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2004.07.05

新選組!内山彦次郎暗殺

第26回「局長近藤勇」で出て来た「内山彦次郎の暗殺」については以前に少し書いた事があるのですが、昨日から今日に掛けてかなりの数のアクセスがありました。どういうものか簡単に書いた事柄ほどアクセスに引っかかる事が多く、せっかく来て頂いた人に申し訳ない気がしてしまいます。そこで、「内山彦次郎の暗殺」についてもう少し詳しくまとめて見ることにしました。

内山彦次郎は実在の人物で、大阪西町奉行所の筆頭与力を務めていました。彼が暗殺されたというのも事実で、当時は犯人は不明とされていた様です。この与力殺しと新選組を初めて関連付けたのは、明治22年に西本願寺の侍臣西村兼文が書いた「新撰組始末記」です。

「新撰組始末記」を意訳すると、内山彦次郎は「事務ニ練達シタルノミナラズ、気節正シク且ツ勇烈ノ聞コエ高ク、若年ニシテ大塩平八郎親子ノ追捕ニ向カイタル気概アリ。」という人物でした。内山は、新選組(壬生浪士組)が大阪の富商に対して金策を強談する事を憂い、「暴業ノ挙動ヲ挫カン」としていました。そんな折り、1863年(文久3年)6月3日に新選組と大阪相撲との間で刃傷沙汰が起こり、近藤勇が町奉行所に届けて来ます。近藤は、「平民が武士に対して無礼を働いたので斬り捨てた。」と暴慢に言い放ちますが、内山は「これは町奉行所の管轄する所であって、是非曲直を糾弾せざるを得ない。」と譲りません。近藤は、「我らは京都守護職御預かりの者であり、疑義があるなら会津候に照会せよ。」と言い捨てて立ち去ります。京都に戻った近藤は、沖田総司と永倉新八を呼び、「内山の様な者が居ては、今後大阪で自由に振る舞えない。聞けば内山は灯油を多く買い入れ、これを密かに売って商売しているという。これを理由に暗殺し、天誅組の仕業に見せかけよう。」と相談して決めます。

翌1964年(元治元年)5月20日、沖田総司、原左之助、永倉新八、井上源三郎の4人は内山の帰りを天満橋で待ち受けます。内山は駕籠に乗り、用心棒として剣客が一人付いていました。駕籠が天満橋に差し掛かると、右から沖田と原田、左から永倉と井上が斬りかかります。用心棒と駕籠かきは驚いて逃げ去り、沖田が重傷を負っている内山を駕籠から引きずり出して首をはねます。そしてその首を青竹に突き抜き梟し、「この者奸物にして灯油を買い占め庶民を困窮せしむるをもって天誅を加る。」と書いた捨て札を添えて立ち去ります。そして、22日には、京都三条の制札場にも同じ捨て札を掲げました。この事は誰一人として新選組の仕業とは知らなかったのですが、その後大阪の与力同心に勇気のある者は居なくなりました。

この「新撰組始末記」に次いでこの事件と新選組の関係に触れているのが、永倉新八の回顧談をまとめた「新撰組顛末記」です。これは、明治44年頃に「小樽新聞」の記者によって取材が行われ、それをまとめたものが大正2年に新聞に掲載されたものです。

この「新撰組顛末記」によると、新選組の屯所が不動堂村に移った頃とありますから1867年(慶応3年)6月頃、大阪の米相場が高騰を始めました。世情騒然としてきたため、新選組として山崎蒸に命じて大阪の事情を探ってみると、筆頭与力の内山彦次郎が、長州倒幕党の命を受けて大商人に圧力を掛けて米相場を引き上げさせている事が判りました。内山自身も刺客に襲われるを想定して、自宅に抜け穴を設ける程用心していることから、斬り込む事は容易ではなさそうでした。そこで、内山が役所から帰宅する途中を襲うほかはないと考え、近藤、土方、沖田、永倉、原田、井上、島田など約10名の隊士が天神橋の左右で待ち伏せをしました。内山は、用心棒として剣客と力士を2名ずつ駕籠側に配して警戒していましたが、天神橋に差し掛かった頃、左右から踊り出した近藤達に驚き、用心棒達は逃げてしまいます。左から進んだ土方がまず駕籠の中に一刀を突き刺すと、「あっ」と叫んで右の戸から内山が転げ出しました。すると、右から進んだ近藤が一刀の下に首を打ち落としてしまいます。最初は、内山の首を晒しものにする予定だったのですが、かなたから人が来る様子なので近藤は紙の端に「天下の義士之を誅す」と書いて死体の胸の上に置き、一同は姿をくらましました。その後、京都へ戻ってから内山暗殺の次第を詳しくしたため「士風振興のため内山を改易せしめられるべく候」と付記して老中の門前に貼り札しました。後に、これが新選組の所行と知れ、庶民は大いに徳としました。

これより後に書かれた子母澤寛の「新選組始末記」では、日付以外はほぼ永倉新八の「顛末記」の記事を踏襲し、反新選組の説として西村兼文の「新撰組始末記」の説を引用しています。

これに関連する資料としては、明治2年から同5年頃にかけて書かれたと思われる「島田魁日記」があり、そこには、1863年(文久3年)6月頃の事として「この頃、大阪与力の風聞が悪く、新選組で探索をしていた。」とあります。これ以外に特に暗殺については触れられていませんが、内山について良からぬ噂があった事を伺わせる記事です。

このほか、西国浪士による仕業とする資料もあるそうですが、残念ながら手元に出典の判る資料はありません。また、永倉新八がもう一つ遺している「浪士文久報国記事」にはこの事件は記載されておらず、このことから「新撰組顛末記」の記事は、小樽新聞の記者による創作ではないかとする説もあるようです。

以上諸説を並べて来ましたが、それぞれの資料において少しずつおかしな部分がありそのまま100%信用する事は出来ないようです。

例えば「新撰組始末記」において近藤を内山が取り調べていますが、近藤が届けを出したのは東町奉行所であり、西町奉行所の内山が出てくるはずはありません。ドラマでは、このあたりを逆手に取って巧みに取り入れていましたね。

次に「新撰組顛末記」では、日付が内山が実際に殺された日と大きく異なっています。また、仮に内山の不正が真実であったとしても、幕府上層部から指示があったのならともかく、幕府の機関である大阪町奉行所の配下に対して新選組が手を下す事は筋違いも甚だしく、正義のために独断で殺害したというのでは不自然極まりません。

恐らくは何らかの形で新選組はこの事件に係わっていたものと思われますが、単に探索をしていただけなのか、本当に暗殺を実行したのか決め手になるものは無く、結論は藪の中としか言いようがないようです。

ただ、内山彦次郎が評判の悪い与力だった事だけは確かな様で、当時の町民の日記に「内山彦次郎という悪与力は、当時筆頭にいる事を良いことに好き勝手に事を取り裁くので市中の者が困っていたのだが、多分そうなるであろうと思っていたとおり天神橋南詰において、浪士7、8人に撃ち殺された。」という事が書かれているそうです。ただし、これが職務に熱心なあまりに取り締まりが厳しくなった為のものか、不正を働いていた為なのか迄は判りません。


この項は、永倉新八「新撰組顛末記」、木村幸比古「新選組日記」(「浪士文久報国記事」、「島田魁日記」)、新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」(「新撰組始末記」)、子母澤寛「新選組始末記」を参照しています。


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