんだよな。」とあてられて楽しそうな原田とおまさ。原田は、不意におまさのほうにを向き、真面目な顔で「そろそろ俺たちも夫婦にならないか。」と迫ります。「あほな事言わんといて。」「幸せにするからさ。」という原田の頭を、持っていたお盆で叩くおまさ。「俺も似合っていると思うぞ。」と永倉。凄い形相で永倉を睨み、お盆を振り上げるおまさ。「すまん。」とすぐに謝って前言を撤回する永倉。

壬生の屯所。沖田と藤堂が話しています。「どういう事。」「会わせたい人が居るんです。」「誰?」「来れば判ります。」「誰だよ。」「良いから早く。」と藤堂は、屯所の一室の前まで沖田を連れて行きます。「平助です、沖田さんを連れてきました。」と声を掛けて障子を開ける藤堂。中を見て、驚いて口を開ける沖田。そこにいたのは、近藤の妻のつねと総司の姉のみつでした。沖田を見て嬉しそうな藤堂。彼が江戸から連れてきたのですね。どうだ驚いたでしょうと言わんばかりです。「総司!」と明るく声を掛けるみつ。「姉上!」と思わず叫ぶ沖田。「つねさんも!」とまたも叫びます。にっこり笑うつね。「びっくりしてる。」「びっくりしてる。」とうれしそうなつねとみつ。「あー。」と藤堂を見やる沖田。

寺田屋で、お登勢と対面する近藤。背後には井上が控えています。「本日は、ようこそ、お越し下さいました。」とあいさつをするお登勢。「色々と便宜を図って貰って、済みませんでした。」と近藤。「正直、新選組は好きになれしまへん。けどなぁ、京屋忠兵衛はんから聞きましたわ。ここは、病勝ちな太夫を助けたいという、あんさんの心に打たれたと思て欲しい。」京屋忠兵衛というのは、大阪八軒屋にあった、新選組御用達の船宿の主人の事です。このため新選組とは浅からぬ縁がありました。「ゆうときますけど、新選組は大嫌いや。手貸すのは今度だけ。」泣く子も黙ると言われた近藤に対して堂々たるものです。「なんやら、舟が遅れているらしいんで、着いたらお知らせします。」「かたじけない。」と嫌味を言われたにもかかわらず、律儀に礼を言う井上。黙って頭を下げる近藤。

「えっ、近藤が。」と叫んだのは、寺田屋の別室に龍馬といっしょに居た捨助です。「大阪から来た女はんを、お迎えすると言うといやした。ご到着次第、じきに引き上げるという事でした。」とお登勢。「わざわざすまんかったにゃ。」と考え深げに言う龍馬。「なんの、なんの。」と出て行くお登勢。「時間がない。おまんに頼みたい事がある。」と捨助にいう龍馬。「桂さんに会わせてくれ。」「そりゃ、無理だ。」と断る捨助。「至急、桂さんと話したい事があるがじゃ。」と龍馬。「でも、先生がなんて言うか。」「手紙を書いたき、これを渡してくれ。日本国の行く末が左右される大事な話じゃき。」と手紙を捨助に渡そうとします。捨助は、一旦受け取ろうとしますが、すぐに思いついたように手を引きます。「じゃあ、こっちの頼みも聞いてくれるか。」と交換条件を出します。「わしが出来る事やったら。」「おりょうさんをくれ!」ととんでもない事を言い出す捨助。日本の将来を左右するという手紙に対して、随分と軽い交換条件です。しかし、龍馬にとっては重い事でした。しばし、呆然とする龍馬。「惚れちまったんだよ。俺、あの子と夫婦になりてぇんだ。」と捨助。「おりょうは、何て言う?」「まだ聞いてない。」「あいつがええがやったら、わしは別に構わんぜよ。」と言ってしまった龍馬。おりょうの事を信用しているのでしょうか。それとも、まだ自分の気持ちに気付いていないのか。「約束してくれるか。俺のもんになっても、文句の言いっこは、なしだぜ。」「判ったき。」「よっしゃー。」嬉しそうに立ち上がる捨助。これでよかったのかなと言いたげな龍馬。

以下は明日アップします。

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2004.08.26

新選組!異聞

今日は、これまで紹介してきた新選組隊士について得た新たな情報の紹介と、若干の訂正をしたいと思います。題して「新選組!異聞」。

まずは、山南敬助。

山南敬助についての基本的な情報として、北辰一刀流の使い手というものがあります。これは、永倉新八が「殉節両雄之碑」の拓本の余白に「剣術北辰一刀流千葉周作門人免許、新撰組副長山南敬輔」と書いてある事が根拠になっていて、疑う余地のないものとされてきました。ここから、山南=北辰一刀流=尊王攘夷思想の持ち主という図式が出来上がり、近藤、土方との対立や、同門である伊東甲子太郎との繋がりが説明されてきました。ところが、この図式を否定する資料があったのです。

柳剛流の剣客である中山幾之進という人が残した「攪撃修行録」という資料があるのですが、これは幾之進が修行の為に行った剣術の試合の記録として、対戦した相手に流儀、氏名を書いて貰ったというものです。その中に「飯田町堀留大久保九郎兵衛門人 一刀流 山南敬輔」という署名があり、試合があったのは1853年(嘉永6年)4月15日の事と推定されています。この山南の師匠である大久保九郎兵衛は、北辰一刀流ではなく小野派一刀流の使い手でした。この後九郎兵衛は1856年(安政3年)に亡くなっており、一方、山南が試衛館に居た事を確認出来るのが1861年(万延2年)です。山南が試衛館の門を叩いたのはこの5年の間の事だったと考えられ、北辰一刀流に入門して免許皆伝を受けるまでの時間的余裕はないと考えて良さそうです。(「新選組銘々伝」)

山南が北辰一刀流ではなかったからといって尊王攘夷思想を抱いていなかった事にはなりませんが、少なくとも伊東甲子太郎や藤堂平助との関係を、同門だから濃厚のものがあったとする従来の解釈は訂正を迫られる事になると思われます。

次に、河合耆三郎

前回書いた時には、河合が新選組に入った動機として「武士になれるのが魅力だったのではないか。」と書いたのですが、河合家に伝わる話では「ぐらつく徳川幕府を立て直すという大志を抱いて故郷を出た。」とされているようです。それからすると、商人の子として会計方に回されたのは不本意な話で、戦う会計方として池田屋事件に参戦したのは、彼にとってはむしろ本望だったという事になりそうですね。

次に彼の死についてですが、前回は新選組始末記の「隊士絶命銘々録」の記述から斬首と書きましたが、新撰組始末記では不算の譴責を被り切腹したと書かれています。また、新選組始末記の方にも、一説として帳簿の付け間違いから生じた出納の不算の責任を取って切腹したという記述があり、「隊士絶命銘々録」にあるような斬首を巡るいきさつはなかった可能性があります。

また、彼の墓についてですが、現在壬生寺にある立派な墓碑は彼の死を悼んで親戚一統が建てたとされていますが、実際に建てたのは彼の姉妹や弟で、それもずっと後年になって明治以後に建てられたものです。さらに、彼の葬式の際に親族達が1000両箱を馬の背に乗せて屯所前を行き来したという話や父親が50両を持って駆けつけたという話については、河合家によれば当時はかなりの窮乏にあえいでいた時期であり、とてもそんな余裕は無かっただろうとされています。これらからすると、「隊士絶命銘々録」の記述は、子母澤寛による創作という可能性が高いような気がしますね。(「新選組銘々伝」)

3つ目は、内山彦次郎の暗殺

内山については、新撰組始末記の記述からかなりの能吏だったと書きましたが、彼は多くの方によって研究されており、「大阪町奉行きっての財政通であり、敏腕な与力であった」ことが証明されています。その裏付けとして、与力としては破格な扱いである「御目見」の資格が与えられています。また彼は、有力な町人との間に一定の距離を置いて一切私邸には入れなかったともされ、潔癖さを誇り、難波の三傑の一人に数えられるような人でした。しかし、その一方で、内山の裁きを受けた側からは、収賄による依怙贔屓を行った極悪非道の輩と酷評を受けてもいます。どうやら敏腕なあまりに、仕事を忠実に実行した結果恨みを買う事も多かった人のようですね。

この内山の暗殺犯ですが、「重兵衛事山崎要蔵一条覚」という資料に、内山殺害を山崎が手引きして、長州の中島作太郎、筑前の結城一郎、肥後の津田小田郎が暗殺を実行したとあるそうです。この山崎要蔵は、新選組の山崎蒸とは全くの別人で、これからすると暗殺の実行犯は、新選組ではなく西国浪士の仕業という事になりそうですね。ただし、実行犯とされる三人は特定されておらず、現在のところあくまで一説に止まるようです。(新選組人物誌)

4つ目以降は訂正です。

まず、浅野薫の紹介の中で、「(佐久間象山の息子である)三浦敬之助は父の敵を討つ為に、勝海舟の紹介で新選組に客員として迎えられていました。」と書きましたが、三浦を新選組に紹介したのは会津藩士で佐久間象山の弟子でもあった山本覚馬でした。海舟には、あとで土方が書簡で知らせているようです。(新選組銘々伝)

次に、谷昌武についてですが、彼の新選組内での地位については「局長付又は平隊士」としたのですが、1867年(慶応3年)の編成変えの時に、諸士取締役兼観察に就いていました。ただし、この時には養子ではなくなっており、谷周平と名乗っています。(新選組全史)

そして、昨日と一昨日にアップした山南の脱走について。

まず、「新選組始末記では、宿を取っていた山南を見つけてすぐに連れ帰ったとあり、一泊したという事実はない。」と書いてしまいましたが、良く読んでみると見つけたのは21日の事で、連れ帰ったのは翌22日の朝となっており、確かに一泊したことになっています。ドラマは、この記述に従ったのですね。

次に、明里について輪違屋所属の天神と書いてしまいましたが、これは私の思いこみでした。新選組始末記には、明里は単に島原の天神とだけ書かれており、輪違屋とは書かれていません。よって、昨日の記述は一部変更させて頂きます。

以上、お詫びと訂正です。申し訳ありませんでした。

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2004.08.25

新選組!25の2

新選組! 第33回「友の死」その2

「つまり、土方さんは、山南さんを憎んでたん?せやから、切腹させるんやろ?みんな、そう思てるわ。」とひで。実際、今に伝わる山南の切腹の原因は、土方との確執がもつれた為というのが通説になっています。「どんどん、土方さんの事が嫌いになっていく。」このドラマを見ている山南ファンの気持ちを代弁するかのようなセリフですね。「それは違う。」と言い出したのは、意外にも普段他人の事には感心が無いと言っている斉藤でした。「いつだったか、大阪船場のなんとかいう呉服屋に、不逞浪士が金をゆすりに押しかけた事があった。知らせを受けて、たまたま大阪に居た土方さんと山南さんと俺が店に向かった。(以下、斉藤の回想シーン:このとき、山南さんは浪士に刀を折られ、危うく斬られそうになったのだが、土方さんが相手の浪士を背後が斬りつけたため難を逃れた。土方さんは何事も無かったかのように倒れている山南さんに手を差し伸べ、山南さんはややためらいながらも、恥ずかしげにその手を借りて立ち上がった。)俺から見ると、あの二人は互いに敬い、認め合っていた。」

これは、大阪岩城升屋事件の事でしょうね。この事件については以前にも書いてた事がありますが、岩城桝屋というのは大阪の高麗橋にあった大きな呉服屋で、江戸にもその支店がありました。その店は大阪の名所に一つ数えられる程の立派なもので、当時の旅行記にわざわざ見物に出かけた事が書かれています。また、大塩平八郎の乱の時にも豪商の一つとして標的にされ、砲撃を受けた事がありました。この大阪有数の大店に押しかけた不逞浪士を山南敬助が討ち取ったという記録が、その時折れてしまった山南の愛刀「赤心沖光」の押し型と共に残されています。ただし、このとき山南の他に誰が居たのかは判っていません。

これについては、良く似た出来事として鴻池家を強請ろうとした浪士を新選組が斬ったとする事件があるのですが、この時も山南が刀を折ったとされており、この類似性からこの事件の舞台は鴻池家ではなく実は岩城桝屋だったのではないかとする説があります。この鴻池事件については、一緒に戦ったのは土方と山南とする説と近藤と山南とする説があり、後者の場合は山南の折られた刀の代わりに近藤が自分の履刀を与え、近藤自身は鴻池家(岩城桝屋)から虎徹を貰ったという事になっています。このドラマでは、前者の説を採ったのですね。

「そしたら、何で山南さんは、死なんならんの?」「法度に背いた者は切腹、それだけの事だ。」斉藤の答えは明確です。「どうして、こういう事になるのかなぁ。私の好きな人は、みんな私の刀で死んでいく。私は..、私は、こんな事のために剣を学んで来たんじゃない。」そうつぶやくように言う沖田の表情は、悲痛そのものです。芹沢を斬った時の事も思い出しているのでしょうね。ひでは沖田の心を知って慰めたかったのでしょう、そっと背中に近寄ります。しかし、前日の沖田の言葉がひでを阻みます。思いを伝える事が出来ないひでが哀れですね。

この沖田の心境を伝える手紙が残されています。山南が死んだ翌月の3月21日に佐藤彦五郎に宛てて出した手紙がそれで、時候のあいさつと、皆が変わりなく過ごしているという報告、そして土方が間もなく江戸へ帰るという連絡の後にこう書かれています。「山南兄去月廿六日死去仕候間、就而一寸申上候。(山南兄が先月26日(この日付はおかしいですが)に亡くなった事を、ついでながらちょっと申し上げておきます。)」これをどう解釈するかは意見が分かれる所ですが、私としては、沖田にとっては山南の死は耐え難い出来事であり書きたくもない事なのですが、かといって黙っている訳にもいかず、わざと軽い調子でついでの事として書いたと思いたいところです。その前段に京都での出来事の委細については土方に聞いてくれとあり、とても自分では詳しく書く気になれなかったのではないでしょうか。ちなみに、この沖田の手紙と前後して出されている近藤や土方の手紙には、山南の死について触れたものはありません。これが何を意味するのかは、謎としか言いようがないようです。

再び、山南の部屋の前に戻っている島田魁。今度は立っています。そこへ現れた井上源三郎が、「土方さんがお呼びだ。」と声を掛けます。「えっ、またですか。もう、一度で済まして欲しいんだよな。」と今度は素直に持ち場を離れていきます。「お食事でございます。」と声を掛けて部屋の中に入る井上。「これは、済みません。」と迎える山南。「山南さんが、好きなものを揃えてみました。」と井上は山南の前に膳を置きます。「源さんが作って下さったのですか。」「はい。」「ただ、どうなんでしょう、切腹の前に食事というのは。腹を切った時に見苦しい事になりはしないだろうか。」「そこまでは、考えませんでした。」腹を切った時に飯粒などの食べたものが飛び散って見苦しくなるとして、切腹の前には本格的な食事は控えるというのが作法の一つでした。薄いかゆとか、食べて良いものは決まっていたそうですね。井上の家は、八王子千人同心の家柄ですから作法を知らないはずは無いと思うのですが、井上の狙いは別の所にありました。「置いておいて下さい。暫くは、目で楽しませて頂きます。」最期の時に好きなもの食べられないと言うのも寂しい話ですが、目で楽しむというのも慰めの一つにはなったかも知れません。「これは、持っていって下さい。」と山南は、竹の皮に包んだ握り飯を井上に渡します。無言で受け取る井上。「島田君を呼び戻す事も、お忘れなく。」この食事を持ってきたのは、切腹などせず、好きなものを食べて腹ごしらえをして、どうか逃げて下さいという井上流のメッセージだったのですね。しかし、山南の決意は変わる事はありませんでした。

座禅を組む近藤の所に、尾形がやってきます。「局長、よろしいですか。山南先生に会いたいという者が、参っていますが。」山南を訪ねてきたのは、明里でした。「明里が?丹波に帰るように言ったのに。」「会いますか?」と近藤。「申し訳ありません。」と山南。山南の部屋に通される明里。それを見守る永倉、原田、松原の3人。

部屋の中では、明里と山南が向かい合って座っています。山南の背後には、近藤が控えていました。「どうして、戻ってきた。」「そうかて、帰れ言うたかて、一人じゃ無理や。」「だからと言って。」と山南は困った様子です。「なあ、一緒に行こ。」と甘える明里がなんとも可愛いです。「うちな、もう先生と一緒やないと、生きていかれへんねん。」「無理を言わないで下さい。私は、これから行かねばならない所があるんです。」「そしたら、うちも付いていく。」「それは出来ない。」「邪魔にならんようにするから。後ろの方から、そっと付いていくから。せやからなあ、うちを一人ぼっちにせんといて。」一度は郭に売られた明里です。里に帰ったとしても、周囲の見る目は冷たいものだと知っているのでしょうね。その様子を辛そうに背後から見ている近藤。その近藤に向かって「あんたからも頼んで。」と明里は言い出します。近藤は、明里の隣にまでやってきて、静かに言います。「暫く山南先生は、あなたと会う事は出来ない。あなたの事は、我々が必ず無事に親元まで送り届けます。」しかし、「いやや、うちは山南さんやないと。」と明里は聞きません。「わがままを言うな!」とついに山南が切れます。その剣幕に驚く明里。山南は、すぐに平静に戻って「これ以上、私を困らせるな。」と静かに言います。呆然と山南を見つめる明里。山南は、明里のほつれた髪を直してやります。そして、頬に触れながら「必ず行くから。丹波で待っていなさい。」と優しく言ってやります。「いつ来る?」「約束は出来ないが、必ず行く。」「ほしたら、一緒に富士山見に行こうな。」「約束する。」「きっとやで。」「ああ。」「忘れたら、あかんで。」そう言って、明里は嬉しそうに笑って、山南に抱きつきます。その様子を見ていた近藤は、遂に居たたまれなくなり、そっと部屋を出て、別室で泣き崩れてしまいます。その様子を見ている松原、永倉、原田の3人の隊士達...。

夜、山南の切腹を前に集まった、伊東、武田、永倉、原田、斉藤、井上、土方、そして近藤の面々。それぞれ、新選組の正装である浅葱色の羽織を着ています。一方、別室で死装束に着替え、静かに時を待つ山南。トントントン、トントントン。不意にその部屋の窓を叩く音がします。不審に思った山南が障子を開けると、にっこり笑った明里の顔がありました。「先生。」「まだ、居たのか。」明里は息を弾ませています。「これ。」と取りだしたのは、黄色い花でした。「菜の花やろ?」紛れもなく、菜の花でした。それをじっと見つめる山南。「菜の花だ。」「うふふ、そこに咲いてたの、見つけたんや。」すぐそこで咲いていたように言う明里ですが、恐らくは山南に見せようと必死になってあちこちを探していたのでしょうね。「今頃でも咲く事あるんや。なぁ、うちの言うてたとおりやろ。」「私の負けだ。」「うふふふっ。」と嬉しそうに笑う明里。明里の背後には、山崎が居ました。「山崎君、明里の事、よろしくお願いします。」「必ず送り届けますので、ご安心下さい。」「待ってるからな。」と笑顔で言う明里。「ああ。」そう言って、明里と暫く見つめ合ったあと、山南は静かに障子を閉めてしまいます。

その障子を見つめながら、さっきまでと違って、静かな調子で明里が言います。「あの人、偉い人なん?」「新選組総長、山南敬助さんです。」と厳かに答える山崎。「何、しでかしたん?」と山崎の方を振り向きながら、「切腹するんやろ、これから。そうかてあれ、死装束やもん。」「先生は、人の道に背いた訳ではない。」と、懸命な調子で言う山崎。「安心した。」と笑う明里。「ご存知やったんですか。」「うち、それほど阿保やないもん。うちが泣いたら、あの人悲しむだけやろ。ほやから、騙してやったん。先生も、すっかり信じ込んで。案外、あの人もああ見えて信じやすいんやな。」泣くのを堪えていた明里は、ついに堪えきれずに、泣き顔になってしまいます。「阿保や。」そう言い残して、明里は去って行きます。彼女にすれば生きている事こそが大事で、観念に従って死のうとする山南が阿保に思えたのでしょうね。

この明里については、子母澤寛の「新選組始末記」にだけ出てくる人物で、恐らくは子母澤寛の創作だと思われます。「新選組始末記」については、長い間、子母澤寛が壬生の生き残りの人達から聞き集めた実見談に基づいて書いたもので、全てが史実だと思われて来ました。ところが、その後の研究でかなりの部分に創作が入っていることが判っています。特に子母澤寛自身が、「一番良い所は、全部私の創作だ。」と言っており、物語的に描かれた部分はほとんどが創作と見て良いようです。少し前にベストセラーになった「輪違屋糸里」は新選組始末記に出てくる糸里という名前をヒントにした作品ですが、この糸里は実在の人物ではないようです。この系統の源氏名は輪違屋には無いそうですね。明里もまた島原の天神とあるだけで、その存在は確認されていません。ですから、山南と明里の別れの場面も創作という事になりそうですが、それでも私はこの場面はあったと思いたいです。それほどに綺麗な場面ですし、無かったとなれば山南が哀れすぎるではないですか。

また、ドラマで明里を送っていったのが、山崎だったというのも意味深長ですね。実際に山崎が送ったのは、山南自身でした。光縁寺に山南の墓があるのですが、そこに山南の遺体を運ぶ頼越人となったのが山崎で、光縁寺の過去帳に記載されています。山南の墓は、当時は台座の付いた立派なもので、今の倍ほどの大きさがあったそうです。その後、京福電車の工事によって今の場所に移され、台座もはずされて現在の姿になったそうです。ですから、実際に山南が眠っているのは、線路の下という事になりますね。

山南が端座する横の障子を開けて、土方が顔を見せます。土方は何も言わずに去ろうとしますが、山南から声を掛けます。「悔やむ事はない。君は正しかった。私を許せば、隊の規律は乱れる。私が腹を切る事で、新選組の結束はより固まる。それが総長である私の、最期の仕事です。」晴れ晴れとした表情で淡々と語りかける山南の言葉を背中で聞きながら、そっと振り向いた土方の顔は、寂しさを堪えた子供のようでした。

切腹の座に着く山南。軽く一礼して、裃を取り、着物を脱ぎ始めます。山南の前には、幹部の面々が座っています。じっと見据える近藤、視線をそらす斉藤、まともに見ていられない土方、凝視する井上、事務的な感じで見つめる武田、痛ましそうに目を伏せる伊東...。

上半身裸になり、短刀を手にして紙で巻く山南。その横でたすき鉢巻きで身支度をした沖田が刀を抜きます。「声を掛けるまで、待つように。」と沖田に言った山南は、三方を腰掛けにして、腹に手を当てます。それを見つめる近藤と土方の目には、涙が浮かんでいました。山南の切腹は、作法通りの見事なものだったと伝えられています。

全てが終わった後、縁側で放心したように腰掛けている近藤と土方。その背後に伊東が現れます。「見事な、ご最期でした。山南君を偲んで、一首詠ませて頂いた。春風に、吹き誘われて山桜、散りてぞ人に、惜しまるるかな。お辛いでしょう。お二人の心中、察して余りあります。」策士とされる伊東ですが、この時の言葉に偽りはなかったでしょう。しかし、近藤にとっては、所詮伊東は他人でした。「あなたに、何が判るというのか!」近藤にそう叫ばれた伊東は、心外だったのでしょうが、黙って引き下がります。後に残った近藤と土方は、男泣きに泣き出します。土方は、日頃の冷徹さはすっかり消え、親を亡くした子供のように泣き崩れます。近藤がそれを支えるようにして抱きかかえ、いつまでも二人で泣き続けるのでした。

このドラマでは、伊東が酷く扱われていますが、実際に最も山南の死を悼んだのは伊東でした。彼は、ドラマにあった歌の他に三首もの追悼の和歌を詠んでおり、生前に厚情があった事を伺わせています。先に書いたように、永倉とともに命がけで助命しようと尽力したのも彼であり、今回の演出はちょっと可愛そうな気がしますね。ただ、山南が情に流されやすいと言ったその本人が、山南の最期の場面では居たたまれないような表情になっており、それが彼の弱点という事なのでしょうが、しかしまた本当の人柄を表してもいるようで、救われたような気もします。

山南の切腹については、脱走が原因ではなく、浪士組が京都に着いた日を選んだ意図的なものではなかったかとする説もあります。新選組が当初の攘夷の魁となるという目的を忘れて幕府の爪牙となり、西本願寺という由緒ある寺院を力ずくで脅すという暴挙を犯す組織になった事に耐えきれず、初心を思い出させるためにその日を選んで自裁したのではないかと言います。新選組を抜ける事は理由さえあれば可能(現に武田や浅野は、後に隊を抜けています)であった事を考えると、わざわざ脱走する必要はなく、それからすればこういう解釈もあり得るのかなという気もしますね。

この項は、永倉新八「新撰組顛末記」、子母澤寛「新選組始末記」、新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」(「新撰組始末記」「沖田総司の手紙」)、別冊歴史読本「新選組の謎」、河出書房新社「新選組人物誌」、歴史群像シリーズ「血誠 新撰組」を参照しています。


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2004.08.24

新選組!25

新選組! 第33回「友の死」

山の斜面一杯に咲いた黄色い花を摘む明里。それを優しく見守る山南。「見て、見て。」両手に持った花を明里が山南に見せます。「何の花か知ってますか。」「菜の花。」「菜の花は、まだ咲かない。」「咲くよ。」「もっと、暖かくなってからです。」「けど、咲く事もあるやろ。」「ないですね。これは、水仙です。」「水仙?」「菜の花は、もっと黄色くて、花も小さいし、葉の形も違う。何もかも違う。」花を巡る何気ないやりとりですが、これが後で重要な意味を持ってきます。野育ちの明里は自分で実見した事を言っているのですが、山南は本で得た知識を語っています。「うちは、何を見ても菜の花に見える。」本筋には関係ないのですが、この場面を設定する時に、寒い時期に咲く黄色い花として水仙が選ばれたそうですね。この水仙の原産地は地中海沿岸で、平安時代末期に日本に渡来したとされます。日本に多いのは「寒咲き日本水仙」で、主として海岸沿いに自生していますが、この花は花弁が白で副冠が黄色いのが特徴です。番組に出て来たような全てが黄色という花は園芸品種で、山の中に自生しているという事はなく、誰かがここに植えたという事になるのでしょうね。明里が黄色い水仙を知らなかったのは、貧しい農家に生まれた彼女は畑で栽培されたり野草化した菜の花は知っていても、観賞用の黄色の水仙とは縁が無かったからという事になるようです。

「行きましょう、少し急いだ方が良い。」「そんなに急かさんでもええやん。」「とりあえず、草津までは急ぎましょう。」「あわてん坊やな。」山南としても、無事に江戸まで行きたいという気持ちはあったようですね。あるいは、明里に富士山を見せてやるという約束だけは叶えてやりたかったのか。ところが、明里は座り込んでしまいます。「どうしました?」「お腹減った。」困ったような、あきれたような山南。しかし、すぐに優しい顔に戻ります。

馬に乗りながら、ほとんど人が歩くのと変わらないくらいゆっくり進む沖田。「草津から先は道が二つに分かれている。東海道と中山道だ。そこを過ぎると、連れ戻すのは難しい。」出発前の近藤とのやりとりが蘇ります。「行かせてあげましょうよ。山南さんには、山南さんの考えがあるのだから。」「勝手に隊を離れてはならん。それが法度だ。」「じゃあ、法度に背いた山南さんは、切腹ですか。」「あの人もそれは覚悟の上のはずだ。」「本気で言っているんですか。ずっと一緒にやってきた仲間じゃないですか!」「総司、俺が何故お前を行かせるか、その意味を良く考えてみろ。」と近藤。「新選組局長である以上、逃げた隊士を見逃す訳にはいかん。しかし、見つからないものはしょうがない。草津まで行って、山南さんに会えなかった時は戻ってこい。」近藤の意図する所が判って、晴れ晴れとした顔になる沖田。「行け。」念を押すように近藤は出発を命じます。

山道の脇にある茶店で休む、山南と明里。団子を食べています。「食べへんの?」「いや、私は。」内心、苛立っているような山南。早く先に進みたいのでしょうね。「一個だけ食べたら。ええよ、ぱっと口で。」山南は仕方なく、団子をほおばります。武士としてはあるまじき、はしたない姿ですね。「おいしい?」「ああ。」「串団子って、五つ付いてるやない。はじめの二つは楽に取れるけど、3つめになると段々難しなるやん。奥の方にあるから、串が喉に刺さりそうになるな。」と串の先から口の中に入れて「うぇっ」となる明里。「先生は、どうやって食べる?」「いや、考えた事も無かったのだが。」「ふふふっ」「どうした。」「先生でも、知らん事あるんやなって。ほな、うちが教えてあげる。」と楽しそうな明里。「お願いします。」と頭を下げる山南。「初めてやね。うちが、先生にもの教えるの。」「団子が、奥の方にあって食べ辛ろうなったらな。」と明里は串を逆さまに持ち、反対から団子を食べてしまいます。得意そうに山南を見る明里。「なるほど。」と心底感心したような山南。武士としての教育を受けてきた山南には、思いも付かぬ発想だったのでしょうね。明里と居ると、こういう新鮮な発見があるのが楽しいのでしょう。あるいは、今までの世界を捨てた事で、山南にも新しい世界が広がったのかも知れません。「お茶、もろて来てあげるね。」と座をはずす明里。一人になった山南は、予感がしたのでしょうか、来た道を見やります。そして、馬に乗りながら、のんびりと周囲を見ながらやってくる沖田に気付きました。一瞬とまどいを見せ、瞑目する山南。やがて、全てを諦めたかのように微笑を漏らし、意を決して立ち上がります。往来の真ん中に立ち、向こうからやってくる沖田に向かって、「沖田君、ここだ!」と叫びます。その声に驚き、とまどいを見せ、馬を止める沖田。なんでと言いたげな表情が切ないですね。

この山南の逃避行は、山南にとって一種の運試しだったような気がします。明里を無理にせかせるでもなく成り行きにまかせ、追っ手に見つかればそれまでの事、上手く逃げおおせる事が出来れば江戸で二人で暮らす。かなり分の悪い賭ですが、それが山南の心境だったのでしょう。また、追っ手が沖田でなければ山南はどうしたでしょうか。相手によっては切り伏せてでも逃げたのか、それとも茶店の奥に隠れたのか。少なくとも、相手が沖田なればこそ、堂々と呼ばわったのでしょうね。もしかすると近藤の思いやりは、返って仇となったのかも知れません...。

大津の宿で一泊する山南と沖田。脱走した山南を沖田が馬で追い、大津で追いついた事は「新撰組顛末記」や「新選組始末記」に出て来ます。顛末記では単に追いついたとあり、始末記では宿を取っていた山南を見つけたとあります。また「新撰組顛末記」では直ちに連れ帰ったとありますが、「新選組始末記」では、翌朝早朝に出立したとあり、一泊して帰ったという事になりますね。それから司馬遼太郎の「燃えよ剣」では馬で追った沖田が、大津の茶屋でくつろぐ山南から声を掛けられ、その後すぐに連れ帰るには忍びずに一泊して帰ったという設定になっています。このドラマでも、この小説のシチュエーションを踏襲しているのですね。

沖田と山南の会話。襖にもたれながら、山南を見ずに沖田が言います。「色々あったの知ってるけど、逃げる事ないじゃないですか。卑怯ですよ、そんなの。」「確かに、卑怯かもしれないな。」山南を横目で見るようにして沖田が聞きます。「一番の訳は、何なんですか。」「強いて言えば、疲れた。」「そんなの、みんな疲れてますよ。こっちに来て働き詰めだし、駄目だよ、そんなの。言い訳になりませんよ。」と沖田は腹立たしそうに言います。彼は、山南の言う疲れを肉体的なものと解釈し、心の深い場所にある絶望を伴った疲労感を理解することが出来ないようですね。「怒られてしまった。」山南も、今さら沖田に説明する気もなかったのでしよう、沖田の言葉をそのまま受けてやります。「山南さん、こうなったらもうしょうがないですから、このまま江戸に行って下さい。私と会わなかった事にして。」と沖田は山南に迫ります。これは、近藤や土方も同じ思いでした。沖田なればこそこの二人の思いを伝える事が出来る、そのために近藤は沖田を追っ手に選んだのです。「それは出来ぬ。」「それしかないですよ。」「こうして君と会ってしまった以上、もう私は逃げるつもりはない。」賭けに破れた以上、じたばたせずに運命に従おうとしているようです。「駄目ですよ。」沖田は山南の翻意を促そうと懸命です。「私は法度に背いた。それがどういう事か、よく判っている。」「戻ったら、切腹しなくちゃいけないんですよ。」黙ってうなずく山南。「駄目だよ、そんな。だって、誰もそんな事望んじゃいないんだから。」言外に、近藤や土方の意思を伝えようとする沖田。それが判っているのか、山南は表情を消したままです。「お先に、お湯頂きました。ものすごう、気持ち良かったよ。」と明里が部屋に帰ってきます。「おにいちゃん、入って来たら?」と沖田に声を掛け縁側に座る明里。「申し訳ないが、暫く二人にさせて貰えないか。」と山南。仕方がないという風に「お湯に入ってきます。」と力無く言って沖田は部屋を出て行きます。

「明里。こっちに座って。」と山南に呼ばれた明里は、縁側から部屋に入り、山南と差し向かいに座ります。「申し訳ないが、私は京に戻らねばならなくなった。」「わっ、急やね。」「富士山は、また、次の折りに。」次など無い事を隠し、明里に言う山南。「仕事?」「はい。」「これから帰るの?」「今夜はここで泊まって、明日の朝戻ります。」「うちは?」「あなたは、付いてくる事はない。」「いやや、うちも戻る。」こういう明里は、やはり可愛いですね。「あなたは、丹波へ帰りなさい。親元へ。」「けど、お店がある。」「妙に感謝されても困るので、今まで黙っていたのですが、私はあなたを身請けしたのです。」やはり、山南は明里を身請けしてやっていたのですね。しかし、身請けされた本人が知らないというのも変な話ではありますが。「身請け?」「もうあなたを縛るものは何もない。」「ねぇ、ね、なんでそないに親切なん?」「おかしいですか?」「おかしいやろ。身銭切って、うちみたいな女身請けして、挙げ句の果てには丹波へ帰れて、どないなってんのん。」確かに、普通では考えられない浮世離れした話ではあります。山南は、明里の手を取り、語りかけます。「私は、あなたに感謝しているです。心の底から。」「嘘や。」「嘘ではない。」「そうかて、うち、何もしてへんよ。」黙ってかぶりを振る山南。山南が最も苦しかった時、唯一の話相手になってくれたのが明里でした。明里の持ち前の天真爛漫な明るさと、芯の強さ、そして可愛らしさが、どれほど山南にとってありがたかった事でしょう。血なまぐさい荒涼とした世界に、平凡ながらも暖かい幸せをもたらしてくれたのが明里でした。明里と居るときだけ、山南は安らぎを感じる事が出来たのです。「訳わからんわ、この人。」山南は黙って明里を抱きしめます。「今度いつ会える?会うてくれるんやろ?そうかて、うちは、あんたのもんや。ほったらかしにしたら、あかんねん。」「そのうち、丹波に遊びに行きます。」「ほんまやな。」と山南を見つめる明里。「ほんまや。」明里の京都弁を真似して答える山南。「うふふ、きっとやで。」と山南にしがみつく明里。「きっと。」と静かな笑顔で答える山南が哀しそうです。

1865年(元治2年)2月23日。山南の命日として記憶される日です。向かい合って座る近藤と山南。近藤は上目遣いに山南を睨み付けています。暫くは言葉を出せない近藤。「どうして戻って来たのだ。なぜ、我らの気持ちを察っしてくれない。」ようやく、絞り出すように、腹立たしげに山南に言葉を投げつけます。「申し訳ありませんでした。」山南は、近藤の気持ちを察しながらも、あくまで脱走した事のみを謝罪します。「悔やんでも、悔やみきれない。」苦い思いを飲み込むように、近藤は続けます。「もうあなたも判っていると思うが、こうなった以上、私はあなたに切腹を申し付ける事になる。」「覚悟はしております。」と穏やかに答える山南。「残念です。」と近藤。暫く無言で向き合う二人。「今日が何の日か、ご存知ですか。2年前のこの日、我らは京に到着した。」偶然ながら、山南の命日と浪士組が京都に着いた日は重なっていました。「そうでした。」「まさか、これほど長い間、京に止まるとは思ってもみなかった。」「私はあなたに出会い、あなたに賭けた。近藤勇のために、新選組のために、この身を捧げてきました。しかし、それはもう自分の手に届かない所へ行ってしまった。ここにはもう、私の居るべき場所はない。」近藤は、洛中の名士としてその名を知られるようになり、今や一人の政客として老中とも対等に話が出来るほどの存在になっていました。また、新選組についても組織は巨大化し、かつての同志の集まりではなくなっていました。今の新選組をまとめていくには土方の方針の方が正しく、また軍略については専門家としての武田が居て、そして政客としての近藤の知恵袋としては伊東が居ました。総長である山南がすべき事は、もう何もなかったのです。少なくとも山南自身はそう感じていました。「こうなる前に、あなたの思いに耳を傾ける事が出来なかった自分を、恥じ入るばかりです。」局長として、部下の思いをくみ取れなかったという責任を感じ、また同志としても思いやりに欠けたという、近藤の心からの謝罪の言葉でした。「その言葉が聞けただけでも、本望です。」山南は近藤の心に触れて救われた気持ちになったのでしょう、悲痛な表情の中にも目は嬉しそうです。居たたまれなくなったように近藤は立ち上がり、障子を開け放ち、山南の背後に背を向けて座ります。局長としては言葉にする事が出来ない、「自分は見なかった事にするから、ここから逃げて欲しい」という近藤勇としての意思表示でした。しかし、その気持ちを知った山南は、自ら障子を閉めてその意思がない事を示し、近藤の前に座ります。そして、沈痛な表情で俯いている近藤に静かに語りかけます。「近藤さん、私はあの日、試衛館の門を叩いた事を少しも後悔していませんよ。」そう言う山南の表情は、静かな中にも覚悟を決めた男の顔になっていました。

「なぜ切腹しなければならないのか。謹慎で十分ではないか。」と土方に抗議する永倉。「隊を勝手に離れた者は、切腹と決まっている。」と平静に言い切る土方。「だけど、山南さんだぜ。」と情に厚い原田。「だからこそ、腹を切って貰わなきゃ困るんだ。ここで山南を助ければ、俺たちは情に流された事になる。それを一度でも許せば、隊はばらばらになる。」感情を抑えた土方の言葉に、原田も黙らざるを得ません。「新参者が口を挟むなと言われそうだが、土方君、厳しさだけが人の心を繋ぎ止めておく方法だろうか。温情を与えるという事も..。」と言いかける伊東。しかし、それを遮るように土方が決然と言います。「新参者は口を挟まないで頂こうか。」山南に対する思いは、自分と近藤にしか判らないとでも言いたかったのでしょうか、土方は伊東を睨み付けます。思わず怯む伊東。「まあ、とにかく、山南総長の処分は、既に決まった事ですから。」と取りなすように言う武田。「局長のお気持ちを伺いたい。」と睨み付けるように近藤を見る永倉。「これは..。」と言いかけた武田を永倉は「うるさい!」と一喝し、「俺は局長の口から聞きたいんだ。」と近藤をみやります。近藤は、感情を押し殺したように静かに語ります。「すでに山南さんは覚悟を決めている。今我らに出来る事は、武士に相応しい最期の場を用意してやる事だけだ。」局長としての重い決断の言葉でした。その言葉を聞き、それぞれに受け止める試衛館の面々。

会議を終え、廊下に出た近藤、土方、井上の3人。その前に、松原、河合、尾関の3人がひれ伏します。「お願いがございます。山南先生をどうか、助けてやって下さい!」「お願いします!私達を採用して下さったのは、山南先生なんです。」彼等の気持ちは近藤には痛いほど良く判っていました。困っている近藤に替わって、井上が彼等をたしなめます。「向こうに行っていなさい!」幹部の決定に隊士が異議を挟む事は、許される事ではありませんでした。しかし、彼等は引き下がりません。「お願いします。」「お願いします。」と口々に叫ぶ松原達。ついに土方が一喝します。「うるせえんだよ、てめえら!一緒に腹切りてえのか!」これ以上の抗議は幹部に楯突いた事になり、彼等もまた処罰の対象となってしまう事になります。切腹と聞いて、黙ってしまう松原達。さすがに、彼等にはそこまでの覚悟は無いのでした。今度は彼等をなだめに回る井上。そんな彼等を、難しい顔で見やる近藤。彼としても言いたい事はあったのでしょうけど、局長である彼が口を開けば取り返しの付かない事になる、それを知っての井上の行動であり、土方の一喝である以上、何も言う訳には行かないのでした。

再び、山南と対峙する近藤。「切腹は、七ツ時にここでと決まりました。」と努めて平静に告げます。「介錯は、どなたに?」「斉藤に頼もうと思っています。」斉藤はよく介錯を努めますが、その腕の良さを買われているのでしょうね。「わがままを言ってもよろしいでしょうか。出来れば、沖田君にお願いしたい。初めて試衛館に伺ったとき、私と試合をしたのが彼でしたから。」新撰組顛末記でも、新選組始末記でも介錯は沖田が努めたとあります。介錯は、最も親しいものが努めるのが通例とされますから、史実においても山南にとって最も心を許せた相手は、沖田だったという事なのでしょうね。

その介錯の指名を受けた沖田は、階段にもたれてぼんやりしています。そう言えば、さっきの会議に沖田は出ていませんでした。近藤、土方の思いやりで、そっとしておいてやったのでしょうか。その沖田を部屋から眺めやる近藤。その気配に気付いた沖田。辛い申し渡しがあった事でしょうね。

土方と対座する八木夫婦。「土方はん。わしはこれまで、あんたらのしはる事には、一切、口出しはせんようにしてました。けどな、今回ばかりは言わして貰います。山南はん、助けてやって下さい。」と源之丞。「それは出来ません。」ときっぱりと断る土方。「悪い人やないです。」と妻の雅。「それは良く知っています。」と土方。「京の町を守るためなら、何をやってもかましまへん。不逞浪士やったら、なんぼでも斬りなはれ。けど、仲間内の殺し合いは、あかん。」と源之丞。源之丞は、元々京都所司代から新選組の宿として協力するよう要請されていたようです。そのためか、京都人にしては新選組に対して「お国のため」だからと寛容だったようです。また、山南についても好意的に見ていたようでした。「親切者は山南、松原」と言われていたように、新選組の中では壬生の人達に評判が良かったのが山南です。新選組始末記には、源之丞は、その最期の日に山南が切腹すると聞いて、急いで前川邸に出かけたとしています。そして、全てが終わった後、あまりの出来事に家には入る事が出来ず、門前でほろりとしながら、息子の為三郎に「あそこの部屋だったそうだ。」と言って、山南が切腹した部屋の出窓もいつまでも見つめていたとあります。「今度で何人目どす。もう、うちから死人を出すのは後免や。」と雅。「山南は、向かいの前川邸で腹を切ります。」とはぐらかす土方。「この村を血でけがすような真似は、して欲しないんや。土方はん、山南はんを死なしたらあかん。」「源之丞さん、それはあなたが言う事ではない。」と土方。確かに、新選組内部の仕置きに、八木家が口だしをすべきではありませんでした。史実でもそういう事はなかったでしょうね。しかし、源之丞の気持ちとしては、前川邸に駆けつけたというのは、なんとか止めたかったからのような気もします。しかし、節度を知る人として、口に出す事は決してなかったと思われます。

山南の部屋の前で、座って番をする島田魁。部屋の中では、山南が河合と尾形を相手に話をしています。「新選組がいつどこで、どのようなお役目を果たしたか、常に書き留めておくようにしましょう。」と山南。「われわれがこの町で、実際にどんな事をしてきたか、それを正しく後の世に伝えるのは大切な事です。」「承知いたしました。」と答えたのは尾形です。文学師範を務めた彼なら適任だったのでしょうけれども、彼の残したものは現在伝わっていません。実際に残したのは、外で番をしている島田であり、永倉でした。彼等の記録により、新選組の正しい姿を知る事が出来るのであり、さもなくば新選組は血に飢えた殺人集団という評価だけが残ったことでしょうね。彼等の功績は大きいとしなければなりません。「それから、河合君、金の出入りは常に事細かく記録しておくように。わずかばかりの貸し借りでも、後で返した返さないで揉めないためです。」「承知。」この河合が残したものではありませんが、慶応3年11月から翌年にかけて新選組の金銭の出入りを記録した「金銀出入帳」というものが現存しています。これは、当時の会計方が残したものですが、これによって新選組の財政状況を垣間見る事が出来ます。一方、山南から諭された河合が後に金銭の出納の不備という失策を犯す事を考えると、なかなか意味深な場面であるとも言えそうですね。

見張りを続ける島田に話しかける永倉と原田。「山南さんの様子はどうだ。」「落ち着いてらっしゃいますよ。とても、これから切腹する人には見えねえ。」と島田。「土方さんがお呼びだ。」と永倉。「俺を?」と不審そうな島田。「ここは、俺たちが見張っててやるよ。」と原田。「でも土方さんに、ここを動くなと言われてますんで。」「だから、その土方さんがお呼びなんだよ。」と原田。「こういう場合、難しいんだよなぁ。」と島田。直接土方から命令されない限り、持ち場を離れてはいけないというのが規則というものでしょうね。「難しくない。早く行け。」と永倉。この3人は友達でもありますから、話はしやすいのでしょうね。兄貴分の永倉に言われて、やむなく去っていく島田。部屋の中では、山南が書き物をしていました。最期の整理をしているのでしょうか、あるいは遺言を書いているのか。障子を開けて永倉と原田が入ってきます。「今しかない、早く逃げろ。」と永倉。「後は俺たちがなんとかする。」と原田。「私は、逃げるつもりはありません。」と山南。「死んではいかん。」と永倉。「私は、罰せられるべき人間です。」と山南。「何馬鹿なこと言ってんだよ。」と原田。「私を逃がせば、今度はあなた方が罪に問われる事になる。」「俺たちの事は良いんだよ。」「あなたを逃がして、私達も逃げる。」と永倉。「それはいけない。」「はやく、島田が戻ってくる前に。」と原田。山南が立ち上がったのを見て原田は嬉しそうにしますが、山南は二人の前で障子を閉めてしまいます。意外そうな永倉。「身勝手と言われるかも知れませんが、あなた方には、これからの新選組と近藤さんを見届けてやって欲しいのです。」と言う山南は、いつもの冷静さを取り戻していました。「幕府はこのまま威信を取り戻すのか、それとも幕府とは全く違う、新しい国作りの動きが起こってくるのか、それは私には判らない。しかし、いずれにしても時代は動く。新選組は、いやおうなく、その渦に巻き込まれて行くでしょう。永倉さん、そのときあなたには近藤局長の側に居てやって欲しいのです。今まで以上に辛い決断をしなければならない時もあるでしょう。原田さん、あなたの底抜けの明るさが、いよいよ必要になって来る。これからの新選組は、ご両人に掛かっている。」新選組総長として、新選組を支える主力となるべき二人を繋ぎ止める役目を果たそうとしたのでしょうね。

新撰組顛末記では、山南を逃がそうとしたのは、永倉と伊東という事になっています。また、新選組始末記では永倉などとなっていて、他にも居たような含みのある記述になっています。どちらも後の事は自分が責任を取ると言っており、共に脱走するとは言っていません。いずれにせよ、永倉は命がけで山南を助けようとしたのですね。そして、それを知っている山南は、従容として切腹の座に就いたのでした。このあたりは、この時分の武士というもののあり方を端的に表しているようです。今の世の中の常識からは、知る術もない世界のようにも思えます。

「俺がお前を?」と寝ころびながら言う土方。「永倉さんにそう言われました。」と島田。「呼んだ覚えはねえな。」とそっけなく言う土方。「おかしいな。」「近藤さんじゃねえのか。」聡い土方は、永倉達の企みに気が付いて、さらに時間稼ぎをしてやろうとしているようです。しかし、武田が余計な事を言い出します。「局長なら、座禅を組んでいらっしゃいますが。」いらぬ事を言いやがるとでも言いたげな土方。「もう一度、永倉さんに確かめてきます。」と不安そうに言う島田に、「島田、思い出した。呼んだのは俺だ。」と呼び止めます。「やっぱりですか。」と嬉しそうな島田。自分の落ち度では無かった事になり、ほっとしたようです。「すまん、ぼんやりしていた。」「で、なんでしょうか。」土方は、どうでも良いような用事を作り出します。「渡したいものがあったんだ。」と立ち上がって引き出しから何かを取り出しました。「俺の実家から送ってきた、石田散薬だ。」と薬袋を島田に手渡します。「で、何に効くんですか。」「何にでも効く。」「いや、しかし、私は身体は丈夫で、風邪一つ引いた事がないですよ。」「これを飲むと、」と言いかけて武田を見やる土方。「背が伸びる。」思わず振り向く武田。「背丈はもう十分ですよ。」と島田。「いや、もう2、3寸は欲しいところだ。いいから、飲んでみろよ。今飲め。」なんとか時間稼ぎをしようと次から次へと話を続けます。「今ですか。」「これは、酒と一緒じゃなきゃ効かねえんだ。八木さんの台所へ行って貰ってこい。」「しかし、」「行け。」不審そうに去る島田。この際、酒を飲まして徹底的に時間を稼ごうと言うのですね。寝転がる土方。そこへ武田が駆け寄ります。「見せて、頂けますか。」彼は背が低い事を気にしていたのですね。武田は、見事に土方の策略に掛かって、石田散薬を手にします。


以下、後半は明日アップします。


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2004.08.23

山南効果 ホームページアクセス記録更新

新選組!で山南敬助の最期が放映された昨日、わが家のホームページnatureの一日あたりのアクセス数がこれまでの最高記録を更新しました。その数593。これまでの記録が423ですから170も上回った事になります。その内訳は、「山南敬助」や「光縁寺」をキーワードにした検索エンジン経由のものが大半で、番組の影響が如実に表れています。いかに、今回の放送に対する関心が高かったかの傍証になるでしょうか。

また、当ねこづらどきでも今日の20時30分現在で一日あたりのアクセス数が466と記録を更新中であり、同じく山南敬助関係のアクセスが増加の大半を占めています。最終的にはこちらも500は軽く越えてきそうです。

うーん、今さらながら、山南敬助さんの人気ぶりは凄いものがあったようですね。これだけ人気のある人が死んでしまって今後の番組は維持していけるのか、気になるところではあります。

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2004.08.19

新選組!24の3

今回の新撰組!マイナー隊士の紹介は、加納鷲雄です。ドラマでは小原雅人が演じていますが、彼は、三谷幸喜が主催する東京サンシャインボーイズ出身なのですね。「総理と呼ばないで」や「古畑任三郎」にも出ていたとありますが、残念ながら印象に残っていません。このドラマでは、伊東の門下生の筆頭として、冷静なまとめ役といった役どころのようですね。

加納は道之助とも言い、1839年(天保10年)に、伊豆国加納村で高野伴平の長男として生まれました。高野家は伊福屋という屋号で呼ばれる農家で、後に弟が家督を相続しています。加納は、剣術の真似事をする腕白な少年であったといいます。1853年(嘉永5年)、ペリーが下田に上陸してきます。16歳だった加納は、このペリーの行列を見て「子供心にも憎いやつと観念を起こし、為に伊豆に居ても落ち着かぬので、江戸に出て神田お玉ケ池千葉家に入門いたし、剣術を学び、一人でも報いてみようと感じた」と、後に語っています。

加納は江戸に出て深川に住み、千葉一門の谷兼三、小林権右衛門に剣を習います。しかし、1855年(安政2年)10月2日に起こった地震は深川に大きな被害をもたらし、加納は郷里に帰らざるを得なくなります。郷里に帰った加納は、父の薦めに従って嫁を貰い、容という名の娘をもうけています。しかし、加納の情熱は、妻子を得た事でも変わりませんでした。彼は、妻と娘を捨てて、再び江戸へ出ます。1860年(万延元年)に、加納は千葉栄次郎の門下生となります。そして、間もなく加納は、同じく北辰一刀流の同門の先輩である伊東大蔵と出会う事になります。加納は伊東の経営する道場へ通い、後に「師匠同様に致し居りました」と言うようになります。

1862年(文久2年)、加納は横浜に出来た講武所に入って、剣術、槍術、柔術を習い、翌文久3年に篠原泰之進の薦めに従い、神奈川奉行所の下僚として外国人居留地の警備に就きます。これは、居留地のすぐ側にあって攘夷の機会を待つためでした。翌元治元年に筑波山で天狗党が挙兵すると、彼等が横浜に来襲するのを待ち望みますが、彼等が現れる事はありませんでした。

1863年(元治元年)10月ごろ、加納は伊東から新選組入隊についての相談を受けています。伊東はかつての門人である藤堂から勧誘を受けたのでした。彼が言うには、「新選組は攘夷の魁として結成された集団で、浪士取り締まりは仮の任務であり、近藤を始めとする同志は全て勤王のものである。」という事でした。これに加納を始めとする門弟達は賛意を示し、伊東一門の新選組入隊が決まります。

加納は、新選組では始めは谷三十郎の隊に所属し、1864年(慶応元年)6月の再編成で伍長に昇進しています。その前月、加納は伊東と共に会津藩公用方手代木直右衛門らを訪ね、長州再征の不可を論じています。これは、近藤等の出した長州征伐への従軍の嘆願に対応するもので、早くも伊東と近藤の対立の構造が見えています。翌慶応2年には、尹宮朝彦親王の命を奉じて、近江、尾張、伊勢に赴いています。これを機に、加納は、大和、河内、摂津、和泉、丹後などに出張を命じられるようになります。

1866年(慶応3年)3月10日、伊東甲子太郎は、孝明天皇陵の御陵衛士を拝命し、同志を引き連れて新選組から分離をします。加納もその中の一人でした。高台寺頭塔の月真院に落ち着いて勤王の旗を揚げた御陵衛士でしたが、元新選組であった事が災いし、勤王の志士の仲間からは疑いの目で見られてしまいます。彼等は、長州征伐の寛大な措置を求める建白書を老中板倉候に提出するなど勤王派としての活動を展開しますが、周囲の元新選組隊士に対する猜疑心は強くなる一方で、あせった彼等は身の潔白を証明するために、近藤を暗殺して新選組を乗っ取る計画を立てるに至ります。この情報を新選組にもたらしたのが、伊東の下にスパイとして送り込まれていた斉藤一でした。

御陵衛士の企みを知った近藤達は、逆に伊東をおびき寄せ、これを暗殺してしまいます。伊東の死体を七条油小路の四つ角に放置し、引き取りに来た御陵衛士達を待ち伏せして、四方から襲いかかりました。この油小路の決闘により、藤堂平助、毛内有之助、服部武雄の3人が斬り殺されましたが、加納は重囲を破って脱出する事に成功し、薩摩藩邸に駆け込んでいます。

12月18日、加納は、御陵衛士の残党である阿部十郎、篠原泰之進、富山弥兵衛らとともに、近藤勇を墨染にて邀撃し、命こそ取り損ねたものの、肩の骨を砕く重傷を与える事に成功し、とりあえずは油小路の敵を討っています。

その後、薩摩の大久保一蔵等から江戸の探索を命じられ、三田の薩摩屋敷の焼き討ち事件などについて調べて、京都へ向かいます。この途中、赤報隊に加わっていた篠原と再会し、薩摩藩邸への報告は同行していた武川直枝に委ねて篠原と行動を共にしますが、すぐに引き上げの命が下り、京都へ戻ってきます。2月8日、薩摩藩の伊知地正治から関東地理の案内役及び探索を命じられます。再び江戸へ赴いた加納は、4月4日夜、土佐藩から流山で出頭してきた大久保大和という人物は近藤勇ではないかと思われる、ついては、元新選組の加納と武川に確かめて貰いたいと要請されます。加納と武川が応接所へ赴いて一旦別間から大久保を覗くと、紛れもなく近藤だと判りました。そのあと、改めて加納と武川は近藤と対面し、加納が「大久保大和こと近藤勇、珍しいところで会いましたな。」と声を掛けると大久保の顔色が変わり、「いかにも、久しぶりでござる。」と答えたと言います。正体のばれた近藤は斬首と決まり、板橋で処刑されるに至ります。

その後、加納は戊辰戦争に従軍し、斥候として活躍します。宇都宮から会津まで転戦し、10月下旬、会津の降伏と共に東京へ帰っています。東京で加納は小姓与として薩摩藩に召し抱えられ、深川藩邸の管理を命じられます。明治3年には開拓使に出仕し、同6年に北海道に渡っています。明治10年に西南戦争が起こると、黒田清隆に従ってこれに参戦しています。明治15年には、開拓使の廃止に伴い農商務省に出仕し、札幌勧業育種場などに勤めています。明治19年には役所を辞めて東京に帰り、江東濾水株式会社の取締役を努めました。この間、京都の泉涌寺境内にある戒光寺の旧御陵衛士の墓碑の建立に寄与しています。そして、明治35年10月27日に、東京の自宅にて亡くなっています。享年64歳。

新選組においてはさしたる活躍も見せていない加納ですが、2度に渡って近藤の運命と係わって、最後にはその死命を制したと言って良い隊士であり、その意味からすれば、かなりの重要人物とも言えそうです。今後ドラマの中でこの因縁がどのように描かれていくのか楽しみですね。

この項は、新人物往来社「新選組銘々伝」、文藝別冊「新選組人物誌」を参照しています。

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2004.08.18

新選組!24の2

新選組!第32回「山南脱走」その2

会津本陣で、会津候とその弟で京都所司代を勤める松平定敬と対面する近藤、佐々木只三郎、大島吉之助の3人。「新選組の働き、見事である。」と定敬に褒められ、近藤は面目を施します。行儀良く座っている近藤、佐々木に対し、西郷はなにやら身体を揺らして落ち着かない様子です。「さて、本日集まって貰ったのは、ようやく朝敵長州もご公儀のご威光に恐れをなし、恭順の姿勢を見せるようになった。そこで、京をお守りする我らにとって、これから第一に考えねばならぬ事はなにか、思いの丈を語ってくれ。遠慮はいらん。」と切り出す会津候。遠慮無く意見を言えとの言葉を都合良く解釈し、「そいなら、お言葉に甘えもんそ。」と膝を崩しに掛かる西郷。人を喰ったような態度ですが、長州藩と直接やりとりし、恭順にまで持っていった最大の功労者は彼です。その彼を前にして、ご公儀の威光のおかげと言われては面白くないのでしょう。それを知っている会津候は、寛大な態度に出ます。「今行うべきは、異国船の襲来に備えるべきではないでしょうか。すなわち、大阪沿海の備え、下関を砲撃した米、英、仏らの軍艦が、いつ攻め寄せて来るやも知れません。まずは、その防御に力を注ぐが大事かと思います。」と佐々木。「なるほど、予も同じ考えじゃ。」「兄上、まずは大阪の守りを固めましょう。」と会津候と定敬。これは、この当時の最も常識的な意見でした。京都に近い大阪湾の海防は緊急の課題とされて、沿岸の各地に砲台が築かれ、さらに淀川を遡って京都に攻めてくる事を想定して、左岸の楠葉と右岸の高浜にも砲台が築かれています。「西郷、そなたの考えは?」問われた西郷ですが、何やら外を見やっている様子で、心ここにあらずといった風情です。「すんもはん。聞いちょいもはんじゃした。見事な松ごわんどなぁ。」と天井を見上げる西郷。すっとぼけた態度ですが、彼は長州征伐を巡る幕府とのやりとりの中で、既に幕府を見限る気になっていたのですね。政治巧者の彼としては、生一本なだけの会津候をまともに相手をする気など無かったのでしょう。「近藤、そちはどう考える。」「恐れながら申し上げます。異国と戦う事が、誠に日本の為になるのでしょうか。先般、江戸へ下向したおり、蘭方医松本良順先生に会い、話を聞く機会を得たのですが、外国の目的は戦いを仕掛けては圧倒的な軍事力の差を見せつけて、がっぽっり賠償金を稼ぐことにある。だから、戦うだけ損という意見でした。」と近藤。近藤の回想シーンは、前回沖田の病状を聞いた時と場面が異なりますが、実際に近藤は江戸で2回松本に会っており、この意見は2回目の面会で聞いたという設定になっているようですね。「薩摩は、昨年、エゲレスと戦をしておるな。そのときの話をしてくれ。」と会津候。「すんもはん、そんときは、おいは島流しの最中ごわした。」とあくまですっとぼける西郷。イギリスと戦ってその実力を思い知らされ、攘夷の不可を悟った薩摩藩は、既に藩論を開国へと転じており、密かにその交戦国であったイギリスと手を結んでいたのでした。彼にしてみれば、それをわざわざ会津候に教えてやる必要もなく、こんな議論の場に出る事自体ばかばかしい限りだったのでしょうね。「では、近藤はどうすれば良いと思うのか。」と定敬。「今となって、亡き佐久間象山先生のおっしゃっていた事が判るような気がするのです。すなわち、日本はすみやかに開国し、西洋の文化を取り入れ、諸外国と互角に渡り合える力を付けた後に、異国と一戦を交える。それこそが、誠の攘夷であると。」「誠の攘夷。なるほど、それも一つの考えじゃ。」と会津候。無論、こんな会議があったという事実はなく、全てはフィクションです。しかし、この設定のおかげで薩摩藩の変貌、一般的な幕臣達の立場、近藤が密かに抱いていたであろう考えを見事に説明出来ていますね。

しかし、近藤が攘夷の不可を悟ったことが、果たして彼にとって幸福だったかどうかは判りません。彼の作った新選組は本来攘夷の実現を目指す集団であって、市中取り締まりの仕事はその途中の仮の姿でした。しかし、近藤が攘夷の不可を悟った瞬間に新選組は本来の目標を失った事になり、あるいはその時点で解散してしまうのが正しい決断だったのかも知れません。ところが、時代の流れは近藤個人の思いとは別に、新選組を幕府の警察組織として抜き差しならぬ存在としてしまっており、この後彼はひたすら佐幕のみを目的として新選組を率いていく事になります。あるいは時代の流れが見えだした事が、彼にとっては辛い事だったのかもしれないという気もします。

寺田屋で、寝ころびながら酒をあおる坂本龍馬。なにやら、すさんだ様子です。酒を控えろと言うお登勢に、指図する気かと絡む龍馬。そこへ山南が訪ねてきます。龍馬が荒れている訳は、勝海舟が軍艦奉行を罷免されて閉居謹慎を命じられ、さらに神戸の海軍操練所も閉鎖されてしまった為でした。「これではっきりしたぜよ、幕府の上の連中は、馬鹿ばかりよ。」と龍馬。さすがに山南は穏やかではありません。「せっかく、外国と渡り合える海軍を作ろうと思うちょったのに、全てが水の泡じゃき。あほくさ。」これまで龍馬を支えてきたものを全て失ってしまい、投げやりになってしまったのですね。龍馬に元気を貰いに来たはずの山南は、そんな龍馬を見るのが辛そうです。「坂本さんは、これからどうされるのですか。」「勝先生には、薩摩の西郷のところへ行けと言われちょるけんど、行くかどうかは決めちょらん。わしはもう、どうでもようなった。」と吐き捨てる龍馬。「坂本さんには、そういう事を言って欲しくない。」と山南。確かに、こんな龍馬は見たくないですね。「佐久間象山先生は殺され、長州の桂は行方知れず、勝先生は謹慎、これじゃいつになっても新しい世の中は来るもんかい。」と悲観的になる龍馬。実際、この時期の龍馬は八方ふさがりの状態でした。龍馬は、セリフの中にあるように薩摩藩に匿われていたか、あるいはどこかに潜伏していたのかは判りませんが、約半年の間記録の上から消えてしまいます。「私は近頃思うのです。詰まるところ、この国を動かすのは、考え方や主張ではなく、人と人との繋がりなのではないでしょうか。だからこそ、藩に属さず、一つの考えにこだわらないあなたのような人が、日本には無くてはならないのです。」と山南。後の龍馬のあり方を予言しているかのような言葉ですね。しかし、この時はまだ、山南の言葉は龍馬の心には届かなかった様です。「知らん。こんな国、滅んでしまえばええがじゃ。」と無気力さを隠さない龍馬。それを見守る山南の表情が哀しそうです。

その寺田屋の一室ではしゃぐ捨助と浪士達の一行。「今日は、この捨助様のおごりだぞ。」と気の大きな所を見せる捨助。捨助の相手をしているのは、おりょうです。「捨助さんは、なんでそんなに羽振りがええの。」「おれだってね、何もしねえで銭を貰っている訳じゃねえんだよ。ちゃんと、それに見合った仕事はしてんだ。命がけのな。」と捨助。その気炎を聞かされた周囲の浪士達は面白くなさそうです。そりゃ、真っ先に逃げるのはいつも捨助だもんね。幾松から貰ったお金を、これ見よがしに持っているのが嫌らしい演出ですね。

小さな川に架かった小橋の上で、物思いに耽る山南。川面に写った自分の顔めがけて小石をけり込み、その顔を消してしまいます。何かを決めた様子です。

屯所で、土方、沖田と対座する山南。「休むって、どういう事だ。」「仮の話です。江戸に戻り、自分の進むべき道をもう一度、ゆっくり考えてみたいと、ふと思ったのですから。」「あんたの進むべき道は俺が知っている。今、隊を離れて貰っては困る。」と土方。困った様子の山南は、「近藤さんは、まだお帰りではありませんか。」と沖田に聞きます。近藤なら判って呉れると思ったのでしょうか。しかし、土方はそんな山南の気持ちを見透かしたように、「局長が許しても、副長の俺が認めない。」と言い放ちます。うーん、こういう場合、局長より副長の決定の方が優先するのかな。総長は、局長に直属のはずでは?「言っとくが、法度にそうある以上、許し無く勝手に隊を離れた者は、脱走と見なして、即刻連れ戻す。」困ったように、哀しそうな表情で笑う山南。「お手間を、取らせました。」と引き下がります。後に残った沖田と土方。「休ませてあげれば良いのに。」と沖田。「今は、山南が頼りなんだ。案の定、伊東甲子太郎がしゃしゃり出て来た。うちで、伊東と理屈で勝負出来るのは、山南だけだからな。」と土方。さっき山南にそう言ってやれば、どんなにか救われた気持ちになったでしょうに。「案外、山南さんを買っているんですね。」「悪いか。」と土方は、照れを隠すかのように、鼻を擦りながら言います。それを嬉しそうに眺める沖田。山南に冷く当たっている様でも、やはり仲間としての意識は持っていたようです。なにか、ほっとさせられる場面ですね。しかし、山南はそれを知りません..。

会津本陣で、佐々木と膳を挟んで酒を飲む近藤。西郷はこの席にはおらず、帰ったようです。「講武所で初めてお会いした時から考えると、大出世でごさるな。」と佐々木。「私は、私の信ずる所に従って生きて来ただけです。」と近藤。「同じ徳川様をお守りする者としてご忠告申し上げるが、あなたの振る舞いはいささか危うい。今日、あなたは会津候の前で異議を唱えられた。我らは何時でもご公儀のために忠節を尽くすだけ。余計な事は考えるな。」と佐々木。幕臣の中で生きてきた者として、当然身に付けておくべき処世術だったのでしょうね。同時に、旗本を腐らせてしまった事なかれ主義でもありました。しかし、初々しい志士でもある近藤には、納得が行きません。「そもそも、報国とは何ですか。諸外国から日本をお守りするという事ではありませんか。つまり、それが攘夷。しかし、今の攘夷では、日本を守る事が出来ないとしたら。攘夷を行う事が日本国の為にならないとしたら、私達はどうすれば良いのですか。」と佐々木にまっすぐ問いかけます。「簡単な事。我らが仕えるのは、上様お一人。我らにとっての報国とは、ご公儀に報いるという事である。」と佐々木。まさしく、典型的な佐幕主義ですね。「ご公儀に報いる事が、日本国の為にならないとしたら。」とさらに斬り込む近藤。これはまるで勤王主義者が言いそうな事で、幕府に仕える者としては言ってはならない事でもありました。佐々木は「もうよしましょう。」と遮ります。

近藤が攘夷に疑問を持った事は確かですが、こんな事まで言ったという記録はありません。幕府は朝廷から信任を受けた政府であり、その幕府に報いる事は朝廷に報いる事でもあるという、公武合体論が近藤の立場でした。ただ、似たような発言としては、後に時勢が押し詰まって大政奉還が行われようとしているときに、近藤は土佐の後藤象二郎と交流を持つのですが、その後藤に向かって「私は今さらながらあなたの境遇がお羨ましい。身を立てる時、貴藩に籍を置いていたなら、当節思いのままの事が出来たであろう。」と言ったと「新選組始末記」の中にあります。時勢を読む事が出来るようになった近藤が、幕臣としての新選組局長という立場を足かせに感じていたとも受け取れる内容ですね。しかし、このとき近藤が何を考えていたのかまで窺い知る事は出来ません。

浮船で、明里と逢っている山南。何やら、こわそうな顔をしています。「ねえ、関ヶ原の戦いて、誰と誰が戦こうたんやった?」何をしているのかと思ったら、日本史を勉強していたのですね。「石田三成は、誰の家来やった?」「もう良い、あなたに日本の歴史を学ばせようとした私が間違いだった。」遊郭に来て遊女に勉強させようとする人も珍しいと思いますが、いかにも真面目な山南らしくもあります。「そんな事ないよ。うち、やる気になっているんやから。」「それにしては、前に教えた事を、全く覚えていないではないか!」と怒り出す山南。あれやこれやで、イライラが募っていたのですね。「そやから、始めからうちは阿保や、言うたんや。そやけど、うちなりに頑張ってるのに...。先生と話がしたいから!」と明里。明里は可愛い女性ですね。苦手な勉強も、好きな山南の為に頑張ってやろうとしていたのです。「私が悪かった。勘弁してくれ。」と謝る山南。彼はやっぱり、優しい男です。山南は穏やかな顔になって、優しく教えます。「石田三成は、豊臣秀吉の家来だ。」「だれ?」「太閤様だ。」「ああ、猿ね。」と納得の行った明里は、嬉しそうです。太閤記は、江戸時代には講釈でも語られていました。きっと明里も講釈で聞いた事があり、秀吉が猿と呼ばれていた事だけは覚えていたのでしょうね。しかし、自らを阿保という明里ですが、字は読めるのですね。この頃の識字率は、寺子屋のおかげで決して低くなかったという事なのでしょうか。「あなたにからんだお詫びがしたい。何か欲しいものはないか?」と聞きます。「わからん。」明里は、無欲な女性なんですね。「では、今何がしたい?」「何で、そういう難しい事ばっかし聞くんやろ?」「今度来る時までに考えておいてくれ。」「富士山...、富士山見たい。」と思わぬ事を言い出す明里。「見た事ないの。丹波生まれやから。」「富士山...。」山南は、何か思うところがあるようです。

「やあー!」と裂帛の気合いで稽古に励む沖田。三段突きと呼ばれた技の工夫でしょうか。そこにひでが現れます。「引っ越すて、ほんま?」「まだ、決まってないけど。」「会えなくなる?」ひでは、沖田と離れる事が心配だったのですね。しかし沖田は「ああ。」と素っ気ない返事です。「先生はなんて?今日も行ったでしょ。あの先生の所に。」「つけたのか。何でそういう事をするんだよ!」と怒鳴り出す沖田。「このごろ素っ気ないから。他に好きな人が出来たんかなて。かんにん...。」せつない女心ですね。「重い病気なん?」「多分、そんなに長生きは出来ないと思うよ。先生も言ってたし...。」と告白する沖田。ショックを受けたひでは、「そんな事ない。」と思わず気休めを言います。「判りもしないのに、そんな事言うなよ!」とまたしても怒鳴る沖田。沖田は、自分の事で一杯一杯だったのですね。「かんにん。」と小さくあやまるひで。「申し訳ないけど、私にはやらなければならない事が山程あるんだよ。剣術だって、もっと強くなりたいし、近藤さんや土方さんのために、もっと働きたい。だから、もう、私には係わらないで下さい。」沖田は、ひでの気持ちに気付いていたのですね。しかし、将来の無い自分を見つめ、その短い間に出来る事を探し、ひでの事は諦めようとしていたのでした。沖田なりの愛情だったのでしょうね。しかし、ひでにとってはやはり辛い仕打ちには変わりないのでした。

屯所の一室で端座する山南。ようやく決心が付いた様子です。会津本陣から帰ってきた近藤。少し疲れた様子です。山南は、表情を明るくして「今、お戻りですか。」と話しかけます。「いかがでしたか。会津候の前で、思うところをお話出来ましたか。」といつもの調子に戻った山南。「難しいものですね、議論というのは。自分の意見を述べただけなのに、佐々木様にたしなめられてしまいました。」と近藤。「近藤さん、己の信ずる所に従って生きて下さい。周りからは色々な声が入ってくるでしょうが、あなたの進む道は、あなた自身が決めるべきだ。」山南にすれば、近藤に残す餞別のつもりだったのでしょうね。しかし、そうとは気付かない近藤は、今さら何を言い出すのかと怪訝な様子です。

居酒屋で、永倉と原田を前に座っている山南。「本気かよ。」と意外そうな原田。「あなたを引き留めておいて、こんな事を言うのもおかしな話だが。」と永倉に向かって言う山南。「それはもう、決めた事ですか。」「決めました。」「ならば、何も申すまい。」永倉は男ですね。山南が考え抜いて決めた事だと推測し、彼の意志を尊重して余計な事は言うまいとするのでした。「だけどさあ、土方さんに内緒という事は、脱走だろ?みつかりゃ、切腹だせ。」と原田。「覚悟の上。」「大丈夫、この人は捕まりはしない。」と根拠の無い事を言い出す永倉。「出来るだけ早く、草津にまで出ようと思っています。そこからは、中山道と東海道に別れているので、追っ手も巻きやすい。」これが、この場を取り繕う為の嘘だという事が後から判ります。「それが良い。」と永倉。「だけどさあ、何でまた?」と原田。「聞くな、人にはそれぞれの思いがあるんだ。」と永倉。「また、戻ってくるんだろ?」と原田。彼は思慮の足りないところがありますが、山南の事が気になって仕方がないのですね。とことん良いやつです。「江戸で落ち着いたら、ゆっくり考えてみます。」と山南。残念そうな原田と懸命に感情を抑えている様子の永倉。「で、二人にお願いがあるのですが。」と山南が切り出します。

新選組の屯所。山南の頼みとは、永倉と原田の二人に騒ぎを起こして貰う事でした。皆の注意が二人に集まっている間に、そっと出て行こうと言うのです。「やるのか、こらぁ!」「庭へ出ろ!」二人の芝居が始まります。つられて出てくる島田と井上。一番やっかいな土方も止めに入ります。その隙に部屋に入って、荷物を揃える山南。彼は、井上と同室だったのですね。準備を終えて、出て行こうとする山南の前に、斉藤が寝ていました。「見なかった事にしてくれないか。」と頼む山南に、斉藤は暫く考えた後、「俺は、人の事には関心がない。」と答えます。彼なりの、武士の情けだったのでしょうか。通用口から外に出た山南。屯所の玄関に向かって、一礼をして行きます。壬生寺で稽古を続ける沖田に気づいた山南。一度は、そのまま通り過ぎようとしますが、思い直して沖田に声をかけます。「沖田君、剣先が下がって来ている。君の悪い癖だ。」「細かいところを見てますね。」この二人は、かつて試衛館でも教え、教えられた仲でした。沖田は、今でも山南の剣の腕を尊敬している様ですね。「がんばりなさい。」「頑張っているんですけど。」と沖田は、見て判らないのかとでも言いたげです。しかし、山南の本当の気持ちに気付くはずもないのでした。なごり惜しそうに沖田を振り返りながら、山南は去って行きます。

翌朝の屯所。「それは、どういう事だ。」と近藤。「夕べ、どうも帰ってないんです。」と井上。「一番最後に見たのは。」「夕べ総司が表で話しています。」「でも、遠出する風ではなかったですよ。」と沖田。土方は、俯いて考え込んでいます。「長州のやつらに、やられたのかも知れませんね。」と武田。「すぐに手分けして探せ。」と近藤。ここで遂に土方が口を開きます。「その必要はねえ。やつは、逃げたんだ。」「何を言っているんだ。」「昨日、俺の所へ来て、暫く暇が欲しいと言われた。勿論、俺は認めなかった。だからあいつは...。」「だけど...。」「これは、脱走だ。」と辛そうに言う土方。愕然とした表情の近藤。「逃げる理由が、どこにある。」「西本願寺の件でも、色々不満はあったようです。」と武田。「山南さんが、このところ悩んでいたのは確かです。」と井上。井上は土方の気持ちは判ってやれても、山南の相談相手にはなる事は出来なかったのですね。「しかし、脱走すればどういう事になるのか、あの人にだって...。」とまだ信じられない様子の近藤。しかし、もしかしたら、と思い当たる所があったようです。山南の部屋の行李を調べる井上。「山南さんの持ち物が、全部無くなっています。」「あの、馬鹿野郎!」と将棋盤をけっ飛ばす土方。それまで抑えていた、裏切られたという思いが爆発したのですね。「どうするんですか。」と気づかわしげな沖田。「脱走した者は連れ戻す。それが法度だ。」と苦しげに言う近藤。「連れ戻した後は。」と聞く井上。思い詰めた顔で、何も言わない近藤。「決まってんだろ。」と土方。「今は、こんな話は。」と近藤。「近藤さん、一切の例外は認めないと言ったはずだ。」と言い放つ土方。じっと耐えているような近藤。「山南さんが逃げた。」と冷静に斉藤に向かって言う武田。「見てれば判る。」と無感動に言う斉藤。「どこに行ったか、心当たりはないか。」「ない。」と斉藤はあくまで、無関心を装います。「恐らくは、東だろう。江戸に戻ってゆっくりしたいと言っていた。」と土方。「そんなにまだ遠くに行っていないはずです。すぐに追っ手を出しましょう。」と事務的に進めようとする武田。「斉藤君、出立して貰えるか。」少し考えた後、「承知。」と静かに言って立ちかける斉藤。このとき、彼は何を考えていたのでしょうね。「いや、待て。」と止めたのは土方でした。土方は意味ありげに近藤を見やります。その近藤は、沖田を振り向き、そして土方の目を見つめます。うなずく土方と近藤。「総司、お前が行け。」静かに命ずる近藤。目を瞠る沖田。近藤の目が何かを語っています。

馬に乗って山道を走る沖田。追っているにしてはゆっくりした走り方です。その先の山道を歩く、山南と明里。早く草津にまで出ると言っていた割に、のんびりとした道行きです。山南は明里を身請けしてやったのでしょうね。幸せそうな様子の明里と山南。「あらぁ、綺麗やね。」と道端の花を摘む明里。黄色い水仙でしょうか。楽しげに花のにおいを嗅いだり、眺めたりする明里を見守る山南は、いつになく悩みの消えた安らかな表情でした。

この山南の脱走については、「新撰組顛末記」や「新選組始末記」に出て来ます。ただし、明里と一緒だったという記載はありません。また、この明里についても「新選組始末記」にあるだけでその存在は証明されておらず、子母澤寛の創作である可能性もあります。でも、私としては、彼女は居たと思いたいですね。さらに、「新撰組始末記」では、脱走については触れておらず、脱走の事実そのものを疑う人も居ます。新選組総長という重職にあった人の死にも係わらず謎がつきまといますが、このドラマの演出はなかなか良いですね。悩み抜いたあげくに恋人との逃避行を選んだ山南と、仲間の脱走に衝撃を受け、法度の運用と仲間に対する思いやりとの間に挟まって苦しむ近藤と土方。その二人の思いを背負って、後を追う沖田。4人の思いが交錯する人間模様は、なかなかに見応えがあります。

この項は、永倉新八「新撰組顛末記」、子母澤寛「新選組始末記」、新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」(「新撰組始末記」)、別冊歴史読本「新選組の謎」、河出書房新社「新選組人物誌」を参照しています。

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2004.08.17

新選組!24

新選組!第32回「山南脱走」

冒頭、土方を殴り飛ばす近藤局長。「誰も死ぬ事は無かった!」近藤にすれば、会津候の前で頭を下げてまで和解を果たしたのですから、今さら誰かに責めを負わせて死なせる必要は感じなかったのでしょうね。「甘すぎるんだよ。あいつらのやった事は謀反だ。謀反人は切腹だ。当たり前だ。」と明快に言い切る土方。新選組を同志の集まりと捉えている近藤に対して、戦闘を目的とする一つの組織として運営していこうとする土方の違いが、端的に表れています。あくまでこのドラマの設定上での事ですが。「こんな言い方はおかしいと思いますが、土方さんは永倉さんや佐之助さんに死んで欲しく無かったから、葛山さんに...。」と、火に油を注ぐような言い方をする沖田。案の定、「うるさい!」と近藤に一喝されて黙ってしまいます。近藤にすれば葛山とて同志の一員ですから、仲間に軽重を付けるような沖田の言い方は癇に触ったのでしょうね。「こんな事を続けていては、隊士の心は離れて行くだけだ!」「逆だろ。これで、俺たちに逆らうとどうなるか、他の隊士にも判ったはずだ。」非情にも葛山を切腹させた土方の狙いはここにありました。「新選組は烏合の衆だ。法度で縛るしかないんだよ!」と叫ぶ土方。これが新選組の体質と言うべき弱点であり、それを補うために行った峻烈な隊規の執行が、新選組の強さを産み出して行った事も間違いないと思われます。しかしまた、それが新選組の限界でもありました。新選組隊士の死亡原因として最多のものが、内部粛清によるものという事実が雄弁に物語っています。隊規以外に指針を持たない新選組は、京都における警察組織にとどまり、遂に歴史の主流をなす存在とはなり得なかったのでした。

「付いて来れない者が出てくればどうする。」「法度を厳しくするだけだ。」「脱走するものだって...。」「脱走すれば切腹だ!」山南の悲劇へと繋がっていく予感がします。「総司でもか。」近藤と土方にとって、最も大切な存在なのは沖田です。土方はためらいを見せながらも、「総司でもだ。上に立つ者なら、なおさらだ。」と言い切ります。「俺でもか。」と近藤。「当たり前だろ。」と近藤に詰め寄りながら言い放つ土方。非情ですが、土方には覚悟を決めた男の格好良さがあります。

新選組の屯所。幹部達が集まっている前に、伊東甲子太郎が居ます。「この度は、名高き新選組に加えて頂き、恐悦至極。この伊東大蔵改め甲子太郎、身命を賭して、尽忠報国に勤める所存でおります。共に手を携え、上様のご恩に報いましょう。」とあいさつする伊東は、なかなかの才子ぶりです。彼は上洛に際して、この年の干支にちなんで甲子太郎と改めたのでした。「また、俺の苦手な男が現れた。」と早くも敵意を見せる土方。またというのは、山南に続いてという意味なのでしょうか。「伊東先生には、新選組の参謀を務めて頂きたい。」と近藤。物思わしげに伊東を見やる山南。彼もまた、伊東の態度にうさんくささを感じているのでしょうか。実際には、伊東はこの参謀になる前に、一度2番隊長に就いています。参謀になるのは、翌1865年(慶応元年)の5月頃にあった編成変えの時でした。

別室に控えていた伊東一派の下に帰った伊東。「暫くはまだ、近藤らと足並みを揃えていく事にする。しかし、あくまでも我らが目指すのは真の尊王攘夷。会津の手先となっている近藤達とは、そもそもの志が違う。まずは、この新選組を内側から作り替え、歴史の表舞台へと飛び出す足掛かりとする。このこと、くれぐれも忘れぬよう。」と門人達に念を押します。彼が新選組に入った狙いについては、有力なものとして前回紹介した藤堂と新撰組乗っ取りを目指したという密約説があります。ただ、「新撰組顛末記」の記述は永倉が直接聞いたものではなく、どこまで信を置いて良いか疑問があります。しかし、彼がこの後新選組内において独自の勢力を築き上げていく事は事実で、密約説の真偽はともかく、新選組を飛躍のための足掛かりにしようとした事は確かなようです。

「これを、桂先生に。」と幾松から荷物を預かっているのは捨助です。背後には、数人の浪士達が控えています。「幾松姉さんからも言ってやって下さい。こいつ、どうしても桂先生の居場所を言わないんです。」と浪士達。「教える訳ねえだろ。誰にも言うなと、釘を刺されて居るんだよ、先生に。」と強気な捨助。「一番知りたいのは、うちどす。」と幾松。「気持ちは判りますが、合わせる訳にはいきません。なにしろ、この捨助にしか会わねえと、先生がおっしゃるものだから。しょうがねえやな。」「用心深いお方やから。」と幾松はため息をつきます。「それよりも、こっちの方お願いします。」と手を出す捨助。背後の浪士達も、うさんくさげに見ています。「この間渡したばかりやないですか。」「こいつらに飯喰わしたりとかさあ、何かと要りようなんです。」という捨助の背後で、浪士達は文句を言いたそうです。仕方がないという風に、金の包みを渡す幾松。彼女にしてみれば、桂が捨助に頼んだ場に居た訳ですから、嫌とは言えないのでしょうね。「ようし、みんな、けえるぞ!」と浪士達に居丈高に言う捨助。「調子に乗るんじゃない。天狗になりやがって。」と苦々しげに言う浪士。うーん、なにやら伏線の臭いがします。「俺にむかってな、偉そうな口叩くんじゃねえぞ。俺を通さなきゃ、桂先生とやりとり出来ないと言う事を忘れるな。」捨助は、自分の値打ちがどこにあるのか、ちゃんと把握しているのですね。哀しげな幾松。本当なら、自分が桂と直接繋がっている捨助の役目をしたかったのでしょうね。

捨助を先頭に、町中を歩く浪士達。「まずい、新選組だ。」「嘘だろ。」といち早く逃げる捨助。現れたのは、沖田と原田の率いる一隊でした。新選組と斬り合う浪士達を余所に、捨助はこそこそと身を隠し、風呂敷で顔を覆います。沖田に顔を見られてはまずいと思ったのでしょうね。「天狗、逃げろ!」浪士の一人が叫びます。名前を出す訳にはいかないので、とっさに出た言葉だったのでしょうね。「天狗、今だ!」「早く行け、天狗!」口々に叫ぶ浪士達。「天狗?」とつぶやく原田。風呂敷で覆面をしたまま逃げる捨助。その後ろ姿を見送りながら、「天狗?」と繰り返す沖田。うーん、鞍馬天狗まで出てくるのかい?

新選組の屯所。入り口には、長槍を持った門衛が立っています。中では、幹部会議が開かれています。近藤の席は空席で、最上席には山南総長、その向かいには土方副長、山南の隣には伊東参謀が座っています。「隊士も70名に増え、ここも手狭になってきた。そこで、新しい場所に引っ越そうと思う。」と切り出す土方。「えー、引っ越すんですか。私はここが良いな。」と沖田。「俺もここが良いな。御所にも近いしさ、遊ぶ場所も沢山あるじゃねえか。」と原田。どうも、原田の発言は、どこかポイントがずれています。「しかし、八木さんや前川さんの事も考えてあげましょう。そもそも、ふた月ほどの約束だったのが、我々がここに来てから2年が過ぎている。」と気配りを見せる山南。なぜか、面白くなさそうな土方。彼にしてみれば八木家に対する気遣いよりも、もっと本質的な事を議題にしたかったのでしょうね。「お待ち下さい。」と末席から立ち上がったのは、武田観柳斎。「屯所の引っ越しは新選組の重大事。そのようなことを、近藤局長がおられない時に決めるというのは、いかがなものであろうか。」と居丈高に言い出します。なるほどもっともな意見ですが、土方は「近藤先生からは、一任を受けている。腰ぎんちゃくは、黙ってろ。」と、とうとう武田に対する不満が爆発します。やっぱり、ずっと溜まっていたのですね。それに、土方としては隊の統制をより強くしていくために、何かに付け副長よりも目立とうとする武田のような存在は極力抑えていくよりないと覚悟したのでしょう。愕然とする武田の表情が面白いです。「引っ越しすると言っても、場所のあてはあるのか。」「西本願寺だ。」と土方。「あそこには、300畳のお堂があって、しかもほとんど使われていないんだ。」と説明する島田魁。当時、太鼓楼の西側にあった北集会所の事で、この建物は姫路市にある本徳寺の本堂になっています。ここは以前に番組の最後の紹介で出て来ましたね。 「たまに全国の坊さんが集まる、なんとかという儀式の時だけなんです。」1年に一度行われる報恩講の事でしょうか。島田は、後に西本願寺の警備員となっており、なにやら因縁を感じさせる役回りですね。「素晴らしい。本願寺なら、新選組の新しい屯所に相応しい。」と伊東。自分の一門に言い渡したように、暫くは隊の方針には逆らわないという事なのですね。「よろしいですか。」と武田。「腰ぎんちゃくというのは、あまりにも失礼じゃありませんか。」「ずっと気にしてたんだ。」とまた要らぬ事を言い出す沖田。「私は、兵学師範として、局長の厚いご信用を頂いております。私を腰ぎんちゃくと罵るは、近藤局長をも罵倒した事になりますぞ。お気をつけ頂きたい。」とやはり虎の威を借る観のぬぐえない武田。無視する土方と、それを見て冷笑する伊東。彼は、新選組内部の人間関係を把握しようと勤めているようですね。「もう、本願寺で良いんじゃねえか。近いしよ。でも、おれ本願寺をうろうろしていたら、坊主と間違えられちゃったりして。ナハハ。」とあくまで脳天気な原田。それを無視するように「本願寺は長州と繋がっている節がある。そこに俺たちが乗り込めば、坊主達も下手な動きは出来まい。一挙に両得だ。」と発言する土方。西本願寺は、確かに長州と繋がっていました。そもそもの縁は戦国末期にまで遡り、信長と戦った石山合戦の際に本願寺を援助してくれたのが毛利家で、それ以来の繋がりが続いていました。幕末期の西本願寺は勤王思想が強く、全国の末寺に対し勤王攘夷を呼びかけており、一門の僧の多くを長州出身者が占めるようになっていました。当時の門主広如上人は、蛤御門の変で落ち延びてきた長州兵を匿って京都から逃がしてやった事があり、新選組はそれ以来西本願寺に対して目を光らせるようになっていて、境内に潜んでいた不逞浪士を捕縛した事もあります。土方の発言の背景には、このような事情がありました。「申し訳ないが、私は承服いたしかねる。それは、言葉を換えれば、力を持って西本願寺を制するという事になる。親鸞上人以来、由緒正しい寺院に対し、あまりにも礼儀に反するのではないだろうか。」と山南。彼が西本願寺移転に反対した事は、西村兼文の「新撰組始末記」や子母澤寛の「新選組始末記」に出て来ます。そして、どちらも山南の反乱の直接の原因は、この意見に近藤と土方が耳を貸さなかったからだとしています。「由緒なんてどうでも良い。長州とつるんでいるやつはみんな、俺たちの敵だ。」と土方。「山南さんの言うとおりだ。本願寺は、多くの人々の信仰を集める洛中屈指の寺。そこをないがしろにすれば、我々はますます評判を落とす。」と永倉。この永倉の懸念は、現実のものとなります。西本願寺に対する嫌がらせのつもりで行った数々の所行が京都の人々に対しても苦々しく映り、せっかく池田屋事件以来良くなってきていた新選組の評判は急速に落ちていく事になりましす。「永倉さんは、人の目を気にするお方のようだが、俺はこっちのやつらにどう思われようが、構わないね。」と土方。しかし、京都人の評価が落ちるという事は新選組に対する協力も無くなるという事であり、結果として新選組にとってはマイナスに働いたと見て良いようです。「長州に対して目を光らせるのは判ります。しかし、そういった由緒ある寺院を、そういった生臭い事で汚すのはどうだろうか。」と山南。実際、西本願寺の境内の北側を借りた新選組は、その敷地内に斬首の時に使う土壇を作ったり、また栄養補給のために豚を飼って、その肉を煮たりしていたようです。およそ、寺院において相応しくない行いで、今でも西本願寺は新選組を快く思っていないらしく、新選組ブームに沸く京都にあって境内に何の案内もしてありませんし、ホームページにも記載がありません。これに対して、異議を出したのは、意外な事に伊東でした。「これは異な事を申されますな、山南殿。あなたは今汚すとおっしゃった。あなたは、新選組の使命を汚れたものとお考えか。」伊東は、なかなか議論上手な様ですね。「本願寺は、古く戦国の世から、政には深くかかわって来ている。そもそも、家康公が太閤秀吉と競い合っていた折りに、太閤に付いた準如上人が西本願寺を継ぎ、それに対して家康公が教如上人を推挙されてお作りなったのが東本願寺である。ご存知か。」と山南に聞く伊東。知らなかったのか、黙ってしまった山南。「山南さんの負け。」とまたしても余計な事を言い出す沖田。その成立の事情から東本願寺が佐幕派で、西本願寺は勤王派という事は当時の常識で、山南が知らなかった筈はないと思うのですが...。ただし、東本願寺の成立は関ヶ原の合戦が終わった後の1602年の事で、このとき既に太閤秀吉は亡くなっています。「土方さん、この話し、是非。」と伊東。土方に恩を売ったつもりなのでしょうか。「では、早速本願寺と話を始めようと思うが、ご異存はあるまいな。」と山南を見る土方。苦しげな山南。

とある寺(西本観寺?)を訪ねてきた捨助。「先生、先生。」と床下に向かって呼びかけます。「先生と呼ぶな。」と跳ね起きたのは、乞食に身をやつした桂でした。「幾松姉さんからあんたにって。」と包みを渡す捨助。なにやら、冊子のようです。「良く覚えていたな。ずっと探していたんだ。幾松は、そういう女だ。」と桂。桂は、おもむろに「はたき」を取りだして、捨助に渡します。「仕事だ。」「大掃除?」とどこまでもとんちんかんな捨助。「それを、ある方に届けて欲しい。洛北にある岩倉村に友山という名の坊主が暮らしている。岩倉公なら判ってくれるはず。」なにやら沢山書かれた字がポイントになりそうなはたきですね。実際には、この頃には桂は京都にはおらず、出石で潜伏をしていました。2年近くに及ぶ見事な隠れっぷりで、現地妻まで居たそうですね。

新選組屯所の中庭。多くの隊士が稽古をしています。なにやら、揉めている様子。「もうちょっと、向こうでやってくれないか。」と松原。「先に始めたのは、我らだ。」と篠原。「篠原さん、その辺にしておきましょう。」と止めに入ったのは加納。彼は、当分の間は近藤派と足並みを揃えるという伊東の言いつけを、忠実に守ろうとしているのですね。その様子を見守る山南。「芹沢達を思い出す。同じ事の繰り返しだ。」と山南に話しかける永倉。庭では、松原と篠原が喧嘩を始めています。この二人は共に柔術家であり、喧嘩というより柔術の試合と言った方が良いのかも知れません。また、松原を主人公とする壬生心中では、篠原と松原は仲の良い友達として描かれています。もしかしたら、この喧嘩で、二人の仲が急速に良くなるという設定なのかも知れません。「時代は目の前で動いているのに、我々は何をやっているのか。」と山南。彼は、ずっと同じ事を考え続けているのですね。表情が、どこか寂しそうです。

縁側で、西本願寺の図面を見ている土方。そこへ伊東がやってきます。「だんだん、みなさんの関係が判ってきました。原田君の発言には、なぜ誰も応じないのですか。」「今にあんたにも判る。」彼の発言は、行き当たりばったりだものね。いまいましげに、席を立ち、部屋の中に入ってしまう土方。平然と後を追う伊東。「山南君とは、上手く行ってない様ですね。」「そんな事はねえ。」「彼はやや、隊の中で孤立している観がある。」と伊東。「山南君は雄弁ではあるが、詰めが甘い。沈着を装っているが、案外情に動かされる方ではありませんか。」短い間に、良く見ています。「山南の悪口は、言って欲しくねえな。」と土方。「ほうっ。嫌っておられるのかとばかり。」「別段好きでもないが、つき合いが古いんでね。昨日今日やって来たくせに、でかい顔をして知ったふうな口をきく、だれかさんよりははるかにましって事ですよ。」と早くも喧嘩を売るモードの土方。笑ってかわす伊東。土方には、伊東の魂胆が見え透いているかのようですね。しかし、このやりとりは、山南に聞かせてやりたかったですね。永倉の「新撰組顛末記」では、山南は同じ勤王思想を持つ伊東と肝胆相照らす仲となり、そのうちに一つの黙契が出来たとあります。これが近藤の知る所となったため脱走に至ったとあり、このドラマの設定とは異なりますね。

まだ15分ぶんしか出来てない...。この続きは、明日アップします。

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2004.08.16

梅酒 途中経過2ヶ月目

umesyu2kagetu.jpg

梅酒を仕込んで2ヶ月が経ちました。1ヶ月前と比べると、氷砂糖は全部溶けて、全体に色が濃くなっています。梅も半分位までさがって来ており、完成まであと一息ですね。
梅シロップの残りも少なくなって来た事だし、そろそろ出来上がって呉れないかな。

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2004.08.15

京都 大文字送り火

daimonji.jpg

明日8月16日は、京都五山の送り火です。京都で過ごした子供の頃は、送り火の日が近づくと夏休みも終盤に入ったなと寂しくなったものです。それでも当日になるとワクワクして、近所のスポットに出かけては送り火を眺めていました。

この送り火をどこから見るのが良いのかと聞かれる事があるのですが、五つを一度に見ようとするとなかなか大変です。京都タワーに登るのが確実でしょうけど、相当な混雑が予想されます。あるいは、確かめた訳ではありませんが、京都駅ビルの屋上や空中回廊からなら見えるかも知れません。もっとも、ここはタダの分、もっと混むかも知れませんね。もしかすると、規制が掛かっちゃうかな。最も確実なのは、各ホテルが企画している送り火鑑賞プランを利用する事でしょうか。これなら、あらかじめどこが見えるか確認さえしておけば、ゆっくり確実に鑑賞する事が出来そうです。

四つで良いなら、将軍塚の大日堂へ行く手もあります。ここは、入山料700円を払えば、庭園から大文字を除く四山を見る事が出来ます。また、かなり高いですが、予約して5000円払えば、展望台から全ての送り火を見る事も可能になります。

一番のお勧めは、一度に全部を見ようとするのではなく、どれか一つに絞ってしまう事です。一つだけならあちこちにスポットがあって、ゆっくり見る事が出来ます。京都新聞の五山送り火のページに、各送り火を見るのに良い場所が紹介されていますので、参考にされてはいかがでしょうか。

私のお薦めポイントは、出町柳です。加茂川と高野川の合流点からなら、大文字がほぼ正面に見る事が出来ますし、今は判りませんが、以前は「法」もわずかに見る事が出来ました。ここの利点は何より、京阪電車の駅からすぐ近くで便利が良い事ですね。それに、川風があたって涼しい事も魅力の一つです。

また、上の大文字の写真は、昨年岡崎で撮ったもの。岡崎周辺も狙い目で、昼の内に散歩がてら探して歩くと、結構ポイントを見つける事が出来ます。

かくいう私は、残念ながら今年は行けそうにないので、心の中で先祖の霊を送り、行く夏を惜しむ事にします。


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2004.08.13

木村幸比古「新選組全史」

以前白牡丹のつぶやきで紹介されていた木村幸比古さんの「新選組全史」を入手しました。内容的には、これまでの木村さんの著書の集大成という感じで、私的にはなかなか興味深くて得るところも多かったです。ただ、かなりマニアックな内容になっており、これから新選組の事を勉強しようという人には少し難しような気がします。これまで何冊も新選組関係の本を読んできた人が読むには、なかなか面白い本なのではないでしょうか。また、新選組の前半から池田屋事件あたりまでが中心で、江戸から函館に掛けての内容はやや薄いのですが、島田魁の「官軍海軍日記」が収録されており、それだけでも読んでみる価値はあると言えそうです。

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カブトムシの飼育法・幼虫応用編

今日は、昨日のカブトムシの飼育法・幼虫基本編に続く応用編です。

応用編と言っても特別な事をする訳ではなく、楽しみながら育ててみませんかという提案です。

1.幼虫の体重を計ってみる
カブトムシの幼虫は、見る見るうちに大きくなっていきます。せっかくなら、その変化を数字で追ってみましょう。餌換えの都度に体重を量かって記録していくと、成長の度合いが見て取れてなかなか楽しいものです。幼虫の体重は人間用の体重計で量るには軽すぎるので、料理用の秤を使用します。デジタル式のものがお勧めで、0.1gまで計れるタイプならなお可です。

カブトムシの体重は♂と♀で違っていて、普通に育てれば♂で30g、♀で20g程度になります。後で出てくるエサの工夫をしてやればさらに増えて、♂なら30g代後半、♀なら20g代後半まで大きくなります。これくらいの重さの♂なら、80ミリ前後の立派な成虫として羽化してくれます。なお、@ニフティの昆虫フォーラム5番会議室ビートルズ広場で開催されていたカブトムシの大きさを競うカブトンピックでは、♂42g、♀35gという記録が残っています。

2.エサの工夫をしてみる
エサの工夫をしてやると、幼虫をより大きく育てる事が出来るようになります。ただし、以下に紹介する方法は、いずれもリスクを伴いますので、それを承知の上で、自己責任において行って下さい。

ア.発酵マット
普通に売っている昆虫マットは、椎茸栽培に使用したあとのクヌギやコナラのほだ木を粉砕したものがほとんどですが、これをこのまま使って育てると大体♂で30g前後までに育ちます。このマットを、人工的に発酵して使うと、消化吸収が良くなるのか、幼虫をより大きく育てる事が出来る様になります。市販されているものを使うのが最も手軽ですが、結構高価で、安いマットを使って自分で作る事も出来ます。

発酵マットの作り方は以下のとおりです。ただし、失敗すると幼虫が死ぬ事もありますので、最初から全部の幼虫に使用するのではなく、数匹のグループに分けて、ノーマルの飼育と平行して試してみる事をお勧めします。また、発酵途中で凄まじい悪臭を発生しますので、近所迷惑にならないよう置き場所には十分注意して下さい。

用意するもの
未発酵のマット(マルカン製 「昆虫マット(クヌギジャンボマット)」 ミタニ製 「くぬぎ純太君」など)5L程度
薄力粉0.5L
水0.3Lから0.5L
ビニールのゴミ袋2枚

分量は、マットの量に併せて適宜変えて下さい。

まず、悪臭対策のためにゴミ袋を2重にし、その中に未発酵マットを入れます。このマットに薄力粉をふりかけ、よく混ぜます。これに水を徐々に加えながら撹拌していくのですが、水の入れすぎは禁物です。目安は、カブトムシの幼虫にセットする時よりはずっと少なめで、ざっと湿っているなという程度が良く、マットが手にべたべたと付くようだと入れすぎです。水が多すぎると発酵を通り過ぎて腐敗してしてしまう事になってしまいますので、注意が必要です。また、元々マットが湿っている事があるので、水の量は適宜加減して下さい。

次いで、ビニール袋の口を縛って、日なたに置きます。暑い時期なら、2日もすれば発酵が始まります。このとき、マットがかなりの高温となり、何より凄まじい悪臭を発生します。ですから、ビニール袋は3重くらいにしておいた方が良いかも知れません。発酵が始まったら、2日から3日に一回、撹拌をしてやります。これは、そのまま放置すると嫌気発酵となってしてしっまて腐敗に繋がって行くためで、撹拌してやる事によって空気に触れさせてやるのです。最初は、発酵途中のマットの中に手を入れるのは勇気が要りますが、必要な事なので頑張ってやって下さい。また、素手でやると悪臭が手に染みついてしまうので、手袋を使用する事をお勧めします。なお、嫌気発酵しているかどうかの目安は、アルコール臭がするかどうかです。また、嫌気発酵になったとしても諦める必要はなく、撹拌を繰り返していく内に元に戻っていきます。

これを適宜繰り返し、暑い時期なら約3週間、涼しくなってきたら1ヶ月から2ヶ月程度で出来上がります。完成の目安は色と臭いで、マットが濃いきつね色になり、かつ悪臭が消え、インクの様な臭いになってきたら完成したと思って間違いありません。

以下補足事項です。

失敗の原因の多くは、十分な発酵が出来ていない状態で使用してしまう事で、発酵が不十分なマットを使うと室内の温度で再発酵が始まってしまいます。そうなると、マットの内部で酸欠が起こり、幼虫が死亡する原因となってしまうので、注意が必要です。特に、気温が低くなってから作った場合に起こりやすく、わずかでも発酵臭が残っている場合は使わない方が無難です。

気温が低くて発酵が起こりにくい場合は、イースト菌を使ってやると発酵の手助けとなります。市販のドライイースト小さじ3杯程度を砂糖水で予備発酵してから混入してやると発酵しやすくなります。このときばかりは、パンのような良い臭いになるから面白いですよ。

気温が20度を切ると発酵しませんので、屋外での作成は初夏から初秋までとなります。それ以外の時期に作ろうと思えば、屋内でなんらかの保温措置をとってやる必要がありますが、悪臭を伴うためあまりお勧め出来ません。

薄力粉の代りに強力粉を入れる方法もあります。この場合、より幼虫にとって栄養状態の良いマットが出来ますが、発酵の度合いが強く、腐敗しやすくもなるため撹拌の頻度を上げるなど一工夫が必要になってきます。このほか、添加剤として、うまみ調味料(味の素)を少量加える方法があります。

また、小麦粉の代りにふすま(麦を精製した後に出来るもの。米のぬかに相当)を入れる方法もありますが、これは強烈に発酵(50度くらいの熱を発する事があるそうです)するので管理が難しく、最初は避けた方が無難です。ただし、発酵マットとしては最も効果の高いマットを作る事が出来ます。その他、きなこを使ったマットもある様ですね。

イ.菌糸カス
クワガタ飼育のエサとして菌糸があるのですが、これを直接カブトムシに与えても食べる事はなく、効果はありません。ところが、クワガタの幼虫が食べた後の菌糸カスになると、カブトムシにとって最高のエサとなります。クワガタの幼虫が一度消化することで、カブトムシにとっては消化吸収しやすい形になる様ですね。ただし、これも、そのままを与えると幼虫を殺してしまう事になりますので、注意が必要です。これは、菌糸カスの中に生きている菌糸が居ると再繁殖を起こして酸素を消費し、結果として酸欠を起こしてしまうためです。従って、菌糸カスを使う前に、処理が必要になってきます。

(1)乾燥させてから使う
菌糸カスを容器に集め、天日に晒して完全に乾燥するまで放置します。こうする事で、菌糸カスに残っていた菌糸は死滅し、再繁殖を起こす事は無くなります。ただし、これも中途半端な乾燥の仕方だと菌糸が生き残っている可能性があるので、完全に水気がなくなってカラカラに乾くまで放置しておく事が必要です。これをマットに混ぜて使うのですが、用心のため暫くは幼虫には使わず、一週間程度様子を見て菌糸が発達していない事を確かめてから幼虫を投入するよにすることをお勧めします。

(2)発酵させてから使う
菌糸をビニール袋に入れ、発酵マットを作るのと同じ要領で日なたに置いておくと発酵してきますので、適宜撹拌してやります。やがて発酵臭が収まったら使用可能となります。これをマットに混ぜるなり、大量にある場合はそのままマットの代りに使用します。カブトンピックで優勝した幼虫は、この菌糸カスを発酵させたもので育てた幼虫でした。
この方法も発酵が完了したかどうかの見切りが大事で、これを誤ると失敗の原因となりますので、注意が必要です。
なお、この菌糸カスを使う方法は、外国産のカブトムシを育てる時にも有効です。

ウ.大きな容器で大量のエサで飼育する
カブトムシを大きくするのに一番有効な事は、良質のエサを大量に与える事です。そのために衣装ケースなどの大きな容器に10匹程度を入れ、次々に新しいエサを与えるという方法があります。かなり贅沢な方法で管理も大変になってきますが、最大級のカブトムシを目指してみるのも面白いかも知れません。

以上で、応用編は終了です。ただ育てるのも面白いですが、一工夫しでみるのもきっと楽しいと思いますよ。

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2004.08.12

カブトムシの飼育法・幼虫飼育基本編

カブトムシの飼育法、前回の成虫編に続いて幼虫飼育基本編です。

早くからカブトムシ成虫の飼育を始めた家庭では、そろそろ卵が孵化して幼虫が生まれて来ているのではないでしょうか。大抵の場合、幼虫はケースの一番底に集まりますから、ケースを持ち上げて下をのぞき込むと、幼虫が居るかどうかが確認できます。

幼虫が居たらどうするか。基本的には、すぐには触らず暫くはそのまま放置しておきます。まだ孵化していない卵がある可能性がある為で、マットが乾燥していない限り触らない方が無難です。出来ればさらに2週間程度、そっとしておいて下さい。もし乾燥の度合いが激しければそうも言っていられないので、ケースをひっくり返し、注意深く幼虫と卵をより分けて、再度マットを加水してケースに戻してやります。そのあと、幼虫はマット上においてやれば自分で潜っていきます。また、卵はマットに埋め戻しておいて下さい。孵化率は落ちると思いますが、何割かは孵化してれるはずです。

次に、カブトムシ幼虫の育て方の基本です。

1.素手では触らない事
人の手には雑菌が沢山付いているのですが、これらの菌の中には人には無害でもカブトムシの幼虫にとっては有害になるものがあります。このため、できるだけ手袋をはめるなりして、直接幼虫には触らない工夫をして下さい。

2.エサの種類
幼虫のエサは、大きく分けて二通りあります。

ア.腐葉土
カブトムシというと腐葉土というイメージがありますよね。実際腐葉土でもカブトムシは育ちます。ただし、普通の家庭で腐葉土で育てようとすると、幾つか難点が出て来ます。以下腐葉土で飼育する場合のポイントを上げてみます。

(1)エサとして使える腐葉土を選ぶ
腐葉土なんて、園芸店でいくらでも売っているじゃないかと思われるでしょうが、カブトムシに向く腐葉土というのは案外見つからないものです。まず、広葉樹100%でなければいけません。成虫編でも少し触れたように針葉樹には昆虫を殺す成分があって、これをエサとして与えると大抵の場合死んでしまいます。これが確認出来る腐葉土は意外に少ないものです。次に、農薬が入っていてもいけません。園芸用の腐葉土には、殺虫用に農薬が混じっている事がありますが、当然ながらこれを与えると幼虫は死んでいまいます。この2点をクリアできるなら、カブトムシのエサとして使っても大丈夫です。

(2)栄養が不足気味
ところが、もう一つ難点があって、園芸用として売られている腐葉土は、カブトムシのエサとするには熟しすぎていて、あまり良いエサとは言えないのです。育つ事は育ちますが、あまり大きくはなりません。ただし、広葉樹の葉ばかりを集めて自家製の腐葉土を作っているのなら話は別で、反対に最適なエサとなります。適度に熟した腐葉土なら、大きく育ったカブトムシが得られる事でしょう。

(3)管理が楽
腐葉土の難点ばかりを上げてきましたが、良い点もあります。それは、餌換えの手間が楽という事です。後に掲げる昆虫マットの場合は加水しなければならない訳ですが、これが案外手間が掛かります。腐葉土の場合、最初から湿度を持っている事が多いので、そのままケースに入れてやれば良く、手間が掛かりません。それに、ケースが軽くなるという利点もあります。

(4)蛹化時の注意
腐葉土で飼育していく場合でも、蛹になる時期が近づくと昆虫マットを混ぜてやる必要があります。これは、カブトムシが蛹室を作りやすくしてやるためで、腐葉土だけだと蛹室を上手く作る事が出来ず、せっかく育った幼虫がそのまま死んでしまう事があります。幼虫は自分の糞と周囲の材料を使って回りを固めて蛹室を作るのですが、カブトムシはこれを作るのが下手で、腐葉土だとちゃんと壁にする事が出来ないようです。ですから、昆虫マットを入れて蛹室を作る材料を提供してやる必要があるのです。

イ.昆虫マット
(1)入手が楽
昔と違って、今はホームセンターに行けば、大抵昆虫マットを売っています。この内、針葉樹が混じっていないものを選べば、大抵はそのままエサとして使えます。ただし、若葉という名のマットは幼虫には使わないで下さい。なぜか幼虫が育たず、大抵の場合死んでしまいます。この商品は、安くてかつ大量に売られているので、注意が必要です。また、冬になると昆虫マットが店頭から消えてしまう事があるので、ある程度買いだめしておく事をお勧めします。万が一、秋以降にストックがなくなってしまったら、インターネットで専門店を探して、通信販売で入手して下さい。

(2)栄養はまずまず
生まれてすぐの初令の場合は、なるべく細かいマットの方が良いのですが、2令以降になれば一番安い粗いマットを使っても構いません。これを適度に加水して与えてやれば、そこそこの大きさのカブトムシに育ちます。

(3)管理が少し大変
管理が大変と言っても腐葉土に比べればという意味で、新しいマットにまんべんなく加水してやるのは案外手間が掛かるという事です。コツとしては、ケースの中にマットを入れてから加水して混ぜようとすると結構大変なので、大きなビーニール袋を用意して、その中にマットを入れて加水しながら混ぜてやると割合楽に作業が出来ます。

3.集団飼育について
カブトムシは、単独で飼育するより、集団で飼育した方が良く育つ様です。ですから、一つのケースに複数の幼虫をいれてやるのですが、注意点がいくつかあります。

ア.飼育頭数の目安
一つのケースで育てる幼虫の数ですが、大プラケで10頭程度が目安になってきます。それ以上多いとエサの取り合いになって、あまり大きくは育たない様です。

イ.成長段階を会わせる事
カブトムシの幼虫は、孵化したての初令幼虫から、脱皮する毎に2令幼虫、3令幼虫と育って行くのですが、初令と3令では大きさが数10倍違っています。これを同じケースで育てようとすると、最悪の場合初令幼虫が3令幼虫に殺されてしまう事があります。共食いと言うより事故と言うべきなのでしょうけれども、同じ成長段階にある幼虫同志の場合なら、こうした事はほとんど起きません。ですから、なるべく同じ成長段階にある幼虫同志を集めて飼育する様にしてやって下さい。ただし、飼育数が少なく、ケースが十分に大きい場合はこの限りではありません。

4.エサの交換
エサを交換する目安は、マット(腐葉土)の表面に糞が目立ってきたら、新しいエサに換えてやるようにします。エサの交換の前に、園芸用のふるいを用意しておきます。交換の要領は、まずケースの中身を全部ひっくり返し、幼虫を避けながらふるいを使って糞を除いていきます。糞以外の残ったマット(腐葉土)は、次の新しいエサに混ぜて使う様にします。これは、経済性というより幼虫が自分で作った環境をそのまま引き継いでやる為で、バクテリアなどの関係かこうしてやった方が幼虫の成長が良くなる様です。湿った腐葉土ならそのままケースに入れてやり、古い腐葉土と適当に混ぜてやります。マットなら上記2.イ.(2)のとおりに加水(水加減はぎゅっと握って団子が出来る程度。水がしたたる様では、水の加え過ぎ。)したマットと古いマットを混ぜて、ケースに入れます。エサの量は多ければ多い程良く、ケースの8分目以上にまで入れてやります。ただし、万が一ケースの中の環境が幼虫にとって良くない場合は幼虫が表面に出てくる事があるので、ある程度のスペースは空けておく様にします。ケースの蓋には、新聞紙か専用のシートを挟んで、乾燥の防止とコバエの侵入を防ぐようにします。


5.冬の管理
エサの交換の頻度は、成長が最も盛んになる秋には、飼育頭数にもよりますが、2週間に一度くらい必要になると思います。反対に、真冬になるとほとんど活動を停止しますので、エサの交換も必要なくなります。このとき、エサの交換をしなくなる分ケースの中身が乾燥してしまう恐れが出てくるため、これを防ぐために蓋に挟むものを新聞紙から料理に使うラップに換えてやります。このラップには、通気のために針で小さな穴を沢山開けてやるようにします。専用のシートを挟んでいる場合は、この限りではありません。

ただし、暖かい部屋で飼育していると少しづつでもエサは食べ続けますので、エサの減り具合には注意してやって下さい。その場合、真冬の寒気に幼虫を晒すのは厳禁で、室内でエサの交換を行うか、減った分だけを上から補充ししてやるようにします。

6.蛹化の時期
普通に飼育していると、4月の後半から5月に掛けて、蛹化が始まります。その時分にはエサの交換は止めて、そっと放置しておくようにします。蛹室は大抵ケースの壁を利用して作るので、ケースをよく見ていると蛹室を作り出した事が判ります。

ただし、マットの深さには注意が必要です。カブトムシは縦に蛹室を作るので、エサを食べきってマットが浅くなっている様な事があると、上手く蛹になる事が出来なくなります。出来れば12cm以上の深さが欲しいところです。また、羽化した後は成虫が表面に出てくるので、ケースはマットで一杯にはせず、ある程度の空間を開けておく必要があります。

7.人にあげる場合
カブトムシを人に分けるときの注意ですが、カブトムシは丈夫な虫なのですが、それでも初令、2令の内は環境が変わると死んでしまう事があります。このため、人にあげるのは、幼虫が3令にまで育つのを待ってからにして下さい。

以上が、幼虫飼育の基本編です。明日は、これを元にもっと楽しむための応用編をアップします。

 


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2004.08.11

新選組!23の3

今回のマイナー隊士の紹介は、尾形俊太郎と尾関雅次郎です。

まずは、尾形俊太郎。ドラマでは、飯田基祐が、さりげなく切れ者の雰囲気を出していますね。

尾形俊太郎については、幹部を務めていた割には記録が少なく、謎の多い隊士です。出身は熊本とされますが、生年は不詳で出自が武士かどうかも判っていません。新選組に入隊したのは、新選組始末記に記載されている第一次編成に助勤としてその名があることから、1863年(文久3年)6月頃の事と考えられています。新選組始末記には学者と記され、後に文学師範を務めている事から、武よりもむしろ文に秀でていた人と思われます。このことから、華やかな戦いの場には登場することはなく、その代わり近藤のブレーンを勤める一人として活躍しました。

隊士としての活動は、まず八・一八の政変の際に出動した52人の隊士の一人だったと思われます。次いで1864年(元治元年)6月5日に起こった池田屋事件の際には、報奨金を受け取ったメンバーには入っておらず、山南敬助や山崎蒸らと共に屯所を守る留守部隊の一人だったと考えられています。その後の蛤御門の変においても、永倉新八の「新撰組顛末記」や「浪士文久報国記事」にその名が無く、同じく留守部隊であったと思われます。

1864年(元治元年)9月、近藤は将軍上洛の催促と新隊士募集のために江戸へ下りますが、このとき同行したのが永倉新八と武田観柳斎、それに尾形でした。永倉は、松前藩出身である事から老中の松前候との橋渡し役として同行したものと思われ、後の二人は近藤のブレーンとして随行したものと考えられます。これより前、藤堂平助が新隊士募集のために江戸へ先行していました。尾形は近藤に従って、松前候のほか各藩の江戸屋敷を歴訪しています。

江戸から帰った後、新隊士を迎えた新選組は、長州征伐に従軍する事を想定した行軍録を作成しています。このとき、尾形は5番組長に任命されました。さらに1865年(慶応元年)に再度の編成換えがあり、このときは諸士調役兼監察とされています。伊東一派の入隊により腕に覚えのある隊士が増え、実戦向きではない尾形は指揮官からはずされたのでしょうか。しかし、軽く扱われていた訳ではない証拠に、文学師範役を拝命しています。

この年の11月に近藤は永井尚志と共に長州訊問のために広島を訪れますが、その随行員として伊東甲子太郎、武田観柳斎らと共に尾形が選ばれています。長州側には永井尚志の従者として届けられ、近藤は給人、武田は近習、伊東は中小姓、尾形は徒士とされました。これからすると、尾形は末席という扱いだったようですね。このときの訪問では、なんら得るところ無く、12月には京に戻っています。ただ、同行していた山崎蒸や吉村貫一郎は長州領に忍び込み、周防方と呼ばれる情報を収集する役目に就いています。

翌慶応2年2月にも近藤は広島を訪れており、この時の随行者は伊東、篠原泰之進と尾形でした。この訪問では、伊東は近藤とは別行動を取って、諸藩の周旋役に長州藩に対する寛大な処分を説いて回るなどしており、明らかに近藤とは立場を異にしつつあった事が伺えます。近藤と尾形は、今回も何も得る事なく、3月に帰京しています。

1867年(慶応3年)6月23日、新選組隊士は幕臣に取り上げられますが、尾形は助勤として大御番組を仰せつかっています。この翌日、尾形は、土方、山崎、吉村と共に近藤の建白書を携えて、柳原前光、正親町三条実愛のもとを訪れて、長州征伐についての意見を述べていますが、聞き置かれるだけで不調に終わっています。

1868年(慶応4年)1月3日に鳥羽伏見の戦いが起こり、敗れた幕府軍と共に新選組は江戸へと帰還しますが、尾形もその中の一員にいました。新選組は、このあと甲陽鎮撫隊として勝沼で戦って敗れ、江戸で永倉と原田が離脱し、さらに流山で近藤が投降するなど衰退の一途をたどりますが、尾形は斉藤一と共に会津へ向かい、戦い続けています。ただ、会津でどのような行動をとったのかは良く判っておらず、8月22日に他の隊士と共に若松市中の斉藤屋に宿泊していた記録を最後に、消息が消えてしまいます。斉藤はなおも如来堂に向かって戦い続けたのですが、そこには尾形の名はありませんでした。一説には、会津若松城に入って戦っていたのではないかとされますが、確証はありません。尾形が戦病死したという記録もないのですが、その消息を伝えるものとして、郡山市の正福寺に尾形姓の墓があったという話があります。ただし、これも寺に残る過去帳からは確認出来ないようです。

一方、永倉が板橋に建てた供養塔には尾形の名は無く、永倉は尾形が会津で死ぬ事なく生き延びて、依然として生存している事を知っていたのではないかとも考えられています。尾形のその後の伝承としては、熊本の警察で剣道を教えていた、警視局で古閑膽次という名で藤田(斉藤)とコンビを組んで密偵をしていたなどがありますが、いずれも確証はありません。

武闘派集団である新選組において学者という特異な存在であった尾形俊太郎でしたが、常に幹部として重用され、最後まで新選組にあって戦い続けました。その人柄を伝えるエピソードは残っていませんが、他の文学師範であった伊東甲子太郎、武田観柳斎、毛内有之助がいずれも最期は粛清にあっている事と比べると際だった違いを見せています。優秀であると共に、時勢に流されることなく近藤と新選組に対して誠実であり続けた人であったことが偲ばれます。

次は、尾関雅次郎ですが、ドラマでは熊面鯉(くまづらごい)が、どこかユーモラスな役柄を演じています。この一風変わった芸名は、元はと言えば三谷幸喜が新見錦を演じていた相島一之に付けようとした名前だったそうですね。それを相島が嫌がったため、せっかく良い名前だからと「はなまるマーケット」という番組の中で三谷が中心になってオーディションを行い、見事ゲットしたのが今の熊面鯉との事です。そういった縁が、今回のドラマの出演に繋がっているのかも知れないですね。

尾関は、大和高取の人で、同じく新選組隊士として勘定方を勤めた尾関弥四郎の弟です。1863年(文久3年)6月以降の入隊と考えられ、最初は平隊士、後に伍長を勤めています。1864年(元治元年)に起こった池田屋事件では、尾形と同じく留守部隊であったと考えられ、報奨金のメンバーからは外れています。このあたりは、ドラマにあったとおりですね。元治元年12月頃に作成された行軍録では、中村金吾と共に旗役として先頭を任されています。これも時期は違いますが、ドラマの設定どおりです。1867年(慶応3年)6月23日の幕府直参取り上げの際には、平同士とされています。その後、1868年(慶応4年)1月3日に起こった鳥羽伏見の戦いでは伍長として参戦し、無事に戦い抜いて江戸に帰還しています。その後は、会津から蝦夷地まで戦い続け、中島登覚書では指図役を勤めていたとあり、4月27日の大谷地村の戦いで、さらに翌明治2年5月12日の御台場の戦いでそれぞれ手傷を負ったと記録されてます。そして5月15日、ついに降伏し、弘前薬王院に収監されました。その後は東京へ移送され、さらに高取藩に預けられたあと、1870年(明治3年)年に赦免されています。その後の事はよく判りませんが、1895年(明治25年)2月28日に郷里で亡くなっています。

あまり詳しい事は判っていませんが、新選組の初期から在籍し、最期まで戦い抜いて生き残った数少ない隊士の一人ですね。この人も特にエピソードは残っていないのですが、島田魁と同じく、古参隊士として筋を通して生き抜いた人だったという気がします。

この項は、永倉新八「新撰組顛末記」、木村幸古「新選組日記」(浪士文久報国記事)、「新選組全史」、子母澤寛「新撰組始末記」、新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」(「新撰組始末記」「中島登覚書」)、別冊歴史読本「新選組の謎」、河出書房新社「新選組人物誌」を参照しています。

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2004.08.10

新選組!23の2

新選組! 第31回「江戸へ帰る」その2

謹慎中の原田、斉藤、島田、尾関、葛山の五人。その中でひでが何か縫い物をしています。余程暇なのか、スクワットをしている尾関。「ちくしょう~。狭いんだよ!島田!ど真ん中手で寝ているんじゃねえよ。」と叫ぶ原田。「どこで寝たっていいでしょう。別にここは原田さんの部屋じゃねえんだからさ。」と島田。何気ないやりとりですが、監察の島田が副長助勤の原田を歯牙にも掛けていない様子が伺え、まだ新選組内に組織としての秩序が確立していない事を思わせるシーンです。まあ、これは島田の性格に依るのかも知れませんが、特にこのグループは同志の集まりである事を強調しているのかも知れません。「新選組では、俺の方が先輩なんだよ。」と原田。この二人は、大阪の谷の道場でも兄弟弟子だった事から、余計に親しいのでしょうね。本を読みふける葛山を見つめる斉藤。「なんか付いてます?」と聞く葛山。間が悪そうに目をそらす斉藤。「会津候にお目通りしたとき、なんで近藤局長がおったんか。誰かが裏で通じてないと、あんなに早よう局長が来られる筈がない。」と斉藤に話しかける葛山。さすがに、監察に就くだけのことはあって、なかなかに鋭いところを突いてきます。葛山に見つめられ、気まずそうに「俺じゃない。」と笑って誤魔化す斉藤。後のシーンの伏線ですが、なかなか見事な演出です。

「皆さん、元気ですか。」と脳天気に入ってくる沖田。彼は、隊内の政治には関心が無いのでしょうね。「うわ、この部屋汗臭い。よく平気で居られるね」と沖田。鼻に詰め物をしているところを見せるひで。これじゃ、色気も何もあったもんじゃありません。親しみは持てるけど。おまさの店の様子を聞く原田。沖田は原田に頼まれて、様子を見てきたのですね。ひでが縫っていたのはまさの店の暖簾でした。「俺が縫った事にしといてね。」と原田。あの手この手を使って、まさに気に入られようと頑張っているのですね。「私も行っても良いですか。」とひで。鼻紙を詰めた顔は、やっぱり間が抜けています。「うーんと、いいや。」と素っ気ない沖田。やはり、ひでとは距離を置いておきたいようですね。

玄関で佇む山南。考え事をしている様ですが、どこか寂しそうです。「お出かけですか。」と声を掛ける沖田。誰にでも明るく振る舞えるところが、沖田の持ち味ですね。沖田は、山南をおたふくへ誘います。

「左之助さんが縫いはったんですか。」と暖簾を眺めるおまさ。半信半疑の様ですが、まんざらでもなさそうです。佐之助の計略は、当たりつつある様ですね。「原田さんは、おまささんにぞっこんなんですね。」と水を向ける沖田。この際当然の話題でしょうけど、山南は別の事を考えていました。「土方君のことだが、気持ちは判らないでもないが、新選組や近藤さんを守る為には多少荒っぽい事は仕方がないと思っている。しかし、今のやり方は間違っている。」と山南。「難しい事は判らないけど、土方さんは一生懸命なんだと思うな。」と沖田。彼は無邪気に土方を信じているのですね。「永倉君達がなぜああいう行いに出たか、土方君はもっと考えてみるべきだ。新選組を大きくしようとするのは良い。でも、このままでは誰も付いてこなくなる。」と山南。「憎まれても良いと思っているんじゃないかな。近藤さんの為なら、嫌われ者になるつもりじゃ。」と沖田。なるほど、彼はちゃんと彼なりに土方を理解してやっていたのですね。「そこなんだ、私は一番それが恐い。土方君には近藤さんの為という思いがある。だからどんな事でも出来てしまう。」と山南。山南もやはり土方の気持ちが判っていたのですね。しかし、彼の慎重な性格が、土方との距離を作ってしまっていたのでした。

「おい、行くぞ。」と店の外から声を掛ける男。店の座敷から出てくる女。山南はなにやら気になる様子です。お汁粉の勘定を巡って言い合う二人。男は女衒で、女は買われてきた遊女でした。名はおすずと言い、浮船という店に出ると言います。「浮船って、この近くのあの?」と沖田。彼は芹沢と一緒に行った事があった様です。「じゃ、売られてきたんだ。」と軽く言う沖田ですが、いくらなんでも無邪気に過ぎます。でも、おすずの方は屈託がありません。「そう。だから、これが最後のお汁粉。美味しかったよ。今日の味、一生忘れへんわ。」と無理に明るく振る舞います。その様子が山南の琴線に触れたのでしょうか、「勘定は私が払う。」と言います。「ええよ、別に。」とおすず。「気にするな。」と山南。「うちに惚れたん?」と際どい事をさらっというおすず。まんざらでもなさそうな山南。おすずを見送ってから、我に返ったように「何の話でしたっけ?」と沖田に聞きます。心ここにあらずといった様子ですね。

西洋医学所頭取の松本良順を訪ねている近藤。沖田の症状の相談に来ているのですね。良順の診たても労咳でした。まず助からないと聞き、ショックを受けた様子の近藤。やはり沖田は近藤にとって一番大切な存在なのですね。療養を勧め、ただで薬を呉れる良順。「近藤さんは攘夷派でしたね。ここにある全てのものは外国から持ち込まれたもの。西洋医学の知識は、東洋と比べものにならない程進んでいる。今世界との交わりを断ち切ってしまっては、日本の将来はありません。あなたの大切な人を少しでも助けてあげられるのは、西洋から入ってきた知識です。それでもあなたは攘夷を良しとするのですか。」と良順は静かに近藤に話しかけます。何も答えられずにうつむく近藤。

近藤が、松本良順を訪ねたのは事実です。そのとき松本家では、攘夷家の近藤が良順を斬りに来たと大騒ぎになったそうです。しかし、良順は「国家の為に尽くさんとするものに、廉恥道徳の心が無い事はない。」と言って応接室に通して面会しました。近藤は、外国の事情を聞きたくて良順を訪ねて来た様です。良順は、自分の知っている限りの知識を話し、地図や機械を示して説明してやりました。近藤は、「僕の多年の疑念一朝氷解した。」と言って去ったそうです。自他共に認める攘夷派であった近藤ですが、この頃には攘夷について疑問を抱く様になっていたようです。彼に最も影響を与えたと考えられるのが佐久間象山で、象山は新選組屯所を何度も訪れたとありますから、その間に世界情勢について聞く機会があったのかも知れません。さらに良順との交流によって、攘夷は不可であるとの認識を次第に深めていったようです。この後良順は新選組の有力な後援者となり、新選組屯所の衛生管理について助言を与えたりと、深い関係を持つに至ります。

新選組の屯所の坪庭で、瞑目する土方。彼の背後には、4人の名前を書いた紙があります。何かを決断した様子の土方。「総司、山南さんは?」「本を買ってくると言ってました。」と沖田。「葛山を呼んできてくれ。」と土方。背後に居たのは、沖田と井上でした。葛山を呼びに行く沖田。井上と二人になった土方。「お決めになられたんですね。」と重々しく言う井上。彼もまた、数少ない土方の内面の苦悩を知る理解者でした。「俺が好き好んでこんな事をしていると思うな。いや、人にどう思われようが構わない。ただ、源さんには判っていて欲しかった。俺も甘いな。」と土方。「心中、お察しします。」と井上。「全ては新選組の為だ。」と苦しそうな土方。ここに居たのが、土方、沖田、井上の3人だったという事は、やはり重要な意味がありそうです。この3人は日野宿の郷党で、土方にとって最も心を許せる仲間でした。ある意味、近藤以上に親しい仲間だったのかも知れません。土方がその心の内面をさらけ出せる、唯一の存在だったのでしょうね。

5人の謹慎部屋。相変わらずスクワットをしている尾関。寝場所を巡って争う原田と島田。本を読む葛山。一人瞑目する斉藤。「葛山さん、土方さんが呼んでいます。」と沖田。嫌な予感がしたのでしょうか、葛山が沖田を上目使いに見上げます。

本の包みを抱えて歩く山南。道端でおりょうと戯れる龍馬。「坂本さんではないですか。」「おう、久しぶりじゃのう。」2人は、近くの店に入って久闊を温めます。「山南さんは、同じ道場で北辰一刀流を学んだ仲じゃきに。今は、新選組総長とはにゃあ。」と龍馬。「偉いの、総長て。」と無邪気なおりょう。「総長ゆうたら、局長の次じゃろう。いや、凄いのう。」とお世辞を言う龍馬。しかし、今の山南には、皮肉に聞こえたのかも知れません。「名ばかりの総長です。今の新選組を動かしているのは、土方君ですから。」と部外者に対して本音が出てしまう山南。このあたりが謙虚というか、山南の弱さなのかも知れませんね。「この店は煮物がうまか。すまんが、煮物ば持ってきてくいやんせ。うまかでごわんど。」と、怪しげな薩摩弁をしゃべる龍馬。さりげなく、龍馬と薩摩との関係を臭わす、巧みな演出ですね。「勝先生や、薩摩の大島どんや、今は行方知れずの長州の桂さんや、そういった人物を一同に集めたら、日本は変わるき。わしは、その橋渡しをしようとしちゅるがよ。」と龍馬。本来なら、新選組総長に話せるような事ではない危険思想ですが、それをさらっと言ってしまうところが彼らしいですね。ショックを受けたような山南。その山南を気遣うように、「話半分に聞いといた方がええですよ。」とおりょう。「どないじゃ、おまんも一緒に世直しに加わらんか。」ととんでもない事を言い出す龍馬。「私は...」と明らかに動揺する山南。「新選組におってもしょうがないちゃ。おまんら、やりゆる事はなんぜよ。役に立つ連中を、ただ斬りゆるだけじゃないか。何になるというがぜよ。おまんほどの俊才がもったいないちゃ。どんなにええ刀でも、鞘に収まっているまんまじゃ、木刀も一緒じゃき。」山南の心の内を見透かしたような龍馬の言葉でした。もし、このとき山南が新選組総長という立場でなければ、一も二もなく龍馬に付いていったかも知れないですね。激しく動揺する様子が、ありありと山南の表情に浮かんでいます。

「なぜ、私が切腹しなければならないのです。」と土方に食ってかかる葛山。「お主達の行いは、隊の規律を乱すものだ。」と冷徹に言い放つ土方。「二度と同じ事を繰り返さない為には、だれかに責めを負って貰うしかないんだ。」「それがなぜ私なんです。」と苦しげな葛山。土方は、一枚の紙を差し出します。「会津候に提出した建白書の下書だ。これを書いたものに責めを負ってもらう事にした。」と静かですが、冷たく言い渡します。「山南さんを呼んで下さい。私は、山南さんに頼まれてこの建白書を書いたに過ぎない。私は、山南さんに言われたとおりにしただけなんです。」と必死に訴える葛山。彼にしてみれば、当然の主張だったでしょうね。「では、山南を恨め。」「何で私が。山南に会わせろ!」と叫ぶ葛山。「お前のその姿を見て安心したよ。何の信念も覚悟もなく、局長への謀反に荷担するようなやつは、生きるに値せん。」まさに、鬼と呼ぶに相応しい土方でした。理不尽極まりない処分ですが、土方にすれば冷厳に処分すればするほど、隊内の規律は引き締まるという読みがあったのでしょうね。そして、その分、自分への風当たりがきつくなるという事も覚悟の上でした。全てを承知の上で、鬼を演じているのです。ひたすら哀れなのは、葛山です。

おすずの下を訪れている山南。「来てくれるとは思わんかった。昼間はおおきに。」新選組始末記では、太夫の一つ下の位の天神となっていますが、ここではただの遊女という設定なのですね。遊郭の色に染まらず、まだまだ素朴なおすず。遊びに来ているのに謹直な山南。「今夜はどうしても飲みたくてね。しかし、京には飲む相手が居ないものだから、ここに来た。」と寂しい事を言います。もはや新選組に山南の心を判ってくれる相手は居ないという事なのでしょうか。いつの間にそんなに孤独になってしまったのでしょう。「あんたも寂しいお人なんやな。」とおすず。おすずはどこまでも無邪気で、山南の出身を聞いたかと思えば、自分の身の上話しを始めたりと、奔放に振る舞います。「聞けば随分と悲惨な話なのに、随分明るい。」と山南。「暗くも出来ますよ。」と落ち込んでみせるおすず。「神さんはちゃんと考えているんやね。うちを生まれつき阿保にしたんは、どんなひどい目におうても平気なようにやと思うんよ。賢かったらこうはいかんで。とっくにもう首くくっとるわ。」おすずは、雑草のような逞しい女性なんですね。「お客さんは、なんでこっちに来やはったんですか。」「尊王攘夷の志を持ち、尽忠報国の為に京に上った。しかし、こちらに来て一体何をした。時代は大きなうねりを見せているのに、私達は仲間内の争いに終始している。そんな自分がつくづく嫌になった。」誰にも言えなかった山南の本音でした。龍馬の話を聞き、おすずに出会って、初めて自分の気持ちに素直になれたのですね。「うちの名前考えて。明日までに付けろと言われているんやけど、あんたに付けてもらお。」とおすず。「明里。明るい里と書いて明里。いつかあなたの里にも、明るい日が差す事を祈って。」山南は優しいですね。ちゃんと相手の気持ちを考えて名前を考えてやりました。「あけさと、明里。うーん、ええかも知れへんね。」明里を見つめる山南の顔は、いつになく安らいで見えます。

葛山の切腹の場面。介錯は斉藤。立ち会うのは、土方、沖田、井上の3人。はめられたにも係わらず、逃げないで切腹の場に着く葛山は、やはり名誉を何よりも重んじるこの時代の人だったという事なのでしょうか。「作法を知りません。」葛山は元僧侶だったという設定ですから、武士なら幼い頃から教えられている切腹の作法を知らなかったのですね。「形だけで構わん。」作法を知らない事では同じ立場の土方が、冷徹に言い放ちます。小刀を手に持ち、構える葛山。背後に立つ斉藤。ふと気が付いた様に斉藤を見上げる葛山。「下書きを、土方に渡したな!」と斉藤に向かって叫ぶ葛山ですが、斉藤は無言で冷たく見下ろすだけです。苦しげに顔を歪ませる葛山。どこまでも冷たい表情の土方。「裏切り者!」葛山の最後の声でした。それを聞きながら無表情に刀を振るう斉藤。能面のような表情の、沖田、井上、土方の3人。井上だけが、わずかに震えていました。

江戸の試衛館で、近藤と会う伊東大蔵。伊東と連絡を付けたのは、藤堂平助でした。「我が門人、藤堂平助の格別のお引き立て、感謝いたします。」と伊東。師匠として当然のあいさつではありますが、その一方で、藤堂はあくまで自分の配下だという宣言とも受け取れる態度ですね。「近藤先生の国を思う気持ち、誠に感じ入りました。我が伊東道場の門人を引き連れ、お仲間に加わりましょう。」伊東にすれば新選組の配下になるというより、対等な立場での加盟というつもりだったのでしょうね。「この乱世、我ら心を一つにし、日本の為に尽くしましょう。」「ありがとうございます。」この二人の思想は、後に佐幕と勤王とで両極端に違ってしまいます。しかしこの頃は、攘夷という部分では一致し、尊王という点においても近藤と伊東の間で繋がる部分があり、暫くは二人は歩調を合わせ、近藤は伊東を大いに頼りにしていく事になります。「新選組加入を足がかりにして、新しい世はこの伊東が切り開く。忙しくなりそうだ。」と藤堂に向かって言う伊東。なにやら陰謀めいた臭いがします。

この藤堂と伊東の関係について、永倉新八の「新撰組顛末記」では、次の様に書かれています。藤堂が伊東の下を訪れ、「我らが近藤と同盟を結んだのは勤王の為であったが、かれは徒に幕府の爪牙となって奔走し、最初の目的であった勤王はいつ達成できるか判らない。近藤の小成に安んじている態度に脱走者が相次ぎ、我らも匙を投げている。そこで、近藤を暗殺し、平素勤王の志厚い貴殿を隊長に頂き、新選組を純粋の勤王党に改めたい。」と打ち明けます。そして、伊東と藤堂は、京都においてこれを実行する密約を結びます。伊東は、近藤に面会して「新選組は真に王事につかうる主義の勤王論でござろうな。」と確かめ、近藤は伊東の真意が倒幕にあると知りつつ、「いかにも真の勤王論である。」と答えます。この答えを聞き、伊東は新選組加入を承諾したとあります。

このことについては、藤堂は後に伊東に従って新選組を離れ近藤と袂を分かつ事になる事から、あり得ない話ではなさそうです。しかし、永倉がこの話を直接聞けた筈もなく、本当にこのとおりの会話が藤堂と伊東の間で交わされたのかどうかは判りません。西村兼文の「新撰組始末記」では、「伊東は、国事に奔走するために京都に出る機会を探していた。近藤が出府して来たのを幸いとして近藤の下を訪れ、国事について高論卓越に展開したところ、文事に暗い近藤がこれに伏するところがあったので、入隊を約束した。」とあり、藤堂との関係については触れていません。また、子母澤寛の「新選組始末記」では、藤堂は伊東と近藤の橋渡しをしたとだけあり、密約の話は出て来ません。少なくとも、このドラマでは密約説は採っていないようですね。しかし、近藤と伊東の間に挟まった藤堂の苦悩は、これから深まって行きそうです。

京の町を走る山南。誰かが葛山の切腹を知らせたのでしょうか。屯所の中庭に横たわる遺体。呆然とする山南。死体を改める山南の背後に土方が現れます。にらみ合う二人。こんな恐い顔の山南は初めてです。凍り付いたような表情の土方が言います。「やつを殺したのは、俺とお前だ。」土方にすれば、山南を非難していると言うより、自分と同罪という事で山南を自分の元に引きつけたかったのでしょうね。もはや引き返せない同じ運命に乗っている、だから俺を理解しろと叫びたかったのかも知れません。しかし、その叫びは山南には届きそうにもありません...。

再び、江戸の試衛館。娘のたまの可愛い寝姿を見守る近藤夫婦。「母親に似て良かった。」「目のあたりは、勇様に似ています。」「やっと、ゆっくり話せるな。みんなには内緒だぞ。」とかんざしを差し出す近藤。京土産は無いと言っておきながら、ちゃんと妻にだけは買ってきていたのですね。抱き合う二人。つかの間に訪れた家族の幸せでした。

この項は、永倉新八「新撰組顛末記」、子母澤寛「新選組始末記」、新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」(新撰組始末記)、小野圭次郎「新選組伊東甲子太郎」、歴史読本7月号「坂本龍馬と幕府浪士取立計画」、別冊歴史読本「新選組の謎」を参照しています。

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2004.08.09

新選組!23

新選組! 第31回「江戸へ帰る」
冒頭、会津候に拝謁する近藤勇。江戸に下り、長州征伐のために将軍上洛を促すよう老中と談判してくるよう頼まれます。考えてみれば、凄い出世ぶりですよね。多摩の農家出身で小道場の主に過ぎなかった近藤が、幕府の老中と掛け合いに行くというのですから。驚天動地の出来事と言っても過言ではありません。それほどまでに池田屋事件の与えた衝撃は大きかったという事なのでしょう。この将軍上洛の建言については、永倉新八の「新撰組始末記」や子母澤寛の「新選組始末記」では、会津藩の再三の要請にも係わらず将軍上洛が実現しない事を憂えた新選組側から会津藩に申し出て、会津候の同意を得た上で下向したとあります。

「会津に帰る事になった。お役ご免だ。」と秋月悌次郎。「私のような軽輩が、いささか出過ぎたかな。」と自嘲する秋月ですが、彼は会津藩にあって100石取りの家柄の出ながら、年少の頃からその才覚を買われ、江戸の昇平校に学び、その後藩命で西国を遊歴して見聞を広めるなど英才教育を受けてきました。そして、会津候が京都守護職として上洛するにあたって京都公用方に抜擢され、八・一八の政変時における薩摩藩との同盟を実現するなど人脈の広さを生かして会津藩の外交を担って活躍して来ました。しかし、軽格の出という事から藩内に敵が多く、彼を抜擢した家老横山主税の死と共に失脚し、この後蝦夷地代官へ左遷されてしまいます。そして1867年(慶応3年)に窮地に陥った会津藩を立て直すべく京都に呼び戻されますが、既に時遅く、活躍の場のないままに戊辰戦争へと突入してしまいます。明治以後は東京大学などの教授を務め、熊本五高では小泉八雲と同僚になり、八雲をして「神のような人」と言わしめています。秋月の人格の高さを伺わせるエピソードですね。 ドラマでは堀部圭亮が、秀才でありながら人当たりの良い秋月を好演していますね。

壬生の屯所での幹部会議。江戸へ下る人選を巡って話し合いが行われています。藤堂平助は江戸に行っているのですね。「局長、江戸には誰を連れて行きますか。まあ、私がお供するのは当然として。」と武田。「決まってんのかよ!」とつっこむ土方。何をそんなに勢い込んでいるのかと言わんばかりの、武田の飄然とした表情が面白いですね。「私も行きたいな。」と沖田。しかし、咳き込む沖田を見て、近藤は永倉を指名します。「永倉は謹慎中だぞ!」と異議を唱える土方。そう言えば、なんで謹慎中の永倉が会議に出ているのでしょうか。「永倉さんはいかがですか。」と山南。「局長の考えに従います。」と永倉。「それでは決まりだ。」と近藤。憮然とした様子の土方。会議が自分の意のままに進まない事に、苛立ちを覚えているのでしょうか。「永倉君を連れて行くのは正解でしたね。私もあの件以来土方君とは離しておくのが良いと思っていました。」と山南。近藤は何も言いませんが、同じ思いだったのでしょう。

薩摩藩邸で藩兵の訓練を見守る大島吉之助。そこへ、坂本龍馬が訪ねてきます。「おはんは、何がしたかとな。」と大島。「とりあえず、今将軍家の回りにいるやつは、皆お役後免にするきに。ほんで、勝先生を筆頭に、各藩から頭と腕を持った連中を集める。薩摩、会津、長州、土佐。ほんで、みんなで将軍家を盛り立て諸外国にも負けん強い日本を作るがよ。」と龍馬。前回出て来た「日本を今一度、せんたくいたしもうし候」の手紙にあるとおりの構想ですね。「話が太すぎて、めまいがし申す。」と大島。彼は、この時期はまだ薩摩藩を超えた発想までには至っていなかったようですね。「大島さん、おまはんや、長州の桂さんがどうしても必要になるがよ。」と龍馬。後の薩長同盟への伏線ですが、実際にはこの構想はそれこそまだまだ絵空事の段階で、とてもこんな話は出来なかった事でしょう。

寺田屋で会合を持つ尊王攘夷派の志士達。その中心に座っているのは、なんと捨助です。「新選組は潰す。池田屋と御所の戦いで死んでいった同志達の敵を討つんだ。」と志士の一人。「おいおい、あんたらどうしようもねえなあ。これから長州征伐が始まるかもしれねえってのによお、新選組なんてどうでも良いだろう。」と捨助。随分と語る様になったものですが、これって近藤達に対して残っている思いが言わせているのでしょうか。「桂先生に会わせろ。」「やなこった。俺を先生だと思えばいいんだよ。」と捨助。なんともまあ、大物になったものです。いや、そのつもりになっているだけか。「桂先生もなんでこんな男に託したんだ。」ともう一人の志士。ウン、ウン、その気持ち良く判ります。どう見ても完全な人選ミスですよね。でも、捨助の言っている事は妙に的を射ています。根からの志士で無い分、かえって客観的に情勢が見えるという事なのでしょうか。「お話中すんまへん。新選組が下に来てます。」とお登勢。階段の下には、土方と沖田の姿が。「御用改めである。」と叫ぶ土方。慌てて逃げ出す志士たち。たちどころに地が出て、あわてふためく捨助。「危ないから。」と言いながら、2階の窓からお登勢に突き落とされるようにして、叫びながら転落していきます。その直後に入ってきた土方と沖田。捨助の叫び声は聞こえなかったのでしょうか。「あら、おこしやす、土方先生。沖田はんも。」と笑顔で誤魔化すお登勢。大した度胸です。疑わしげにお登勢を見つめる土方。

江戸の試衛館道場へ戻った近藤と永倉。藤堂も江戸で合流したのですね。出迎える江戸の面々。周斎の体調を気遣う近藤。前年、芹沢を粛清した前後、周斎は体調をこわして寝付いていたのですが、近藤は新選組の運営に掛かりきりであったため見舞いに帰ることが出来ず、会津藩から近藤の故郷に宛てて近藤が京都を離れられない旨の手紙が届けられています。近藤が江戸に帰ったこの時期は、周斎の体調は小康を得ていて、起きあがれる程度には回復していました。故郷には、池田屋事件、蛤御門の変など、主な活躍は全て手紙で知らされていました。近藤にすれば晴れがましい凱旋だったのでしょうね。1年半ぶりに会った娘のたま。可愛らしく成長した姿に近藤の顔も緩みます。「こないだ、拳骨くわえて寝てました。」とふで。親子の繋がりが感じられて良いシーンです。

松前藩邸を訪れた近藤達。一緒に居るのは、藤堂、武田、尾形の三人です。永倉は、松前藩脱藩の身である事から遠慮したのでした。老中格松前伊豆守と対面する近藤。「攘夷より長州です。まずは国の中を納め、それから諸外国との事に取りかかるのが筋です。」と存念を述べる近藤。なかなか堂に入ったものです。「この間上洛されたばかりではないか。」と伊豆守。「先のご上洛は、この5月まででございます。」と素早く近藤に伝える尾形。目立たないですが、なかなか有能そうな人ですね。「今度の上洛を期に、公武力を合わせて攘夷を行っていただきたく存じます。」と近藤。やはり、近藤にとって新選組の本意は攘夷にあるのですね。「ここだけの話だが、上様上洛には莫大な金が掛かるのだ。」と伊豆守。「旗本達が上様をお守りして上洛するには支度金が要る。兵を動かすには金が要る。しかし、幕府にも旗本にも今はその金が無い。」これが幕府の本音でした。

「全く情けない。支度金が出ないから上様のお供が出来ない。今の旗本は腐っている。」と近藤。全くそのとおりで、本来、旗本の俸禄はいざというときに戦場へ駆けつけるために与えられているもので、別途支度金を貰おうなどと言える筈も無いのでした。金が無ければ家財道具を売ってでも将軍家に尽くすべきであり、それが250年間もの間旗本としての地位を保証されてきた見返りだったのですが、長年の飽食が続いた結果、本来の役割を忘れてしまっていたのです。この旗本達が、徳川家を潰したと言っても過言ではないでしょう。「この先どうされるのですか。」と藤堂。「地道に説得するしかないだろう。」と近藤。実際、近藤は何度も伊豆守と会い、建白書も提出していますが、将軍の上洛が実現したのはさらに半年後の事でした。

襖の陰から現れた一人の人物。満面の笑みを浮かべて近藤に近づいてきます。「局長。無沙汰しておった。」となにやら親しげです。なんと、ずっと以前に近藤を百姓の出だからとして講武所から追い出し、浪士組の結成時には集まりすぎた人数を前に気を失い、仮病を使って逃げ出した松平上総介(当時は主税助)でした。「新選組!浪士組を作ったこの上総介も鼻が高い。これから尽忠報国の志を持って、共に長州を懲らしめてやりましょうぞ!」と手のひらを返したような持ち上げ方です。あっけに取られる近藤達。なんともいやらしい人物ですが、いわゆる腐った旗本達の代表格なのでしょうね。ただ、彼の名誉の為に言っておくと、当初50人の予定だった浪士組が235人にふくれあがり、恐れをなした主税助がその場で職を投げ出して逃げたというのは誤りのようです。実際には、彼はその前に異動があって昇進を果たしており、併せて上総介に叙任されていて、浪士組取扱は解除されていたのでした。彼もまた、誤った情報でいわれのない汚名を着せられている一人のようですね。

京都の新選組屯所。山南と土方が深刻な顔で話し込んでいます。「それはなりませぬ。あれはもう終わった話。」と山南。「俺の中じゃ終わっちゃいねぇんだ。」と土方。ずっと覚えておくぜと言ったのは、嘘では無かったのですね。「あいつらがやった事は謀反だ。謀反人を処罰して何が悪い。」と土方。新選組を一つの組織として見た場合、永倉達の取った行動は確かに造反でした。「彼等は今謹慎している。何も腹を切らせなくても。」山南も、実は土方の見方を半ばは認めているようです。「甘いんだよ。ここで引き締めておかないと、また同じ事を繰り返す。」と土方。烏合の衆である新選組をまとめて行くには、強烈な法規を確実に執行していくよりないと土方は見切っているのですね。「だったら起こらない様にすればいい。彼等の不満の方向を見定め、それに対処する方が先。」と山南は、あくまで常識論です。今の世の中なら、むしろこの方が真っ当な方法論ですよね。「そんな事したって、誰かさんが裏で唆したりしたら、同じ事だろうが。」土方の不満はここにありました。本来なら、新選組を強化しようとする自分に同調してくれるはずの山南が、裏に回って自分の脚を引っ張るような真似をしている事が我慢ならなかったようです。「とにかく私は承服しかねる。」と山南。彼にすれば、これ以上仲間内での争いは見たくなかったのでしょう。憮然とした表情で座り込む土方。どうしても自分を理解してくれない山南に対するやりきれなさを表している様です。

言うまでも無い事ですが、このあたりの山南と土方の関係は完全な三谷オリジナルです。通説としては、「新撰組始末記」や「新選組始末記」の記述から、土方と山南の間に勢力争いがあり、二人は犬猿の仲だったとなっています。その最たるものは、山南が切腹するときに現れた土方に向かって叫んだという「おお、やってきたか、九尾の狐。」という言葉です。このあたりから、山南にすれば土方は近藤局長に取り入ってたぶらかし、新選組を私して道を誤らしている存在で、自分をも奸計をもって陥れた相手と見ていたとする説が一般的なようです。しかし、それ以前の二人の間にどんなやりとりがあったのか、知る術はありません。その一方で、土方は、実は山南を慕っていたとする説があります。その根拠が土方の作った「水の北 山の南や 春の月」という句で、解釈の仕方によっては山南を敬慕する内容と受け取れなくもありません。三谷演出は、この句から感じ取れる二人の関係を描いている様に思えます。

このところ、2部構成が普通になってしまいました。長くなって申し訳ありませんが、後半は明日アップします。

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2004.08.04

新選組!22の3

今回の「新選組!」マイナー隊士の紹介は、前回の谷三十郎の弟達、谷万太郎と昌武です。

まずは万太郎。ドラマでは若松力が演じています。私はこれまで知らなかったのですが、この人も小劇場系の役者さんなのですね。プロフィールに依ると、知る人ぞ知るという存在のようです。

前回の三十郎と重複しますが、万太郎は1835年(天保六年)に備中松山藩に生まれています。父親は旗奉行であり剣術師範も務めていた谷三治郎、120石取りの家柄でした。万太郎は、父の指導の下、武術の修行に励み、特に種田流槍術の達人となっています。父親の死後、兄の三十郎が家督を継ぎ、万太郎も兄と共に剣術師範を務めていたと言いますが、1856年(安政3年)万太郎22歳のときに自身が起こした不始末によって谷家は断絶となってしまいます。万太郎が主君の娘と問題を起こしたとも、家老の奥方に不義を働いたとも伝えられます。

松山を後にした万太郎は大阪に出て、中山大納言の侍医を務めていたという医師岩田文硯と出会い、居候となります。当時、岩田家には武道家を目指す若者が大勢居候していたと言います。その中で万太郎は文硯に認められ、その娘スエと所帯を持ち、南堀江2丁目に道場を開かせて貰うに至ります。この道場は繁盛していたらしく、後の新選組隊士である原田佐之助や島田魁もこの道場で万太郎に槍を習ったと言われています。兄の三十郎も、師範代としてこの道場で暮らしていました。

1863年(文久3年)後半から翌元治元年の初め頃までの間に、谷三兄弟は揃って新選組に入ります。この道場の出身者である原田や島田からの勧誘があったのでしょうか。兄の三十郎は間もなく副長助勤となりますが、万太郎の方はなぜか京都の屯所には入らず、大阪に止まっていた様です。新選組の大阪屯所として下寺町の万福寺が充てられますが、ここにも出入りしていた様子はなく、元のとおり道場の経営に当たりながら、大阪の尊王攘夷派の志士達の情報を探っては京都に送っていたと思われます。

万太郎は1864年(元治元年)6月5日に起こった池田屋事件では近藤の隊に属して参戦し、手柄を立てています。この事件では、「浪士文久報国記事」に「表口に逃げ出した浪士を永倉が追い、(この浪士を)表口から槍の名手谷万太郎が突くやいなや、永倉が肩を切った。」とあり、相当な活躍をした事が伺えます。万太郎が受け取った報奨金は20両で、兄の三十郎よりも上でした。子母澤寛の「新選組始末記」の中で大活躍したとされる三十郎は、この万太郎と取り違えられている事は前回書いたとおりです。しかし、この事件で活躍したにもかかわらず、万太郎はまた大阪の道場に帰っています。

次に万太郎が活躍した事件が1865年(元治2年)1月8日に起きた「ぜんざい屋」事件です。蛤御門の変によって長州藩が朝敵となり幕府から追討を受ける情勢となったため、長州藩に身を寄せていた土佐浪士達は身の置き所を失います。その中の田中光顕、那須盛馬、島浪間、大利鼎吉らが大阪に集まり、天下の形勢を逆転しようと、大阪城に焼き討ちをかけ、将軍である徳川家茂を襲うという計画を立てていました。彼等は最初、道頓堀にあった旅籠鳥毛屋に潜伏していましたが、取り締まりがきつくなったため、松屋町にあったぜんざい屋「石蔵屋」に移ります。この店の主人は、本名を本多大内蔵と称する長州人でした。この噂を谷川辰吉という倉敷出身の人物が聞き込み、万太郎に知らせます。この谷川という人の事は良く判っていないのですが、恐らくは同郷という事で、谷家とは親しい人物だったと思われます。これを聞いた万太郎は、自分達で手柄を立てたかったのか、時間がなかったのかは判りませんが、京都の新選組に知らせる事なく、兄三十郎、門弟の高野(阿部)十郎、正木直太郎の4人で石蔵屋に踏み込みます。このとき、浪士の多くは外に出払っており、石蔵屋に居たのは、本多とその家族、それに大利だけでした。本多は家族を連れて隣家へ逃げましたが、大利は踏み止まり万太郎達と戦います。大利はたった一人ながら奮戦し、三十郎は脚を、正木は右腕を切られ、万太郎は胸を当てられています。苦戦の後、万太郎達は大利を切り伏せ、他の浪士達は取り逃がしたものの、証拠書類の押収には成功しました。万太郎は事件の2日後に近藤、土方に当てた手紙を書いています。それには、非常に手強い相手で切り伏せるのに苦労した事、押収した書類については会津藩の町田氏が立ち会って検分している事などか認められ、なにやら言い訳めいた内容となっています。

この事件の後、万太郎と新選組の繋がりは薄くなり、1866年(慶応2年)4月1日に兄の三十郎が亡くなった後は完全に途絶えてしまった様です。1867年(慶応3年)6月に新選組が幕府直参に取り立てられた際にも、万太郎の名はありません。一説として、田内知の切腹の際に介錯をしくじって立場を無くしたとされる三十郎のエピソードは、実は万太郎が起こした出来事だったのではないかと言われていますが、確証はありません。一方、伊東派の篠原泰之進とは親しくなり、広島の出張から帰って来た篠原と新選組からの脱退について相談しており、その後も親交が続いたと伝えられます。

万太郎は、鳥羽伏見の戦いにも参加せず、明治を迎えた後も道場主であり続けた様です。1874年(明治7年)に一子弁太郎に恵まれますが、その直後明治10年頃には商売に手を出して失敗し、妻のスエと離婚しています。その後、吉村たみという女性と結婚しますが、たみは弁太郎を虐待していたらしく、1885年(明治18年)に弁太郎をスエの実家に預けています。そしてその翌年、明治19年に万太郎は大阪の桃谷で病没しました。享年52歳。彼の墓は息子弁太郎に依って大阪の本伝寺に建てられ、兄三十郎、弟昌武と共に眠っています。

一方、三男の昌武。ドラマでは浅利陽介が演じています。彼はキッズウォーで有名ですが、「北条時宗」で時宗の子供時代を演じるなど過去3回も大河ドラマに出演しているのですね。

昌武は、谷家の末の弟として1848年(嘉永元年)に生まれています。二人の兄とは、母が違うという説もあるようです。谷家が断絶となった時はわずかに9歳、恐らくは兄たちと共に大阪に出て来たと思われます。兄二人と共に新選組に入った昌武は、間もなく局長近藤勇の養子となり、近藤周平と名を改めています。この養子になった理由には諸説があることは前回書いたとおりですが、大きく分けて池田屋事件の前に養子になったとする説とその直後になったという説とに別れます。前者の場合は、近藤は谷家の家筋の良さに惚れ込んで養子にしたという説になり、後者の場合は池田屋事件でかなりの活躍を見せ、その武勇に近藤が惚れ込んで養子にしたという説になります。

このあたりの事情について、近藤が故郷に当てた手紙では、まず池田屋事件について触れ、「討ち入り候者は、拙者、沖田、永倉、藤堂、養息子周平今年15歳、5人に候。」「永倉の刀は折れ、沖田の刀はぼうし折れ、藤堂の刀は刃切れささらの如く、倅周平は槍を切り折られ、拙者刀は虎徹ゆえに候や無事に御座候。」とあり、同じ手紙の末尾に「先日板倉周防守家来より養子貰い申し候。当節柄死生も計り堅く存じ奉り候間、右等の心構え致し候。追って、くわしく申し上げ候。」と書いています。これを素直に読めば、板倉候という名家に繋がる家柄の息子を養子に貰い受け、池田屋事件の際には近藤家の養子として共に最初の斬り込み隊に参加し、沖田や永倉達と共に槍を切られるまで勇敢に戦ったという事になります。

しかし、池田屋の報奨金として周平が受け取っているのは最低の15両であり、近藤と共に活躍したとするには辻褄が合いません。このあたりから様々な憶測が生まれるのですが、最も一般的なものが周平は息子として近藤と共に討ち入ったものの、案に相違してとんでもない臆病者であり、手槍を切り折られただけで後はひたすら逃げ回っていたとする説です。このことから報奨金は最低額となり、近藤は早まって臆病者を自らの養子にしてしまった事に嫌気がさし、次第に周平を遠ざける様になり、後の谷三十郎の粛清にまで繋がっていくとされます。この説の傍証として、池田屋事件の後の周平の刀は無傷だったという記録があげられます。(ただし、この記録の信憑性には疑問があるようです。)次いで、周平は実は最初の斬込隊には属しておらず、井上の組に入っており、一番後から参戦したために15両の報奨金になっているという説があります。この説では、近藤が故郷への手紙で一緒に斬込んだとしているのは、師匠への相談もなく養子を貰い受けた事に対する言い訳として、周平がいかにも天然理心流を継ぐのにふさわしい勇敢な少年であるかのように書いているのだとされます。さらに、周平が池田屋で活躍した事で養子になったという説に立てば、彼は井上隊に属して大きな手柄を立てており、近藤はその事を手紙ではやや変形させて書いているという事になりそうですね。いずれも決め手はなく、どれが正しいかは判りません。ドラマでは、周平を連絡係に使う事で、上手く辻褄を合わせていましたね。

周平のその後については、あまり判っている事はありません。万太郎の妻のスエの妹コウを許嫁とし、近藤は後でコウを養女として迎え二人を夫婦養子にするつもりだったとされますが、これは実現していません。周平の隊での身分は、局長付とも平隊士とも言われています。慶応2年の三十郎の死の後、翌年の12月頃までには養子縁組が解消され、谷周平となっています。なぜ、近藤から離縁されたかについては、周平が酒色に溺れるようになり近藤がこれを見限ったためだとか、近藤に実の息子が生まれたからだとか諸説がありますが、定かではありません。周平は鳥羽伏見の戦いに参戦しており、一説にはそのまま行方知れずになったとありますが、実際には江戸までは新選組と共に帰っています。そして、行方を眩ませたのは江戸での出来事でした。

その後周平は、1868年(慶応4年)に一人の女性を連れて近藤の妻のつねと会っています。つねは、甥の勇五郎に「周平さんも女のためにあんな事になった。」と語っているそうです。周平が酒色に溺れて身を持ち崩したとする説は、ここから出ているようですね。周平はその後高梁に戻り、家名断絶から再興されていた谷家に戻っていたようです。しかし、1872年(明治5年)に再び出奔し、大阪に出て警察官として奉職しました。このとき、谷千太郎という名を名乗っています。そして再び谷昌武と名を変えていますが、翌年には警察官を辞職し、この後暫くは消息が途絶えています。その後、1877年(明治10年)に神戸で播田ツルという女性と同居している事が判っています。このとき、昌武には2歳になる正栄という娘が居ました。昌武は明治13年にツルと結婚し、播田昌武となります。そして明治20年にはツルと離婚し、再び谷正武と名を改めています。このあたりの事情として、ツルは相当な悪女で、正武にしきりと退職を勧め、退職金が入るとこれを巻き上げてすぐに正武を追い出したと言われますが、離婚後もツルは長女正栄の面倒を見続けており、どこまで本当なのかは判りません。その後正武は山陽電鉄の職員として勤務し、1901年(明治34)年に亡くなりました。享年54歳。

谷兄弟の後半生は、華々しかった前半生からするといずれも寂しさが漂います。特に、運命に弄ばれたような昌武は哀れでさえありますね。しかし、彼の後半生の記録は、新選組の生き残りとして、生きにくい世の中を懸命に生き抜いて来た軌跡であり、晩年が不幸だったとも断言出来ません。昌武は全身古傷だらけだったと言い、あたかも彼の人生を象徴しているかの様でもあります。

この項は、木村幸比古「新選組日記」(「浪士文久報国記事」)、新人物往来社「新選組資料集」(近藤勇書簡)、「新選組銘々伝」、別冊歴史読本「新撰組の謎」、子母澤寛「新選組始末記」、文藝別冊「新選組人物誌」、司馬遼太郎「難波城焼討」を参照しています。


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2004.08.03

新選組!22の2

新選組!第30回「永倉新八、反乱」その2

建白書を書くのに筆が立つ男として、葛山武八郎を推薦する山南。この葛山という人は、元京都の寺の虚無僧だったという説があるのですが、三谷演出はそこを上手く使って、彼が建白書提出の仲間に入った辻褄を合わせているのですね。でも、この事が山南にとって打撃になりそうな予感が...。

勇坊になにやら人形らしきものを作ってやっている斉藤一。やはり、彼は一匹狼なのですね。山南の助言に従って仲間を集めようとしている永倉が、斉藤に声を掛けます。ところが、斉藤は近藤達に永倉の企みを漏らしてしまいます。「誰の入智恵だ。」「大体は察しが付く。」「山南総長だ。間違いない。」あっさりと、山南の動きはばれてしまいました。苦しげな近藤。「斉藤、お前に頼みがある。」と土方。うなずく斉藤。

永倉に同調する隊士達。意外に少なく6人だけです。「隊士達の内で同意してくれたのは、こいつだけでした。」と島田。「私は同意した訳ではないのですが、無理矢理...。」と尾関。「おい!つき合えよ。」と迫力を出す島田。彼に凄まれては、大抵の人はすくんじゃいますね。「斉藤君が来て呉れるとは思わなかった。」と永倉。「俺を江戸から逃がして呉れたのは芹沢さんだ。芹沢さんを斬ったやつを許す訳にはいかない。」と斉藤。気まずそうな原田。うーむ、斉藤はスパイになったのか。後に高台寺党に入り込むための伏線なのですね。義理堅かったはずの彼がなぜ永倉を裏切ったのかちょっと理解に苦しむのですが、恐らくは佐伯が芹沢に斬られた時のセリフ、「取り入る相手を間違えるとああなる。」という彼なりの処世術の現れなのでしょうか。実際の斉藤は、戊辰戦争の際に、没落していく会津藩に恩を感じて最後まで戦い抜き、その後も配流地と言って良い斗南にまで付き合うという義理堅さを発揮しています。こういう小ずるい動きをする人では無かったように思えるのですが...。

「近藤さんは、会津藩に認められ、いささか調子に乗ってしまった。新選組を都合の良いように動かし、意見の異なる者を次々除いていく。そのやり方に私は不満を持った。」と演説する永倉。でも、このドラマだと、都合の良いように動かそうとしているのは土方なんだけどなぁ。近藤がそんなに調子にのっているようには見えないのですが。「この度の事は、近藤さんに目を覚まして貰う事が目的だ。」「目が覚めなかった時は。」「隊を離れ、江戸に帰る。」と永倉。新撰組顛末記にある記述ではもっと激しく、5箇条の一つにでも近藤が申し開きが出来るのなら自分達が切腹する、さもなくば近藤を切腹させよと迫っています。さすがに、この演出ではそこまで過激なセリフには出来なかったのでしょうね。「その前に、俺も芹沢殺しに絡んでいるんだよね。」と原田。「お前もか。」と驚く永倉。実際には、永倉は最後まで誰が芹沢を殺したのか正確には聞かされなかった様です。後から段々と判ってきたのでしょうけれど、「お前もか。」と叫びたくなる時もあったかも知れませんね。「まさちゃんを助けに行っちゃいけないというのが、いまいち良く判らないんだ。」と原田。非常の際に、公務とプライベートのどちらを優先すべきかは難しい課題ですね。新選組を軍隊として捉えるなら原田の行為は許されませんが、同志としての集まりとして捉えるなら原田の行為も許されてしかるべきとなるのでしょうか。「出来ました。」と葛山。「あなたが加勢してくれて助かりました。」「もう帰っても良いですか?」「これからこの6人で会津候に届けに行く。」「私も?」と意外そうな葛山。「はい。」と有無を言わせぬ永倉。葛山、かわいそう...。

「詰まるところ集まったのは誰だ。」と土方。「永倉、原田、島田、尾関。」「尾関?せっかく旗持ちにしてやったのに。」と土方。「無理に連れ込まれた様だった。」と公正な所を見せる斉藤。「それから、葛山武八郎。」「武八郎?どんな男だっけ?」「監察の目立たぬ男だ。」どこまでもドンドコドンの平畠さんをギャグにして行くのですね。でも、監察は副長に直属じゃなかったっけ。土方が知らないはずは無いと思うのですが。「これも、本人が望んだ事ではない。」とあくまで公正な斉藤。やっぱり、根は悪い人間ではないという事なのでしょうか。「ここは切腹ですな。」と谷。「後に続く者がないように、見せしめにしなくては。」と武田。武田は以前に書いたように、この事件の際には永倉の前に飛び出して両刀を投げ出し、「どうぞ、拙者の首を打たれい。」と命がけで諫めたとあります。永倉は意地悪く、これは自分達に斬られないために先手を打った芝居だとしていますが、永倉からすれば近藤は同志ですが、後から入った武田にしてみれば近藤は主君の様なもので、家臣のように振る舞う武田の態度が近藤を増長させているのだと、永倉には腹立たしかったのでしょうね。「新選組を思っての事だ。大目に見てやろう。」と近藤。「俺は忘れねぇよ。」と土方。両者の性格の違いが出ている様ですが、実際に後々まで根に持ったのは近藤の方の様ですね。「座をはずして貰えますか。」と近藤。「外せ。」と谷に向かって居丈高に言う武田。やはり、ただの助勤と軍師とでは格に違いがあるのかな。「あなたも。副長と話がしたい。」と近藤。意外そうな武田。試衛館の仲間の事となると、部外者扱いなのですね。「少し急ぎすぎたかもしれんな。歳。」「聞きたかねぇな。」「俺も今から行ってくる。」「勝ちゃん。」二人きりになると昔の関係に戻る近藤と土方。こういう演出の呼吸が上手いですね。「俺にまかせろ。」と近藤。局長らしい貫禄が備わって来ました。

前川邸の蔵にやって来た土方。恐ろしげな攻め道具が並んでいます。床に落ちている五寸釘と百目蝋燭。それを見つめ、恐ろしい様なおびえた様な複雑な表情の土方。古高の拷問を思い出しているのでしょうね。彼がここに来たのは、後戻り出来ない所まで来た新選組のために、鬼の副長に徹しようとぐらつく決意を固めんとしているのでしょうか。

蔵から出て来た土方と遭遇する山南。双方もの言いたげに見つめ合いますが、山南がうなずいたきり無言のまますれ違います。山南の後ろ姿に意味ありげな視線を投げかける土方。今回のドラマでは、最も重要な場面だったかも知れませんね。

会津候の前にひれ伏す6人の隊士。「建白書は読んだ。俄には信じられん話だが。」と会津候。「近藤局長は、我らの意見も聞かず、隊士達を分け隔てする始末。私達は、命に代えて新選組を正したいのです。」と永倉。「あえて聞くが、そちたちは、近藤勇がもはや信じられんのか。」「信じたいのです。しかし、今はかつての様に腹を割って話す事さえ出来ません。」「永倉、そち達と同じ覚悟でこの場に来ているものが居る。腹を割って話してみろ。」と会津候。襖の陰から出てくる近藤。あぜんとする永倉達。末席まで進んで両手をつき、永倉達に向かって「この度の件、誠に申し訳なかった。この通りです。」と頭を下げる近藤。「己の気付かぬところで、慢心した末のあらぬ疑いを招く様な言行、心から恥ずかしく思います。」と潔い立派な態度ですが、このドラマではそこまで言う程の事は何もしていないと思うのですが。どうにも不自然さが目に付きます。「頭を上げて下さい、局長。」と永倉。おーい、もう許すのかい。「お気持ちは良く判りました。一時の気の高ぶりから無礼の数々、お許し下さい。」やっぱり永倉は良い男ですね。でも、5箇条の申し開きはどうなったんだ。恩賞金の配分はもう良いのか、山南をないがしろにした事は忘れたのですか。「俺はこのとおりの男です。これからも至らぬ所があると思うが、遠慮なく戒めて欲しい。」と見事な男ぶりを見せる近藤。改めて心服した様子の永倉達。「土方を判ってやって欲しい。あいつの胸中には新選組の事しか無いのだ。決して、己の欲のためではない。」と土方を庇って見せる近藤。なかなかの局長ぶりです。「これにて一件落着。」と遠山の金さんになった会津候。

「新撰組顛末記」では、会津候から新選組が解散したとあってはそれを預かる自分の手落ちとなると言われ、永倉達は会津候の迷惑になってはいけないと考えを改めたとあります。そして、会津候は近藤を呼んで、7人に酒を振る舞い、その場を納めました。これによって、永倉達は元の通り隊務に励む様になったとありますが、実際には永倉は謹慎させられ、葛山は一人責任を問われる事になってしまいます。この事件は、後にまで残る深刻な亀裂を新選組に生じさせたと言えそうです。

この項は、永倉新八「新撰組顛末記」、文藝別冊「新選組人物誌」、子母澤寛「新撰組始末記」、木村幸比古「日本を今一度せんたくいたし申候」、司馬遼太郎「龍馬がいく」を参照しています。

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2004.08.02

新選組!22

新選組!第30回「永倉新八、反乱」

冒頭、龍馬とおりょうの会話。日本の行く末を心配する龍馬に対し、おりょうは自分の心配もして欲しいと言い寄ります。龍馬は、寺田屋を訪ね、お登勢におりょうを預けることにします。「働き者で、良く気が付くとどこでも言われます。」と自分を売り込むおりょう。奔放と言われた性格を表しているのですね。「こう見えても寂しがりなんやから。」と龍馬に甘えるおりょう。龍馬は、そんなおりょうを持てあましながらも、段々と惹かれていくのですね。そのお登勢とおりょうの会話。「近頃、あの人は訳のわからない事を口走ってますし。」「なんて口走ってるの。」「日本を洗濯しちゃるて。」お登勢とおりょうの洗濯をする仕草が面白いですね。この「日本を洗濯する」というのは、1863年(文久3年)6月29日付けで龍馬から姉乙女に充てた手紙の中の一節にある言葉です。その手紙の中で龍馬は長州が行った外国船砲撃に触れ、「長州と戦って傷ついた外国船を、事もあろうに幕府が修理してやり、その船が再び長州を攻撃している。これは、外国と通じた姦吏が行っているものだ。」と指摘しています。元々、長州が外国船を砲撃したのは、幕府が朝廷から迫られた攘夷実行について、苦し紛れながら5月10日を期限として実行すると約束した事に端を発していました。いわば長州は幕命を忠実に実行したにも係わらず、幕府はその長州を庇うどころか長州を攻撃する外国の後押しをしていると憤っているのです。そして、これに続けて「二三家の大名とやくそくをかたくし、同志をつのり、朝廷より先ず神州をたもつの大本を立たて」「右姦吏を一事に戦いたし打殺、日本を今一度せんたくいたし申し候事にいたすべくとの神願いにて候。」とあります。朝廷を前面に押し出し、日本に巣くう姦吏を一掃してやると闘志を露わにしているのですが、この段階ではまだ倒幕とまでは言っておらず、ここで言う「洗濯」とは無能な幕府の役人を追い出し、雄藩や同志による幕政改革を行うという事であったようです。ただドラマでは、この手紙から一年以上後の事でもあり、既に倒幕を決意している様子が伺えますね。

会津藩の本陣で恩賞を受け取る近藤達。600両とありますが、内訳は会津藩から500両、朝廷から100両下されています。手柄は無かったと辞退する近藤に対し、池田屋事件に対する褒美と聞かされ、「ありがたく頂戴します。」と答えたのは土方。副長が局長を飛び越して答えちゃって良いのかな。一緒にいるのは井上で山南総長はこの席に居ないのですね。「公儀直参に取り立てる例の話も進んでいる。」と会津藩士。実際に、池田屋事件直後に、近藤を与力上席に取り立てると老中から内意がありました。近藤は、故郷への手紙の中でこれを受けるべきか師匠や多摩の有力者達に相談していますが、結局は新選組局長のままで居る事を選択し、取り立ての話は辞退しています。

薩摩藩邸で、大島吉之助と会う坂本龍馬。特に用事はなく、勝海舟から金平糖を預かってきたと手渡します。西郷隆盛はお酒の飲めない下戸で、甘党だったらしいですね。それにしても、近藤といい西郷といい、豪傑と言われている人が、実は下戸で甘いものが好きだったというのもなんだか面白いですね。ここでさりげなく、龍馬は長州処分についての大島の腹を探ります。大島は、この際長州を滅ぼす絶好のチャンスと捉えていました。実際、この頃の西郷は、仇敵長州を滅ぼすか、さもなくばせいぜい5、6万石程度の小藩にしてしまおうと考えていました。しかし、幕府とのやりとりをしていく内に意見の相違が生じ、このまま長州を滅ぼしてしまうと幕府を利するばかりと気づき、責任者の切腹や、京都から落ち延びている5卿の太宰府への移転など比較的軽い処分で済ませ、長州を温存する方向に転じています。

新選組屯所で、酒を酌み交わす近藤と土方の姿。座敷には、拝領した600両が置かれています。「一年と半年、ここまでこれれば大したもんだ。」と感慨にふける土方。「頑張ったな、俺たち。」「頑張った。」そこにやってくる井上と沖田。「山南さんも来たがっていましたが。」と井上。「今日は試衛館生え抜きの4人で飲むんだ。」と土方。やはり、新選組のコアになっているのは、試衛館の面々なのですね。山南も永倉も原田も、所詮は余所者扱いなのか。そこへやってくる山南。間の悪そうな空気が流れます。「私もよろしいでしようか。」と気弱な感じの山南。さすがに近藤は屈託無く招き入れます。近藤におめでとうと言いかける山南の話の腰を折るように、土方が恩賞金の分配について話し始めます。この二人、いつの間に隙が出来てしまったのでしょうね。先日の軍議の席でのやりとりが尾を引いているのでしょうか。それとも、裏で何かあったのかな。これからのために残しておいてはどうかという山南の提案に土方は耳を貸そうともせず、池田屋の働きに応じて分ける事に決めてしまいます。それは、留守部隊には一両も与えず、実戦で働いたものだけに分配するという徹底した実績主義でした。局長は30両、副長は23両、最初に突入した部隊は20両、土方隊は17両、松原隊は15両という分配です。なるほど、井上を土方隊に回していたのは、この分配法と辻褄を合わせるためだったのですね。この分配法についてはよく見かける説で、大体の所はこのとおりだと思われます。しかし、松原隊は実際には井上隊であり全部で11人であったはずですが、15両を貰っているのは井上を除いて12名、倅周平は近藤と共に最初に飛び込んで戦っているはずですが、この15両の組に入っているなど疑問点も幾つかあります。ですから、そう単純なものではなかったのではないかと思えるのですが、いかがなものでしょうか。
それにしても、妙に弱気な山南と意地悪いとさえ思える程強気な土方が気になりますね。

報奨金の分配の場面。松原と浅野と尾関の会話。20両貰って得意がっている浅野と出遅れたと悔しがる松原。そして、留守部隊だった故に恩賞金なしの尾関。「私は私なりにお役目を務めていたつもりだったのですが。」と拗ねている様子。それを見ていた永倉が納得いかない様子です。

医者の下を訪れる沖田。孝庵が木の筒の様なものを沖田の背中に当てていますが、あれは昔の聴診器だったのでしょうか。「あんたらが長州を焚きつけるもんやから、京の町は大変な事になってしもた。」と怒りをぶつける孝庵。実際、京都の町衆の迷惑は、計り知れないものがあったでしょうね。嫌味のひとつも言いたくなるというものです。「ここは憎まれ口を聞いてやらないと診てもらえないのですか。」「そうや、今気ぃついたんか。」この二人、なんだか漫才コンビのような関係になってますね。「で、どうなんですか、私の身体は。」「人の身体の事なんか知らん。」と無責任な孝庵。「それは儂が聞く事や。」この当時の医療水準なら、実際こんな風だったかも知れませんね。今でも、自覚症状が主な病気の場合は、こんな具合らしいですね。「変わりが無いと言う事は、御の字なんや。」と孝庵。「爺になったつもりで過ごせ。」と言われ、へこむ沖田。沖田と入れ違いに診察室に入る老人。何か曰くありげです。

再び新選組屯所。寝ころびながら、ひでと将棋崩しに興じる原田。「どうも近頃腹の立つ事が多い。なぜ、屯所に残ったものに恩賞が出ない。」と憤る永倉。確かに、おかしな点ではありますね。「お前の処分だってそうだ、謹慎は無いだろう。」とこれは原田に。「江戸からずっと謹慎している様なもんだからな。」と屈託のない原田。でも、禁門の変の前に定められた軍中法度からすれば、謹慎で済んだだけでも儲けものという気がしますが。「俺たちは雇われものではない。同じ思いで集まった同志。それを土方さんは忘れている。」と永倉。確かに、永倉達は近藤から扶持を受けている訳ではなく、主従関係がある訳ではありませんでした。そこにやってきたおまさ。原田が自分のために謹慎になったと聞いて様子を見に来たのでした。「お店を一緒に建て直そうね。」と原田。戦いになると非情な面を見せますが、普段はとても優しい男なのですね。

三味線を弾く土方。そこへ沖田が現れます。土方に呼ばれたのですね。「それを見てみろ。」と土方。隊の新体制の案が書かれていたのですが、沖田はそれをすっ飛ばして土方の俳句を読み出します。「うぐいすや、はたきの音も..」「馬鹿、どこ読んでいる。」と慌てる土方。「だって読めと言うから。」「開いて置いてあるんだから、開いてあるところを見るだろう、普通は。」とここでも漫才ですね。「うぐいすや、はたきの音も、ついやめる。」土方は、豊玉という雅号を持つ俳人でもありました。あんまり才能があるとは思えないのですが、鬼の副長がこういう趣味を持っていたというのも意外ですよね。「そのままんまじゃないですか。」「そういう情景が浮かんでくるだろう。」「なんで土方さんがはたきを掛けているんですか。」「おれがじゃないよ。」とどこまでもかみ合わない二人。「自信のあるやつは無いですか。」「自信があるというか、好きなやつで良いか。これは、いや、これも...」「もう良いです」三谷演出の楽しい場面です。

「一番組長はお前だ。だから身体を治しておけ。」と土方。沖田と入れ違いに診察室に入った老人が山崎だったのですね。うーん、気が付かなかった。「あの先生は口は悪いが、腕は確かですよ。」と沖田。色々毒づいていましたが、孝庵を信頼していたのですね。「近藤先生には言わないで下さい。あと、おひでちゃんにも。」と沖田。素っ気ないようで、いつの間にかひでを意識していたのですね。

近藤の前での幹部会議。土方、山南、沖田、永倉、島田の古参隊士に混じって、武田と谷が並んでいます。武田は軍師としての実績が認められ、谷は局長の姻戚として座っているのでしょうか。土方の作った新編成の案を見て不満そうな永倉。一方、手放しで褒める武田。軍学者の彼としては、土方の作った編成表が的を得たものだとすぐに判ったのでしょうね。「私は承服できん。」と永倉。「これでは、近藤局長と土方副長の権限が大きくなるばかりだ。近藤さんの出世に利用しているだけではないのか。我らは近藤さんの家来ではない。」この永倉の思いはずっと後にまで尾を引き、江戸での決別を招くに至ります。「さらに聞くが、ここに山南さんの名前が無いのはなぜか。」「これは、あくまで命令の系統を図にしたものだ。山南君はこれまでどおり、相談役としてみんなの力になって貰う。」と土方。やっぱり山南総長は、ラインからはずされて近藤のスタッフになってしまうのですね。でも、それがなぜなのか説明がありません。山南の表情には、どこか複雑なものかあります。「自分たちと意見の異なるものを遠ざけ、自分たちの言う事聞く訳の判らぬ怪しげなものを近づける、そういう魂胆ではないのか。」と手厳しい永倉。「訳の判らぬ怪しげなものとは、我々の事ですか。」と怒り出す武田。永倉と武田は実際に仲が悪かった様ですね。新参者ながら巧みに近藤に取り入り、実権を握っていく武田を永倉は疎ましく思っていたようです。「山南さん、あなたは本当にこれで良いのか。」と永倉。「新選組の方針は土方君に一任してあります。」と山南。あれ、いつの間にそういう話が出来上がっていたのでしょうか?この間まで、近藤に新選組を盛り立てていこうと言っていたのは山南だったはずなのに。結局、近藤の裁定で、新編成は見送られる事に。腹の虫の治まらない土方は、「いつまでも近所のガキ集めてやっていく様な気分じゃ、新選組は時代に乗っていけねえぞ。早いところ、その仲間ごっこを止めてくれ。」と毒づきます。そして芹沢を自分たちが殺した事をつい漏らしてしまいます。これを聞いた永倉は収まりません。「仲間内で殺したのではないのかと、私はあなたに質したはずだ。」と近藤に迫る永倉。ついには、新選組を脱退すると宣言してしまいます。これに同調する島田。「ここは私が。」と後を追う山南。「あなたが止めても収まる事ではない。ここは、踏み止まって中から変えて行きませんか。」と永倉を諭す山南。ここの山南が良く判らないのですが、彼は新選組をどうしたかったのでしょうね。土方に一任してあるとして会議の場では何も言わず、ここでは改革を口にする。でも、何をどう変えようと言うのでしょう。新選組を強化するには、土方の方策しか無いように思えるのですが。この編成は土方の独創のように言われますが、山南も同調したとする説があります。実際、組織として運営して行くには命令系統の整理は当然であり、誰も反対はしなかったのではないでしょうか。「松平容保候に連名で建白書を提出し、近藤さんを諭していただくようお願いするのです。」と山南。これも良く判らないのですが、この近藤のどこを諭して貰うというのでしょうか。芹沢暗殺は会津候からの内々の指示ですし、組織編成はむしろ好ましい話のはずです。どうも、近藤を徹底して良い人に置くこのドラマの演出では、このエピソードを入れるのに無理があるようですね。「新撰組顛末記」にあるように、近藤のわがままが増長し、永倉、原田を家来の様に扱ったとしない限り、話の筋が通りそうにはありません。

どうもこのところ長くなってしまいますね。この続きは、明日アップすることにします。

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