新選組!18
新選組!第26回「局長近藤勇」
芹沢なき後の新選組、新しい隊士が続々と入隊してきました。武田観柳斎、谷兄弟、山崎蒸などなど。ねこづらどきとしては、マイナー隊士のネタが増えて嬉しいですね。
近藤局長、総髪になったり月代を剃ったりと髪型がコロコロ変わって居ましたが、なかなか貫禄が出て来ました。特に内山とのやりとりは迫力がありましたね。やっぱり、近藤には厳しさがなければ、らしくないです。
山南啓助は総長になっていました。相変わらず、新隊士の面接は山南の役目なんですね。知的な感じのする堺雅人に試験官の役割は良く似合っています。
ところで、この山南の局長に次ぐ総長という地位ですが、本当にあったのかどうか、やや疑わしいところがある様です。この山南総長が出てくるのは西村兼文の「新撰組始末記」だけで他の資料には見あたりません。同じ「新撰組始末記」の中でも西本願寺移転に絡んで近藤と対立したときに、「我れ、いやしくも副長に従事す。その言入れざるは土方の奸媚による。」と言い放って自刃したとあり、総長とはなっていません。一方、永倉新八の「浪士文久報国記事」では禁門の変の頃のこととして、明確に書かれてはいませんが、山南副長と読める記事(後出)があります。また同じく永倉の「新撰組顛末記」や子母澤寛の「新選組始末記」には山南総長は出て来ません。こうした事からか、新選組の変遷の中に山南総長を入れない研究者も居る様ですね。(「血誠新選組」所収「新選組の組織と変遷」小島政孝)ちなみに「新撰組始末記」の続きとして、慶応元年に伊東甲子太郎の加入後の組織改編では、近藤が局長に代わる総長という地位に就いています。
その山南敬助ですが、史実ではこの頃は空白の時期となっており、新選組における謎の一つになっています。その実態を知る手かがりの一つが1864年(元治元年)1月27日に出している年始状で、「特に変わりはなく年を越した」旨が書かれており、この頃は無事だった事が伺われます。ところが、2月2日に多摩の名主である富沢忠右衛門が壬生の屯所を訪れた時には、「山南は病に伏し逢わず。」とその日記にあり、4月13日に京都を去るまで逢えず仕舞いだった様です。その後に起きた6月5日の池田屋事件、7月19日の禁門の変にも山南は参戦していません。永倉新八の「浪士文久報国記事」では、禁門の変の際の山南の消息として「副長土方歳三病気にて引入居り代山南啓助」と記しており、依然として病気が続いていた事を伺わせます。さらに、11月頃に作成されたと思われる「行軍録」にもその名はありません。次に山南の名が出てくるのが翌年の西本願寺移転に絡んでであり、山南は近藤、土方と対立したあげく脱走し、切腹するに至ります。この長期に渡る病が何だったのかは判っていません。
ひとつの説として、1863年(文久3年)秋から暮れ頃にあったと思われる大阪岩城升屋事件の時に重傷を負ったのではないかとするものがあります。これは多摩の小島家に伝わる「異聞録」にある山南の愛刀「赤心沖光」の押方を写し取った絵に添えられた文章から判る事件で、「新撰組局長助山南敬助、岩木升屋江乱入ノ浪士ヲ討取候節、打折候刀」として、会津候からご褒美として8両を頂いたとあります。この資料は「新選組!展」に展示されており、私も実際に見たのですが、山南の刀は切っ先から三分の一のあたりで折れ、あちこちが刃こぼれしており、何より血糊のあとが生々しく、相当な激戦があったことを伺わせます。秋山香乃が書いた小説「藤堂平助」では、この説に沿って、かつ一緒にいた土方を庇ったために重傷を負ったとされていますね。そういう想像をしたくなる程、この刀の絵からは怪しい迫力が溢れています。小説が出たついでに書くと、北方謙三の「黒龍の柩」では負傷は負ったものの真の理由は癌だったとして描かれていますね。
これから8月末に放映される予定の切腹に向けて、この謎に満ちた山南を堺雅人がどう演じてくれるのでしょうね。岩城升屋の事件は出てくるのか、明里との逢瀬はどう描かれるのか、楽しみに待ちたいと思います。
この項は、永倉新八「新撰組顛末記」、木村幸比古「新選組日記」(「浪士文久報国記事」)、新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」(「新撰組始末記」)、子母澤寛「新選組始末記」、学研「血誠新選組」を参照しています。
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