新選組!20の2
新選組!第28回「そして池田屋へ」 その2
祇園会所から御用改めの開始です。ここで、さりげなく新しい説が登場していましたね。池田屋事件については、従来の山崎蒸が先に潜入していたという説は否定され、このドラマの様に二手に分かれて一方は木屋町、一方は祇園の茶屋や旅館の御用改めを行っていったという説が有力視されているのですが、その中でも片端から当たっていくローラー作戦を展開していたとする説が普通ではないかと思われます。ところが、このドラマでは、いくつかの有力な拠点を選び、そこを重点的に当たっていくという説を採っていました。
この祇園会所から池田屋に至るまでの御用改めについては、「浪士文久報国記事」にある「祇園会所から祇園一帯、鴨東から三条へと探索して行く中で池田屋が怪しいという情報を得た」という記載のほか、「孝明天皇記第五」に「5日夜六ツ半頃に壬生浪士(新選組と唱える)が20名程で祇園町越房という茶屋に探索に来た。」という記事や「11時半頃、祇園井筒という茶屋に新選組が探索に来た。」という記事がある事、「甲子雑録」に「四条祇園町建仁寺上がるの嶋村屋へ壬生浪士が探索に来た。」という記事がある事から確からしいと考えられています。しかし、従来のようにローラー作戦で一軒一軒当たっていったとするとあまりにも数が多すぎて時間が足りないと考えられる事から、あらかじめ候補を絞っていたという今回の説は合理的で頷けるものがありますね。「新選組 with ほぼ日TVガイド」の中でも触れられていますので、参考にして下さい。
さて、御用改めのシーン。旅館の店先で新選組隊士が「御用改めである」と叫びますが、裸の子供がはしゃぎ回り、それを親が追いかけるというほのぼのとしたシーンが展開され、新選組は全く無視されてしまいます。何軒目かには河合が「これってたまんないなあ、もう」と泣きを入れますが、この頃の新選組は全く知名度が無かったこと、一般市民にとっては祭りこそ重要で、過激派攘夷集団の存在はどこか浮き世離れした話として捉えられていたという事を表しているのでしょうか。
池田屋で新選組屯所に斬り込む事を宣言した宮部鼎蔵。実際にこの夜決められた事として伝わっている内容としては次の様なものです。(「維新土佐勤王史」にあるそうですが、残念ながら私は原本を知りません。ここでは、司馬遼太郎「龍馬が行く」を参照しています。)
「前策」として新選組屯所に斬り込み、焼き討ちをもって隊士を皆殺にし、御所に駆けつけて伝奏に会い、勅命を頂戴して長州軍を京に入れる。
「後策」として、反長州公卿を討ち取って朝廷の主導権を長州派公卿に握らせ、一同切腹する。
切腹がやや猶予できるとすれば「余策」として反長州派の中川宮を幽閉し、一橋慶喜を大阪へ追いやり、会津藩を退けて長州候を京都守護職に任命し、朝議を攘夷に一決せしめる。
この挙に加わる予定の同志が何人居たのかは判りませんが、どう考えても無理のある計画で実現不可能だったと思われますが、真っ先に新選組を襲う事を計画しており、相当な敵意を抱いていた事が伺われます。しかし、結果として長州軍の上京を促し、禁門の変を引き起こした事を考えると前策の後半部分は実現出来た訳で、必ずしもこの計画が失敗だったとは言い切れないかも知れません。
いよいよ池田屋への斬り込みです。「主人はいるか。御用改めである。」と宣言したのは藤堂平助。沖田が一階にあった武器を見つけ、さらに奥へ走る主人を見つけて近藤が後を付けます。このあたりはほぼ「浪士文久報国記事」の記述に沿っていますね。二階では灯りを消して待ち受ける浪士達。緊迫した描写が見事です。扉を開けて中を見た近藤は一旦扉を閉め、付いてきていた昌武に「当たりだ。土方に知らせろ。」と告げます。このあたりの緩急の呼吸も良いですね。また昌武をこの場から去らせる事によって、多くの小説に描かれている「倅周平」の醜態から救ってやっています。
扉が開いて浪士達が出てきます。「御用改めである。手向かいすれば容赦なく斬り捨てる!」近藤が歴史の表舞台に飛び出した瞬間でした。同時に、攘夷集団を目指していた新選組が、佐幕派の警察集団として後戻り出来なくなった瞬間でもありました。最初に斬りかかって来たのが、望月亀弥太。敵と言いながらもどこかほのぼのとした関係だったのに、もはや抜き差しならぬ敵対関係に入った事を象徴しています。気配を察した永倉、沖田達も戦闘に参加。
池田屋は一気に修羅場と化します。お約束の階段落ちも出て来ました。これはやっぱり入れなきゃいけないのですかね。ほとんどの新選組映画では、玄関に待ちかまえる近藤が居て、声を聞いた北添佶麿が何気なく顔を出す。そこへ近藤が一気に階段を駆け上って一刀の下に斬り捨て、北添は頭から階段を転げ落ちる、というシーンが繰り広げられてきました。このドラマでは、極力史実を元に殺陣を繰り広げるという事だったのでこれは無いと思っていたのですが、やはり入れないと収まりがつかないのでしょうか。
植え込みに隠れて震えていたのは浅野薫。斬り込みに志願しておきながら、やはり恐くなってしまったのでしょうね。早くも彼の末路を暗示しているかのようです。
土方隊と出会った昌武。池田屋ならこっちが早いと斉藤一。京都暮らしが長い事を物語っています。「松原達にも知らせてくれ。」と昌武に言ったのは井上源三郎。永倉新八の手記「七ケ所手負場所顕ス」に「井上源三郎が10人の同志を率いて池田屋に入り8人の浪士を捕らえた。」という記述があり、これから土方隊とは別に井上が別働隊を率いていたとする説があります。これを松原隊に変えたのは、昌武に優しく指示を出すのは井上が相応しいという配慮からだったのでしょうか。
騒ぎを取り巻く市民に混じって、イカを食べている捨助の姿。なんでイカばっかり出てくるのでしょうね。昔から、祭りの屋台と言えばイカだったという事なのかな。脳天気に観戦する捨助の姿は、この騒ぎを一種のイベントとして捉えている市民の意識を象徴しているのかも知れませんね。一方、池田屋に戻ってきた桂小五郎。騒ぎに気付くや、藩邸に取って戻します。やはりこのドラマでも「逃げの小五郎」は健在なのですね。
池田屋に戻って、あまりの疲労困憊に鉢金を取って垣根のそばで一息を付く藤堂。そこを浪士に斬りつけられ、眉間を割られる平助。「平助!」と叫ぶ永倉。このあたりの描写も「浪士文久報国記事」に忠実ですね。ついでに言えば、新選組フィギュアのシーンそのままでもありました。
屋内で血を吐く沖田総司。衝撃的なシーンであるはずが、紫陽花の花びらが舞う幻想的なシーンに。なかなか凝った演出ではあるのですが、正直言ってあまり成功していないと思いました。なぜかと思うに、このドラマの沖田があまり可哀想に見えないからでしょうか。これまでの沖田のイメージとしては、薄幸の美剣士で、どこかストイックでかつほのかに甘く、全体としては普通の人という感じかな。私としては島田順司ですね。古いな~。ところがこのドラマの沖田君、美男で強い所は同じなのですが、我の強さが目立ちますね。別に私はこのドラマの沖田が嫌いという訳ではなく、悩みを持った一人の青年が様々に苦しみながら成長していくという描写は、今までの枠に囚われることなくなかかなか良いと思っています。しかしひでさんに想われ、皆から好かれかつ自由に振る舞っている沖田は、薄幸というイメージからは遠かったのですよね。そこにこの演出ですから、どこか唐突な感じがしたのでしょうか。狙いとしては判るのですが、何か違和感を感じました。
近藤の後ろから浪士が迫ります。「かっちゃん、後ろだっ。」振り向いた近藤は、危うい所を助かります。 「待たせたな。」と土方の登場。うーん、格好良いですね。後から来て、美味しい所を一人で持って行ってしまいました。「後は俺たちに任せな」 と原田佐之助。彼はいつも楽しそうですね。甲冑の上から斬りつけられながらも、相手を担ぎ上げて叩き付けてしまう怪力無双の島田魁。なんとも頼もしい男です。
二階で血を吐いてたおれている総司。駆け寄る原田と永倉に「みんなには言わないで。お願いだから。」と弱々しく頼みます。ここは、さっきと違って宿阿を負った沖田の悲劇性が出ていて違和感は無かったです。
血まみれになりながら、長州藩邸に向かう望月。悲鳴を上げる町娘が結構リアルでした。実際にあんな姿の侍に出会ったら、恐いですよね。「誰も藩邸に入れてはならない。」と苦悩の決断を下す桂小五郎。やはり彼は政治家ですね。 個人的な感情よりも藩の存続を優先します。「どうしてぜよ!」と叫ぶ望月が哀れでした。なかなかの演出なのですが、実際には池田屋から脱出した多くの志士が長州藩邸に駆け込んで助かっています。このとき、長州藩邸では留守居役乃美織江が藩邸に会津藩が押し寄せて来る事を想定し、籠城体勢を取っていたとも言い、桂が前途を思い軽挙をいましめ、藩邸から飛びだそうとする者を止めたとも言います。また、長州藩邸脇で倒れていたのは吉田稔麿で、望月はその手前の角倉邸の角で倒れていました。
再び場面は池田屋。運ばれる藤堂と沖田。沖田は階段から落ちたと説明する永倉と原田。「お大事に~。」とちゃかすような原田ですが、永倉と意味深に見つめ合います。2階で沖田の羽織を見つけ、不審そうな土方。このあたり、沖田を襲う悲劇を巡る伏線があちこちに張られていますね。
倒れていた宮部が息を吹き返し、近藤と対峙。国の行く末を語り、自分に続く何千もの志士を切り続ける積もりかと迫る宮部に対し、「おのれの生き方に一点の曇りもない。」と言い切る近藤。「愚かなり、近藤勇。」と斬りかかり、近藤に倒される宮部。このやりとりは見応えがありました。時代の流れに逆らった新選組と近藤を待ち受ける未来と、それを予感しつつも京の治安と幕府を守り抜く事を決意した近藤。このドラマの主題がここに凝縮されているかの様です。
戦果の報告をする武田観柳斎。さすがに軍師だけあって、冷静に戦況を見つめていたのですね。ようやくやって来た会津藩。「あとは、我らに任せられよ」て今頃なんなんでしょうか。これも、実際にはもっと早い段階で現場に到着し、池田屋から脱出した浪士と激闘を繰り広げています。そしてこのあとも新選組と協力して残党狩りを行っており、全てが終わって新選組が屯所に帰ったのは翌日の正午頃だったと言います。
近藤局長の「いざ!」という掛け声で新選組は帰還。さながら赤穂浪士の引き上げに似ていたと言われ、これにより一躍勇名を洛内に轟かせることになりました。この引き上げを見送る群衆の中にいたのがおりょう。彼女は寺田屋に戻って、一部始終を坂本龍馬に話します。龍馬は、望月を悲しみ、近藤の暴挙を呪い、国の行く末を思って嘆きます。江口洋介の演じるこの龍馬、イメージとしてはぴったりで、このドラマの中では最もはまり役と言っても良いかも知れません。彼を主役にして、「龍馬がゆく」でも作ってくれないかな。
「こたびの新選組の働き、名付け親の余としては嬉しい限りである。近藤、土方、これからもこの国のために心をひとつにして励んでくれ。」と会津候からお褒めの言葉を頂く近藤と土方。この事件で新選組は、会津藩からの感状と500両、朝廷からの慰労金として100両を受け取っており、これを働きに応じて隊士に分配しています。また、これはこの時点での新選組の働きは、紛れもなく治安維持のための正当な行為であったことを証明しており、単なる殺戮行為では無かった事が判ります。
池田屋事件は、間違いなく新選組の勇名を高めました。ただし、それは治安警察としてのもので、近藤の目指した攘夷集団としてのものではありませんでした。これ以後、望むと望まざるに係わらず、新選組は佐幕派の雄として認知される事になります。もはや後戻り出来ない道に入ってしまったという点において、池田屋事件は新選組にとって大きなターニングポイントでした。また、日本史においても、重大な意味を持ちました。宮部ら一流の志士の多くを失い、明治維新が3年は遅れたと言われます。しかし、すでに進発が決まっていたとは言え、長州藩の暴発をより決定的にし、会津藩に対する怨念もこのときから始まります。また幕府の衰亡を早めた長州征伐もこの事件が発端になっているとも言え、反対に維新を3年早めたとも言えそうです。
この項は、木村幸比古「新選組日記」(「浪士文久報国記事」「島田魁日記」)、新人物往来社「新選組資料集」(「七ケ所手負場所顕ス」)、子母澤寛「新選組始末記」、別冊歴史読本「新撰組の謎」、日本放送出版協会「NHK歴史への招待 新選組」、星亮一「新選組と会津藩」、永倉新八「新撰組顛末記」、司馬遼太郎「龍馬がゆく」を参照しています。
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コメント
うーん。やっぱり分かりやすいですよ!!!
新選組!には欠かせない「ねこづらどき」です。
どの説を再現するのかどきどきしながら観ていた池田屋事件でした。
投稿: ゴロスケ | 2004.07.20 18:19
トラックバックに続いてコメントまで頂き、ありがとうございます。こんなに長く書いて誰が読んでくれるのだろうかと心配していたのですが、判りやすいと言って頂けてとても嬉しいです。このドラマは、これまでの新撰組を扱ったどのドラマや映画よりも内容が濃く、ますます三谷ファンになってしまいそうです。
投稿: なおくん | 2004.07.20 19:14
池田屋事件の解説、読み応えがありました。放送とビデオ、それにねこづらどきを読んで、3度楽しめます。小五郎の不在と捨助の役割、史実の織り交ぜ方など脚本の妙もわかってきました。
池田屋のセットはNHK「そのとき歴史が動いた」でやったCG制作経験が生きたのでしょうね。
前から気になっているのですが、「御所焼き討ち」情報は土方あたりの謀略説をとっている方はいないのでしょうか? いくら長州の過激派でも、実現性が薄い無謀な計画ですし、新撰組側には早く存在を示し、隊内を引き締めたいという動機があったわけですよね?
投稿: 善福寺手帳/yoshioka | 2004.07.20 22:49
yoshiokaさん、こんにちは。楽しんめているという嬉しいコメントを頂き、ありがとうございます。なんだか舞い上がってしまいそうで恐いのですが、時間を掛けて書いた甲斐はありました。土方の謀略説については、手元の資料には無いのですがネット上では見かけた事があります。それによると、ここで紹介した前策、後策、余策のどれにも京都焼き討ちという記述はなく(新選組屯所焼き討ちはありますが)、焼き討ちの記事は幕府方の記録にしか見あたらない事から、長州藩を陥れる幕府の謀略ではないかとされていました。これについては、また資料が見つかりましたらここ「ねこづらどき」で報告したいと思います。
投稿: なおくん | 2004.07.21 00:28