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2004.07.27

新選組!21

新選組! 第29回「長州を討て」

冒頭、天王山の長州陣。甲冑に身を包んだ久坂玄瑞と真木和泉。続いて、会津候の前で意見を交わす近藤と佐久間象山。「なぜ、長州は攻めて来ないのでしょうか。」と近藤。「おそらく朝廷に掛け合っているのです。」と会津藩士。
長州勢が京都周辺に着陣したのは1864年(元治元年)6月24日頃。蛤御門の変は7月19日ですから、1ヶ月近く間があった事になります。この間、長州藩は朝廷に対して猛烈な陳情攻勢を行っていました。この陳情は長州系の公卿を動かし、一時は武力で対決するより長州候を京都に呼んではどうかという意見まで出るに至りました。また、桂小五郎も外交の手腕を発揮し、長州に同情的な藩を回って長州藩への協力を要請していました。この動きに牽制され、幕府の最高責任者である一橋慶喜は決定的な決断を下す事が出来なかったと言います。この動きを破ったのが西郷隆盛でした。彼は、長州に反感を抱いている11の藩の重臣、留守居役などを集め、「もし、長州征伐に反対なら、薩摩一藩でもこれを行う。追討令がかくも遅れるとは血涙を呑む程残念。」というすさまじい演説を行います。西郷は、これに同調した土佐藩、宇和島藩と三藩合同で「この際長州を討たざれば、後顧の憂い、百年にのこる。」という上奏を行います。これを「西郷の血涙会議」と呼びますが、この上奏の結果朝廷及び幕府が武力討伐へと踏み切る事となり、長州藩を追い込む事になりました。

「長州は何がしたいのか。」と会津候。「8月18日以前の状態に戻したいのでしょう。」「帝がお許しになる筈が無いではないか。」この会津候の言葉は、正鵠を得ていた様です。孝明帝は長州の過激主義を嫌い、一橋慶喜に対して長州を京都に入れてはならないという宸翰を下しています。

「帝を彦根に移してはどうか。」と佐久間象山。この彦根還幸案が尊攘過激派に漏れた事が、象山の命取りになりました。元々、象山は公武合体派としてまた開国主義者として尊攘過激派から狙われており、またこの頃、象山の寓居が池田屋に近かった事から、池田屋事件は象山が手引きして起こったという噂が広まっていました。前回のドラマで桂が象山に合って機密事項であるはずのはかり事を話したのは、このエピソードが下敷きになっていたのですね。そこに加えて、この彦根還幸案は、天皇を幕府に独占され、もはや手出しが出来なくなると尊攘過激派のあせりと怒りを誘ったようです。

「警護の者を増やしてはどうか。」と近藤。「人にはな、天命というものがある。死ぬときは死ぬ。」と象山。白い愛馬「王庭」に跨り、都大路を行く象山。小さな馬ですが、当時の馬はあの位の大きさだったのですね。それにしても、丁度良い大きさの白馬をよく見つけて来たものです。「私達のしている事が、日本の為に、京の人々の為になっているのか判らなくなってくる。」と近藤。「そんな事は誰にも判らない。国を思う誠の心があるならば迷う事はない。」と象山。これは、新選組のあり方を象徴しているかのような言葉です。結果として、新選組は幕府が敗れた事によって朝敵となり、明治以後は国賊扱いとされてしまいます。また歴史的評価としても、新選組の存在は百害あって一益なしとか、歴史に咲いた徒花とか散々な言われ方をしたりします。しかし、当時の近藤達は、一途に国を思い京都の秩序を守らんとして隊務に励んでいたのでした。その純粋さこそが新選組の魅力なのですよね。

足が痛いと座り込んでしまう捨助。そこに近づいてくる一人の浪士。「佐久間象山先生か。」「うーん?」と振り向いた所を背中から斬りつけられます。警護しているはずの捨助は、座り込んだまま騒いでいるばかり。本当に役に立たないヤツだ。とどめを刺しに近づいて来た浪士に象山が言います。「馬鹿者め。名は何という。」「何でも良かろう、おまえは死ぬのだ。」「儂を殺した男の名前だ。是非知っておきたい。」と象山。とまどう浪士。「彦斎。河上彦斎。」「かわは三本「川」の方か、それともさんずいの方か。」としつこく聞く象山。さらにとまどう彦斎。絞り出すように「さんずいの方だ!」。完爾と笑って刺される象山。なんとも凄まじい最期でしたが、象山の人間の大きさを良く表した演出だと思います。象山を殺したのは、ドラマの様に一人ではなく、10人近い人数が居たとされます。河上彦斎もその中の一人でした。彦斎は肥後の人で、茶坊主上がりの志士とされます。清河八郎とも交際があり、かなりの教養の持ち主であったそうです。京都では、岡田以蔵、田中新兵衛らと並ぶ人斬りとして知られ、この前後かなりの数の暗殺を行ったとされています。その彦斎が象山を斬った後、言いしれぬ自己嫌悪に陥り、その後人斬りを止めたと言われます。司馬遼太郎の表現を借りれば、「斬った瞬間、斬ったはずの象山から異様な人間的迫力が殺到してきて身がすくみ、このあとも心が萎えた」(歴史の中の日本「武市半平太」)のでした。このシーンは、こうしたエピソードを表現していたのでしょうね。彦斎は、この後肥後藩にあって藩庁書記・軍事掛として活動し、明治後まで生き続けますが、開国主義に走った新政府に反発して野に下り、反政府的な行動をとがめられ、最後は斬首されるに至ります。

天王山の長州陣を訪ねる桂小五郎。「こんな事をしてどうなる。わが殿を朝敵としても良いのか。」「もう決めた事です。我々は朝廷に弓を引くのではない。敵は会津と薩摩、そして新選組!池田屋の恨みを晴らすのだ!」と久坂玄瑞。桂は徹頭徹尾、京都への進発には反対でした。では、久坂はどうだったかというと、やや微妙な所があります。基本的には久坂も桂と同じく反対の立場でした。しかし、国元にあって進発強行派の来島又平衛と会うと世子進発を進言してみたり、またそれを取り消してみたりと右往左往していた様子が伺えます。京都にあっては、もはや陳情の望みが絶たれたという段階になって最後の軍議が開かれたのですが、久坂は自重論を説き、大阪へ退く事を主張します。しかし、軍議は来島又兵衛の強硬論に押され、最後は真木和泉が苦渋の決断を下して京都侵攻が決まったのでした。このドラマでは久坂が猪突猛進して長州藩を誤らせたように描かれていましたが、決してそうではなく、沸騰した国元の世論を押さえる事が出来ず、それを代表する来島に引きずられるように京都に来てしまったというのが実情だったようです。「残された道は、帝に直に嘆願書を渡し、汚名を晴らすのみ。誠を持ってすれば思いは通ずる。」この久坂の言葉は、追いつめられた長州藩の最後の思いでもありました。

場面は変わって、新選組の屯所。土嚢が積まれ、槍を持った門番が居て臨戦態勢に入っている事が判ります。中庭で槍の稽古を付けているのは藤堂平助。なよなよしていた彼が、見違えるように厳しく指揮を執っています。池田屋の一件で自信を付けたのでしょうか。いよいよ、魁先生らしくなって来ました。「あの、ほんまに長州は攻めてくるのですか。」とひで。「今日か明日かと私は踏んでいます。」と山南総長。さすがに戦況を良く見てますね。彼は今回も屯所を守る役目に就いているのですね。山南は「浪士文久報国記事」では「病気に付き引きこもり居り」とあり、「新撰組顛末記」にはその名は見あたりません。このことから、蛤御門の戦には参戦していなかったと考えられており、このドラマでは池田屋事件の時と同じく留守部隊に配置して史実と辻褄を合わせているのですね。

訓練中にへたり込んで平助から叱責を受ける浅野と葛山。「私達は監察方なので。」「敵がそんな言い訳でみのがしてくれると思っているのか。」と手厳しい平助。水をぶっかけられて訓練を再開する浅野達。葛山については判りませんが、浅野については「浪士文久報国記事」に天王山へ攻めていった時に「軍事方」として武田観柳斎と共に従軍していたとあり、実際には近藤の幕下にあったものと思われます。

銭取橋の新選組陣地。「我らの先には、彦根藩と大垣藩が陣を張っております。」と武田観柳斎。ただ、扇子で指している位置が先の南ではなく北の京都市内なんですけど...。「我らももっと前に出たいところだな。」と近藤。「構う事はねえ。戦が始まったら前に出て行きゃ良いんだ。」と土方。周平と名を改めた昌武。永倉が剣術、原田が槍、松原が柔術、そしてそろばんが河合と豪華な先生陣が出来てしまいます。あまり有り難そうでもない周平。ここで注目は河合。彼も浅野と同じく剣術は全然駄目という設定ですが、浅野と違ってしっかり仲間に溶け込んでいる様子が伺えます。このあたり、後に失策を犯してもかなりの温情を掛けてもらったという河合の人柄が出ていますね。

医者の下を訪れている沖田。「本当に労咳なんですか。だって今は何ともないんですよ。」と沖田。「何ともない人間が丼一杯の血を吐くか。」と孝庵先生。沖田の顔色が悪いですね。「何で私が。」「そりゃ、わしに聞くな。」「治して下さいよ。だってあんた治すのが仕事だろ。」と態度の悪い沖田。不治の病と宣言されたショックを、どうにかしてまぎらそうとしているのでしょうか。「滋養のあるものを食べて静養しているよりない。」「そんなの無理だよ。」「ほたら、わしは知らん。」「この藪医者!」とどこまでも失礼な沖田。「死ぬんですか、私は。」一番気がかりな事を聞く沖田。「人はいつかは死ぬ。全てはおまはん次第じゃ。」と孝庵。気休めを言う事なく真実を伝え、それでいて親身になっている様子が伺えて、孝庵はなかなか良い医者ですね。

再び、新選組の陣地。近藤の前に武田と土方の二人。「違う!」と遠慮なく指摘する武田。思わず顔を上げる土方。武田に対する土方の感情が悪い方向に向かっていく暗示でしょうか。それを気遣ってか「先へ進めてくれ。」と近藤。小芝居ですが、なかなか意味深な場面でした。そこへ入ってくる沖田。「もう大丈夫です。」と沖田。「心配かけやがって、この馬鹿野郎。」と抱きつく井上。やっぱり、良いおじさんですね。事情を知っている永倉と原田が沖田を連れて行きます。気遣わしげに見送る土方。「医者はなんと言っている。」と永倉。「別になんでもないですよ。」と沖田。「じゃ、もう平気なんだな。俺、胸なで下ろしちゃうぞ。」と単純な原田。しかし、永倉は信用していない様子。「血を吐いた事は、近藤さんと土方さんには内緒にして下さい。心配掛けたくないから。」と沖田。沖田がこの戦いに参戦していたかについては、意見が分かれている様です。「浪士文久報国記事」では「病気に付き引きこもり居り」とあり、参戦していない事になっています。一方「新撰組顛末記」では甲冑に身を固め、参戦していた事になっています。また、西村兼文の「元治甲子戦争記」には参戦していた旨が書かれており、どちらを取るのか難しいところですね。また、池田屋で倒れてから時間があまり経っておらず、果たして体力が戻っていたのか疑問視する向きもある様です。

夜になって、長州軍が動き出します。これに呼応するように御所周辺でも動きが慌ただしくなってきます。兵士に起こされる乞食?よく見ると、象山が殺された現場から逃げ出した捨助でした。「ここはなんていう所?」「蛤御門だ。」さりげなく場所の設定を説明してくれます。「蛤食べたいな~。」とあくまで戦とは無縁な捨助。むしろを持った姿が哀れです。

天王山で動きがありましたという報に接して、出陣する新選組。京の町を走る姿が格好良いですね。しかし、現場に駆けつけた時には、戦が終わって累々たる死体が転がっているだけでした。実際にも、新選組が居た伏見方面の戦いは、あっという間にけりが付いた様です。この方面に居た長州兵は、福原越後に率いられた上士を中心にした選鋒隊でした。この選鋒隊は、長州藩の中でも弱兵として知られ、守っていた大垣藩から一撃を食らうやたちまちにして混乱に陥り、潰走してしまった様です。このとき、大垣藩を指揮していたのが小原鉄心で、幕末期の大垣藩を立て直し、軍を洋式化して幕府軍の中でも最強と言われる程にした名将でした。幕府は、上士を中心にしたこの伏見の軍を長州藩の主力と見て最も重視しており、幕府軍の主力をこの方面に集中させていたのでした。

今回も長くなったので、この続きは明日アップします。


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