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2004.07.29

新選組!21の3

今回の新選組!マイナー隊士の紹介は、谷三十郎です。ドラマでは、まいど豊さんが「引き笑い」で個性的な役作りをしていますね。でも、なんで「引き笑い」なんだろう?

谷三十郎は、備中松山の人で、現在の高梁市御前町に家があったと言います。高梁市石火矢町に武家屋敷が残っていますが、その東隣にある高梁高校の寮がその跡らしいですね。松山藩の剣術師範を務めていた谷三治郎の長男として生まれ、弟に後に共に新選組隊士となった万太郎と昌武が居ました。「新選組始末記」では、万太郎を兄としていますが、これは子母澤寛が聞き間違えたのか、「太郎」と付く方を兄と思いこんだのか、どちらにせよ取り違えです。生年は不詳ですが、万太郎が1835年(天保6年)に生まれていますので、その少し前という事になりますね。なお、昌武は1848年(嘉永元年)生まれですから、万太郎からさらに13歳下と言うことになります。

谷三十郎と言えば、宝蔵院流の名手とされていますが、実際には種田流の使い手だったらしく、槍よりも剣の方が得意だったとする説もあります。剣は直心流で、相当な腕だったと伝わっています。1854年(嘉永5年)に、父の死を受けて家督を相続し、万太郎と兄弟揃って槍術指南を努めていましたが、1856年(安政3年)に谷家は断絶となりました。この原因ですが、万太郎が藩主の娘と問題を起こしたため、あるいは家老の奥方と不義があった為と伝わります。また、三十郎が、藩士と意見が合わずに家禄を返上して浪人になったという説もあるようです。

高梁を後にした谷兄弟は、大阪に出て来ました。大阪では弟の万太郎が道場を開き、三十郎も同居して武術を教えていた様です。新選組にいつ入ったのかはよく判っていませんが、1863年(文久3年)の事だったと思われます。この年の9月に、長州藩士守寛斎という人が谷三十郎率いる一隊に捕縛されそうになったという記録があるそうで、新選組入隊はこれ以前の事ではないかと考えられています。

1864年(元治元年)6月5日に起こった池田屋事件には、谷三兄弟は揃って参戦しています。子母澤寛の「新選組始末記」では、このとき三十郎が近藤隊に属して戦い、槍を振るって大活躍したと書かれていますが、これは先に触れた様に子母澤寛の取り違えで、実際には弟の万太郎の方でした。永倉新八の「浪士文久報国記事」の中にも万太郎の活躍が描かれており、三十郎は土方隊に属していて後から参戦したものと思われます。これを裏付けるように、事件後の報奨金は、万太郎が20両、三十郎が17両、昌武が15両となっています。

この前後、末の弟の昌武が近藤の養子となっています。これがどういう事情からだったかについては、諸説があります。一つは、昌武が板倉候の御落胤であり、これを谷家が引き取って育てていたものを、近藤がその血筋の良さに惚れ込んで養子にしたとする説です。二つ目は、谷家は元板倉候の家臣であり、相当な名家でした。その谷家の息子を養子にすることで板倉家に恩を売り、板倉候に取り入ろうとしたとする説です。三つ目は、池田屋事件で昌武が素晴らしい活躍を見せ、これを見た近藤がその武勇を見込んで養子にしたとする説です。一つ目の説の変形として、三十郎が御落胤という偽の情報を近藤に吹き込み、局長の姻戚となろうとしたというものもあります。いずれの説も決め手はなく、実際にどうだったのかは判りません。しかし、谷兄弟が武勇に優れていた事には間違いなく、近藤がその武勇に惚れ込んだという事はあったと思われます。

三十郎の人柄については「新選組始末記」に、「周平(昌武)の関係で、日頃威光を笠に着て威張ってばかりいる」とあり、嫌な人間であったというイメージが定着しています。これに対して、違った人間像を伝える資料もあります。禁門の変の後、西本願寺に居た斉藤九一郎という人が新選組に捕らえられるのですが、この人はかつて三十郎の兄弟子であった人でした。この斉藤が残した日記に次のように書かれているそうです。三十郎は「先生には大恩を受けているのに、捕縛する事になってしまい、申し訳なく思っている。」と言って、煙草、茶などを差しだし、親切に世話をします。そして「新選組と言ってもそれほどの者はおらず、拙い私程度の腕を持つ者も居ない。だから、出動というと自分が先頭に立って出て行くのです。」と笑って話しかけたとあるそうです。この話からすると、傲岸不遜というイメージとは異なった謙虚な人物像が浮かんで来る様ですね。

ドラマで間もなく切腹する葛山武八郎が光縁寺に葬られた時に、宿院良蔵と共に頼越人となったのが三十郎でした。また、その後、11月ごろに作成された行軍録では、「八番大砲組」組長となっています。

翌1865年(元治2年)1月8日、大阪でぜんざい屋事件が起こります。これは、大阪の石蔵屋というぜんざい屋に土佐藩の那須盛馬、田中光顕ら不逞浪士が潜伏し、大阪城焼き討ちなどを計画していたのもので、内通によりこの事を知った三十郎、万太郎、阿部十郎らが捕縛に向かったという事件です。結果として、この時にはほとんどの浪士が外出しており、残っていた数名の浪士は激しく抵抗し、三十郎は脚に怪我を負い、万太郎は胸を当てられるという被害を受け、大利鼎吉を斬殺しています。

伊東甲子太郎が入隊してきた後の組織改編で、三十郎は七番隊組長となり、槍術師範を兼ねる様になります。また、9月に作成された「行軍録」では、「大筒頭」とされました。一貫して幹部の座に座り続けてきた三十郎でしたが、その死は突然訪れました。1866年(慶応2年)4月1日、祇園石段下で変死体として発見されたのです。

三十郎の死には、幾つかの説があります。まずは病死とする説で、永倉新八の「同志連名記」では単に病死とあり、谷家に伝わる伝承では「酒の飲み過ぎによる卒中で死亡した」とあるそうです。これに対して、西村兼文の「新撰組始末記」では、「故なくして頓死す。何か故あるよし。」と含みのある書き方をしています。また、子母澤寛の「新選組始末記」では、篠原泰之進と斉藤一が検死に立ち会った所、胸元から背中に一太刀にずぶりとやられて死んでいたとあり、篠原の語り残しとして斉藤一の仕業ではないかという説を紹介しています。

これに関連して「新選組始末記」では、田内知という隊士が切腹したときに介錯を取った三十郎が、いざとなると非常に狼狽し、何度も首を切り損ね、ついには田内が猛然と立ち上がって短刀を振り回すというとんでもない修羅場となり、見かねた斉藤一が一刀の下に田内を斬り倒し、「さあ、田内は死んでいる。ゆっくり首を落としなさい。」と三十郎に声を掛けたとあります。この事件が元で三十郎の名声は地に落ち、斉藤による粛清に及んだのではないかというニュアンスが書かれており、これを元に司馬遼太郎が「新選組血風録」の「鑓は宝蔵院流」という小説を書き、以後ほぼ定説の様になってます。しかし、この説に関しては、田内の死亡時期が翌年の1月10日であり、三十郎が介錯を行える筈もなく、子母澤寛の創作ではないかと考えられています。

冒頭に上げたまいど豊による「引き笑い」は、三十郎は出世のために弟を売り込み、姻戚関係を笠に威張り散らしたといういやらしい性格を表すための演出なのですね。本当のところはどうだったのかは判りませんが、三十郎も「新選組始末記」を元とする小説のせいで、かなり不当な評価を受けている様に思えます。少なくとも田内の介錯のエピソードから来るような見かけ倒しの臆病者ではなく、かなり腕の立つ人物であった事は確かなようで、ちゃんと見直してあげたい隊士の一人ですね。

この項は、木村幸比古「新選組日記」(「浪士文久報国記事」)、新人物往来社「新選組資料集」(「新撰組始末記」)、「新選組銘々伝」、別冊歴史読本「新撰組の謎」、子母澤寛「新選組始末記」、司馬遼太郎「新選組血風録」を参照しています。


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