新選組!19の2
新撰組!マイナー隊士の紹介、今回は山崎蒸です。
山崎蒸といえば池田屋事件、池田屋事件といえば山崎蒸と言われる程、従来はこの事件に深く係わっているとされて来た人物です。ドラマでは桂吉弥が影の薄さを生かした役を演じています。
まず、本題に入る前にこの桂吉弥の紹介。この方、名前から判るように桂一門の落語家で、桂吉朝の弟子であり、また上方落語の大御所桂米朝師匠の孫弟子にあたる方です。私、米朝師匠の大ファンでありまして、その孫弟子ともなれば応援したくなりますね。詳しくは、桂吉弥のホームページでご覧下さい。新選組の史跡を訪ねたレポートもあってなかなか楽しいですよ。
さて、山崎蒸に戻りますが、彼は本名を「林蒸」といい、子母澤寛の「新選組遺聞」に八木為三郎の話として「大阪の針医者林五郎左衛門の息子」とあります。林家の過去帳などから概ね裏付けが取れることからこれが通説なのですが、島田魁の残した「英名録」には「阿波徳島」となっており、やや謎が残ります。
山崎の出自としては、もう一つ赤穂浪士にからむ奥野将監の子孫という説があります。赤穂市のホームページにも登場しておりかなり広く知られた説なのですが、元はといえば司馬遼太郎の「新選組血風録」に書かれていることから始まっている様です。おそらくは池田屋事件に関係した大高又大高又次郎と大高忠兵衛(赤穂義士大高源吾の子孫と伝えられる)と対にするために司馬氏が創作したものと思われますが、肯定する確証もなければ否定するだけの根拠もありません。
山崎の生年は判っていませんが、「新選組遺聞」に「32、3でしたろう、身体は大きい方で、色の黒い、余りハキハキ口を利かぬ人でした。」とあり、また「近藤芳助書簡」には亡くなった年(1868年(慶応4年))に34、5歳だったとあります。入隊は1863年(文久3年)冬から翌年にかけての事と考えられる事から、入隊時には30歳前後だったのではないかと思われます。
山崎と言えば棒術の名手となっていますが、これも「新選組血風録」の影響が大きいようで、「新選組遺聞」には「長巻」が上手だったとあります。「近藤芳助書簡」には、「文筆学才あるをもって諸士取調役」となるとあり、どちらかといえば武術よりも文才で採用された隊士だったのかも知れません。
山崎が最初に活躍するのは、池田屋事件の発端となった古高俊太郎についての探索です。「島田魁日記」に古高俊太郎について「当組島田、浅野、山崎、川島これを探索し」とあり、事前の探索に従事していた事が判ります。そして池田屋事件が起こる訳ですが、当初に上げた様に従来この事件において山崎が大きな役割を果たしたとされてきました。その元となったのが西村兼文の「新撰組始末記」で、その記述は大略次のとおりです。
池田屋に浪士が潜み密議を交わしているという報に接した近藤は、山崎に探索を命じます。山崎は薬売りの商人に身をやつし、一旦大阪へ下って船宿へ泊まり、そこで池田屋への紹介状を書いて貰らいます。山崎は、その紹介状を持って池田屋を訪れ、一度は満室だと断られますがなじみの船宿からの紹介という事で下座敷表の間に入り込む事に成功します。そして、実際に薬問屋へ出入りしては取引を行って周囲をすっかり信じ込ませ、池田屋に出入りする浪士達の動向を調べ上げては、宿の前で乞食に化けて座っていた同心渡辺幸左衛門を通して屯所に連絡をします。そして、事件当日は、下座敷にあった浪士達の武器弾薬を隠し、表戸を開けて隊士達を招き入れたとあります。
子母澤寛の「新選組始末記」もほぼこれに沿った記述になっており、「新選組血風録」を始めとする小説もほとんどがこの説に従って書かれてきました。それほど具体性に富んだ記述なのですが、最近の研究ではこれは創作だろうと言われています。永倉新八の「浪士文久報国記事」には、祇園会所から祇園一帯、鴨東から三条へと探索して行く中で池田屋が怪しいという情報を得たという記載があり、現在ではこれが真実に近いのではないかとされています。これを裏付けるように池田屋事件の報奨金を受け取った隊士のリストに山崎の名前はなく、当日の現場にはいなかった事が伺えます。そもそも浪士が池田屋に集合したのは古高の捕縛を受けてその善後策を練るためでした。古高捕縛は池田屋事件当日の早朝であり、それより先に池田屋に浪士が集合するという情報が得られる筈はなく、山崎が大阪へ下って戻ってくる時間的余裕は全くありません。以上のように山崎の活躍はフィクションと判る訳ですが、小説としては従来の説の方が面白いですよね。それにしても、西村兼文がどうやってこの説を創作したのか不思議な気がします。全くの私見ですが、この説の元になった風聞のようなものが当時あったのかも知れないという気がしないでもありません。
山崎が次に記録に表れるのは、1864年(元治元年)7月19日に起こった禁門の変においてです。「浪士文久報国記事」に、諸士取調役として山崎、島田、林が出動したと記載があり、恐らくは長州兵の動向を探っていたものと思われます。山崎は、7月21日に長州兵の残党を追って天王山にも出動しており、土方と共に山下の通りを固めたとあります。さらにその後の7月25日には河合耆三郎と共に摂津国の昆陽宿へ向かい、長州藩が遺棄した武器の押収及び移送を行っています。
山崎はまた、1865年(慶応元年)2月23日に切腹した山南敬助の埋葬を依頼する頼越人として光縁寺を訪れている事が判っています。この山南の切腹の原因となったと言われる西本願寺への屯所の移転について、実地に交渉していたのが山崎でした。「新撰組始末記」に土方、井上、斉藤一、山崎が交々西本願寺に現れては堂宇を貸すよう要求し、「暴言威力罵詈威力を示した」とあり、皮肉な巡り合わせを感じさせます。
この西本願寺の屯所時代の話として、幕府典医の松本良順が訪れて新選組の衛生管理について意見を述べた事があり、その際元医家の子である山崎を選んで救急法を伝授しています。このとき、山崎は笑って「私は新選組の医師だ」と言っていたそうです。
この年の11月に、山崎は他の諸士調役兼観察と共に近藤に従って広島へ下っています。近藤は12月には京都へ帰っていくのですが、山崎は吉村貫一郎と共に広島に残り、これ以後翌年の7月まで長州藩の探索を行っています。彼は周防方と呼ばれ、探索によって得た情報を文書にして京都へ報告していたらしく、第二次長州征伐の戦況を知らせる文書に基づいて中山忠能が作った資料が残されているそうです。
第二次長征が失敗に終わり、京都へ戻った山崎は、その後大和や近江に出かけて新選組に依頼のあった事件の解決にあたっていたようです。1867年(慶応3年)6月10日に新選組は正式に幕臣に取り上げになりますが、このとき山崎は「大御番組 助勤」となっており、諸士調役から昇進していた事が判ります。これは、御陵衛士となった伊東一派が抜けた事に伴う異動によるものと思われ、長年の活躍が認められたという事だったのでしょう。副長助勤としての山崎は、9月14日に本多勘解由らの捕縛に向かい、10月に尾方長栄を屯所に連行して尋問しています。そして、11月18日に近藤が伊東甲子太郎を暗殺するために妾宅に招いた席に山崎がいた事が「新撰組始末記」に記されています。
山崎蒸の最後は、翌1868年(慶応4年)1月に訪れました。前年の暮れに京都を離れて伏見の守備に就いていた新選組は、1月3日に開戦した鳥羽伏見の戦いにおいて奮戦し、5日には淀千両松、6日には橋本で戦いますが、戦況に利なく大阪へと敗走します。山崎は「淀で討死」あるいは「橋本で討死」という記録もありますが、実際にはどこかで負傷し、大阪へと後送されていました(「近藤芳助書簡」)。山崎について残る謎の一つに水葬があります。「新選組遺聞」には、八木為三郎が明治もずっと遅くなってから壬生に戻ってきた林信太郎という隊士から聞いた話として、「山崎は淀で深手を負い、船で江戸へ向かう途中紀州沖で亡くなり、水葬に付した」とあります。これが日本で最初に海軍式の水葬を行った例とされるのですが、これは創作とする説があります。その根拠として、為三郎に伝えたとされる林信太郎は、明治元年10月に戦死している事が明らかになっており、為三郎が話を聞けたはずはないとするものです。これはかなり信憑性のある説で、現在の通説ともされていますが、その一方で為三郎に伝えたのは山崎林五郎という隊士であり、水葬は事実ではないかとする説があります(「新選組銘々伝」)。山崎林五郎は林五郎左衛門の息子といい、山崎蒸の父親と同じ名前である事から弟ではないかと考えられると言います。山崎の過去帳には新次郎の兄とあることから山崎林五郎の本名は林新次郎となり、林信太郎と酷似して来ますね。このため為三郎はこの二人を取り違えたのではないかと考えられるとしています。ただ、これはあくまで推測にすぎず、確証があるわけではありません。しかし、山崎の死亡場所を船中とする資料は御香宮の「東軍戦死者霊名簿」や壬生寺の山崎の過去帳にもあるらしく、少なくとも船の中で死んだ事は確からしいと言えそうです。
この項は、木村幸比古「新選組日記」(「浪士文久報国記事」「島田魁日記」)、新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」(「新撰組始末記」「近藤芳助書簡」)、子母澤寛「新選組始末記」、「新選組遺聞」、別冊歴史読本「新撰組の謎」、司馬遼太郎「新選組血風録」を参照しています。
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