新選組!18の2
今回のマイナー隊士の紹介は、武田観柳斎です。
ドラマでは、八嶋智人が人を食ったようなキャラクターを演じていますね。
武田観柳斎は、出雲母里藩(島根県能義郡伯太町母里付近)の出身で、医者の書生だったといいます。本名は福田広で、甲州流の軍学を納めたことから、甲州の名家にあやかって武田と改めたと思われます。子母澤寛に依れば、年は32、3歳で、背が高く、頭は坊主だったとあります。髪を長く伸ばしたドラマの姿とは随分と違っていますね。
西村兼文の「新撰組始末記」によれば、「すこぶる世智に賢い」とあり、「軍師のような地位に座り、自負に誇って奸策を巡らして金策を謀ったが、誰も近藤土方に告げるものが無かったために無事だった。」とあります。また、子母澤寛の新選組物語では、「上に対しては天才的のおべっかで、その代わり下の者に対して意地の悪い事大変なものであった。」とあり、あまり良い人物像は浮かび上がってきません。新選組物語では、さらに続けて武田は男色家であり、隊にいた馬越三郎という美男子に言い寄ったが相手にされず、返って薩摩藩邸に出入りしている所を馬越に見られ、これを近藤に密告されたことから粛清にあったとされています。どうにも禄な事が書かれていない武田なのですが、実際にはどうだったのでしょうか。
武田が入隊したのは、1863年(文久3年)の後半だったと思われます。12月27日に光縁寺に葬られた野口健司の過去帳に、頼越人(依頼人)として武田の名前があり、これ以前に入隊していた事が判かります。この頼越人として武田と共に馬越の名が仲良く並んでおり、武田と馬越の男色を巡る逸話は、この過去帳を見た子母澤寛の創作ではないかというのが今の見方のようですね。武田も思わぬ所で濡れ衣を着せられたものです。
武田は、入隊当初から重く用いられた様です。入隊後間もない1864年(元治元年)3月10日に、多摩の名主である富沢政恕という人が島原で新選組から接待を受けているのですが、武田は近藤、土方、井上、沖田、藤堂といった試衛館のメンバーと共にこの「身内」の席に出ています。このことから、武田は元々近藤達とは旧知の仲だったのではないかという推測があるのですが、彼がその後異数の抜擢を受けている事を考えると、あながち的はずれとは言えないかも知れません。
武田は、軍学者として隊内で調練の指揮を執る一方、隊士としても活躍します。まず、元治元年6月5日早暁、武田は隊士7名を連れて四条小橋の薪炭商桝屋喜右衛門方を急襲しています。彼は、主人の喜右衛門を捕縛すると共に、武器弾薬や文書を押収しました。桝屋は尊王攘夷派の志士の一人古高俊太郎と判り、彼の自白と押収した文書から過激派志士による京都騒擾計画が明るみに出ます。これが池田屋事件に繋がる訳ですが、武田はこれにも近藤隊に属して参戦しています。彼は、戦闘の当初には階下の固めに回り、天井から落ちてきた浪士を一人斬った(浪士文久報国記事)とされ、沖田、永倉らと共に20両の報奨金を受け取っています。これは近藤、土方を除くと最高の報酬で、その働きぶりが大きく認められたということなのでしょうね。
次いで6月10日に隊士14名と会津藩の応援5名を連れて、東山にあった明保野亭に出動しています。明保野亭に多数の長州人が潜伏しているという情報に基づく出動だったのですが、実際には長州人はおらず、捜索を続けていると座敷から逃げ出した人物が居ました。武田は近くにいた会津藩士の柴司に「取り逃がすな」と命じ、柴はこの人物を追いつめ槍で傷つけます。ところが、この人物は長州人ではなく、正規の土佐藩士「麻田時太郎」でした。土佐藩は理由もなく藩士を傷つけられた事に激高し、会津藩の謝罪も受け付けず、ついには両藩の断交かという事態にまで発展します。しかし、まず麻田が自らの怯懦を恥じて切腹をし、次いでこれを聞いた会津藩が柴に切腹を命じて事態は収まりました。武田は責任を感じたのでしょう、柴の葬儀に参列し、弔歌を献じています。
しかし、武田はその後も活躍を続け、7月19日にあった禁門の変では軍事掛として参戦しています。軍学者としての武田の経歴が買われたもので、参謀のような地位にあたると考えられています。さらに、1865年(慶応元年)に作成された長州征伐を想定した「行軍録」では、伊東甲子太郎と共に「戦奉行」とされており、副長、参謀と同格に扱われていた事が伺えます。
武田の事歴の中で特異なものとして、禁門の変の後、永倉新八らが近藤の非行五箇条を認めた建白書を会津藩に提出したとき、武田が永倉の前に両刀を投げ出して、捨て身の覚悟でこれを諫めたという事件があります。永倉は、普段近藤にへつらっている武田が、永倉達に粛清されかねない事を察して機先を制したパフォーマンスを演じた(永倉新八「新撰組顛末記」)としていますが、近藤にとっては嬉しい行動と映った様で、その後の武田の重用に繋がっていった様です。
武田の活躍はなおも続きます。彼は、慶応元年の再編成により、6番組長、その後5番組長となり、併せて文学師範に命じられています。組長としての彼は、閏5月に矢野玄道を捕らえ、8月8日には、山科奴茶屋に金策強談に押し込んだ薩摩藩士の捕縛に向かい、一人を斬り、一人を捕らえています。
そして、11月には長州藩に対する尋問使の一行と共に広島に向かう近藤の随行員として、伊東甲子太郎、尾形俊太郎と共に従っています。武田は、近藤、伊東と共に岩国藩まで赴いていますが、藩重役との会見は拒否され、やむなく京都へ帰っています。
しかし、武田の栄光もここまででした。この後、武田は凋落の一途を辿る事になります。まず、翌慶応2年に近藤は長州藩尋問のために再度広島へ出張しているのですが、このとき武田は随行の人選から漏れています。そして、この頃から武田の記録が忽然と途絶え、次に現れるのは翌慶応3年6月22日に竹田銭取橋で斬殺されてこの世を去った時でした。
竹田の凋落の原因として、「新撰組始末記」では、新撰組に西洋式調練が取り入れられたため、甲州流軍学者である武田の出る幕が無くなったためとしています。そして、それを恨みに思った武田は、近藤と対立関係にあった伊東甲子太郎に接近しますが、日頃の行動から怪しまれ、これを拒絶されます。ついには、薩摩藩に接近を計ったので
すが、日頃恨みを持たれていた隊士に密告され、近藤によって粛清されたとあります。
この最期の場面として「新撰組始末記」では、次のように描かれています。慶応2年9月28日、近藤は酒宴を設けて武田を呼びます。近藤は武田に「近頃薩摩藩邸に入られる様だが、めでたい事である。」と言い、酒を勧めます。武田は、「あれは薩摩藩の内情を探ろうとしての事。」と弁明に努めますが、近藤はなおも酒を勧めて散々に酔わせ、夜に至ってようやく武田を解放します。そして、近藤は途中の用心のためとして、斉藤一、篠原泰之進の二人を随行させます。一行が武田を先頭に武田銭取橋に差し掛かったとき、背後から斉藤一が斬りかかり、一刀の下にこれを倒してしまいます。
司馬遼太郎の「新選組血風録」にも採用されている説ですが、尾張藩士の遺した「世態志」という資料により、現在では疑問視されています。そこには、「慶応3年6月22日、油小路竹田街道にて元新選組竹田某が殺害されていた。これは新選組の仲間の仕業であるという。」という記事があり、まず竹田が死亡した日付が訂正されます。また、「元・新撰組」とあることから、この時武田は新選組を脱退していた事が判ります。さらに慶応3年6月には、斉藤一も篠原泰之進も御陵衛士として新選組を離れており、近藤の指示で武田を暗殺するという事はあり得ません。
また、「世態志」には続けて「身寄りは判らないが、武田の遺体を貰い受けに来た3人の者が、同じく殺されてしまった。」とあり、6月27日には「武田と応意」の善応という僧侶が「悪事の筋」があったとして新選組に殺害され、武田の同志の一人が枚方で切腹したと記されています。
これらの記事から、武田は何らかの理由で新選組を脱退し、その後仲間を募って勤王活動を開始したのだが、それが新選組の知るところとなり、仲間と共に粛清された、というのが現在考えられている武田の最期です。武田を斬ったのは斉藤ではなく、新選組隊士の誰かだったのでしょう。また、枚方で自刃したとされる人物は、加藤羆という新選組隊士ではなかったかと言われています。
こうして詳細に見て来ると、武田観柳斎は、おべっか使いの口先だけの隊士というのではなく、数々の事績を遺した有能な隊士だったという姿が浮かび上がって来ます。その最期には謎がつきまとっていますが、恐らくは隊内での地位の凋落と時勢への乗り遅れのあせりが交錯して、脱退~勤王活動へと走らせたのではないでしょうか。実際の人柄がどうだったのかまでは判りませんが、西村兼文や子母澤寛の記述によって、相当に低く評価されてしまっている人物ではないかと思われます。
この項は、永倉新八「新撰組顛末記」、木村幸比古「新選組日記」(「浪士文久報国記事」)、新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」(「新撰組始末記」)、子母澤寛「新選組始末記」、「新選組物語」を参照しています。
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