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2004年7月

2004.07.29

新選組!21の3

今回の新選組!マイナー隊士の紹介は、谷三十郎です。ドラマでは、まいど豊さんが「引き笑い」で個性的な役作りをしていますね。でも、なんで「引き笑い」なんだろう?

谷三十郎は、備中松山の人で、現在の高梁市御前町に家があったと言います。高梁市石火矢町に武家屋敷が残っていますが、その東隣にある高梁高校の寮がその跡らしいですね。松山藩の剣術師範を務めていた谷三治郎の長男として生まれ、弟に後に共に新選組隊士となった万太郎と昌武が居ました。「新選組始末記」では、万太郎を兄としていますが、これは子母澤寛が聞き間違えたのか、「太郎」と付く方を兄と思いこんだのか、どちらにせよ取り違えです。生年は不詳ですが、万太郎が1835年(天保6年)に生まれていますので、その少し前という事になりますね。なお、昌武は1848年(嘉永元年)生まれですから、万太郎からさらに13歳下と言うことになります。

谷三十郎と言えば、宝蔵院流の名手とされていますが、実際には種田流の使い手だったらしく、槍よりも剣の方が得意だったとする説もあります。剣は直心流で、相当な腕だったと伝わっています。1854年(嘉永5年)に、父の死を受けて家督を相続し、万太郎と兄弟揃って槍術指南を努めていましたが、1856年(安政3年)に谷家は断絶となりました。この原因ですが、万太郎が藩主の娘と問題を起こしたため、あるいは家老の奥方と不義があった為と伝わります。また、三十郎が、藩士と意見が合わずに家禄を返上して浪人になったという説もあるようです。

高梁を後にした谷兄弟は、大阪に出て来ました。大阪では弟の万太郎が道場を開き、三十郎も同居して武術を教えていた様です。新選組にいつ入ったのかはよく判っていませんが、1863年(文久3年)の事だったと思われます。この年の9月に、長州藩士守寛斎という人が谷三十郎率いる一隊に捕縛されそうになったという記録があるそうで、新選組入隊はこれ以前の事ではないかと考えられています。

1864年(元治元年)6月5日に起こった池田屋事件には、谷三兄弟は揃って参戦しています。子母澤寛の「新選組始末記」では、このとき三十郎が近藤隊に属して戦い、槍を振るって大活躍したと書かれていますが、これは先に触れた様に子母澤寛の取り違えで、実際には弟の万太郎の方でした。永倉新八の「浪士文久報国記事」の中にも万太郎の活躍が描かれており、三十郎は土方隊に属していて後から参戦したものと思われます。これを裏付けるように、事件後の報奨金は、万太郎が20両、三十郎が17両、昌武が15両となっています。

この前後、末の弟の昌武が近藤の養子となっています。これがどういう事情からだったかについては、諸説があります。一つは、昌武が板倉候の御落胤であり、これを谷家が引き取って育てていたものを、近藤がその血筋の良さに惚れ込んで養子にしたとする説です。二つ目は、谷家は元板倉候の家臣であり、相当な名家でした。その谷家の息子を養子にすることで板倉家に恩を売り、板倉候に取り入ろうとしたとする説です。三つ目は、池田屋事件で昌武が素晴らしい活躍を見せ、これを見た近藤がその武勇を見込んで養子にしたとする説です。一つ目の説の変形として、三十郎が御落胤という偽の情報を近藤に吹き込み、局長の姻戚となろうとしたというものもあります。いずれの説も決め手はなく、実際にどうだったのかは判りません。しかし、谷兄弟が武勇に優れていた事には間違いなく、近藤がその武勇に惚れ込んだという事はあったと思われます。

三十郎の人柄については「新選組始末記」に、「周平(昌武)の関係で、日頃威光を笠に着て威張ってばかりいる」とあり、嫌な人間であったというイメージが定着しています。これに対して、違った人間像を伝える資料もあります。禁門の変の後、西本願寺に居た斉藤九一郎という人が新選組に捕らえられるのですが、この人はかつて三十郎の兄弟子であった人でした。この斉藤が残した日記に次のように書かれているそうです。三十郎は「先生には大恩を受けているのに、捕縛する事になってしまい、申し訳なく思っている。」と言って、煙草、茶などを差しだし、親切に世話をします。そして「新選組と言ってもそれほどの者はおらず、拙い私程度の腕を持つ者も居ない。だから、出動というと自分が先頭に立って出て行くのです。」と笑って話しかけたとあるそうです。この話からすると、傲岸不遜というイメージとは異なった謙虚な人物像が浮かんで来る様ですね。

ドラマで間もなく切腹する葛山武八郎が光縁寺に葬られた時に、宿院良蔵と共に頼越人となったのが三十郎でした。また、その後、11月ごろに作成された行軍録では、「八番大砲組」組長となっています。

翌1865年(元治2年)1月8日、大阪でぜんざい屋事件が起こります。これは、大阪の石蔵屋というぜんざい屋に土佐藩の那須盛馬、田中光顕ら不逞浪士が潜伏し、大阪城焼き討ちなどを計画していたのもので、内通によりこの事を知った三十郎、万太郎、阿部十郎らが捕縛に向かったという事件です。結果として、この時にはほとんどの浪士が外出しており、残っていた数名の浪士は激しく抵抗し、三十郎は脚に怪我を負い、万太郎は胸を当てられるという被害を受け、大利鼎吉を斬殺しています。

伊東甲子太郎が入隊してきた後の組織改編で、三十郎は七番隊組長となり、槍術師範を兼ねる様になります。また、9月に作成された「行軍録」では、「大筒頭」とされました。一貫して幹部の座に座り続けてきた三十郎でしたが、その死は突然訪れました。1866年(慶応2年)4月1日、祇園石段下で変死体として発見されたのです。

三十郎の死には、幾つかの説があります。まずは病死とする説で、永倉新八の「同志連名記」では単に病死とあり、谷家に伝わる伝承では「酒の飲み過ぎによる卒中で死亡した」とあるそうです。これに対して、西村兼文の「新撰組始末記」では、「故なくして頓死す。何か故あるよし。」と含みのある書き方をしています。また、子母澤寛の「新選組始末記」では、篠原泰之進と斉藤一が検死に立ち会った所、胸元から背中に一太刀にずぶりとやられて死んでいたとあり、篠原の語り残しとして斉藤一の仕業ではないかという説を紹介しています。

これに関連して「新選組始末記」では、田内知という隊士が切腹したときに介錯を取った三十郎が、いざとなると非常に狼狽し、何度も首を切り損ね、ついには田内が猛然と立ち上がって短刀を振り回すというとんでもない修羅場となり、見かねた斉藤一が一刀の下に田内を斬り倒し、「さあ、田内は死んでいる。ゆっくり首を落としなさい。」と三十郎に声を掛けたとあります。この事件が元で三十郎の名声は地に落ち、斉藤による粛清に及んだのではないかというニュアンスが書かれており、これを元に司馬遼太郎が「新選組血風録」の「鑓は宝蔵院流」という小説を書き、以後ほぼ定説の様になってます。しかし、この説に関しては、田内の死亡時期が翌年の1月10日であり、三十郎が介錯を行える筈もなく、子母澤寛の創作ではないかと考えられています。

冒頭に上げたまいど豊による「引き笑い」は、三十郎は出世のために弟を売り込み、姻戚関係を笠に威張り散らしたといういやらしい性格を表すための演出なのですね。本当のところはどうだったのかは判りませんが、三十郎も「新選組始末記」を元とする小説のせいで、かなり不当な評価を受けている様に思えます。少なくとも田内の介錯のエピソードから来るような見かけ倒しの臆病者ではなく、かなり腕の立つ人物であった事は確かなようで、ちゃんと見直してあげたい隊士の一人ですね。

この項は、木村幸比古「新選組日記」(「浪士文久報国記事」)、新人物往来社「新選組資料集」(「新撰組始末記」)、「新選組銘々伝」、別冊歴史読本「新撰組の謎」、子母澤寛「新選組始末記」、司馬遼太郎「新選組血風録」を参照しています。


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2004.07.28

新選組!21の2

新選組! 第29回「長州を討て」その2

寺田屋の場面。うめく負傷者達と手当をする女将のお登勢。「男勝りのかなりの女丈夫という噂。」という山崎の説明を聞き、「おまえの姉さんを思い出すな。」と沖田に話しかける近藤。咳き込む沖田。それを聞いた山崎、土方に向かって「悪い咳ですね。」。「判るのか」「針医の息子でして、医学の心得は少々。」さすがに、新選組の医者と言うだけの事はあります。「斬られた時に出る血と、吐いた時に出る血とでは、色が違うか。」と聞く土方。「口から出た血の方が鮮やかな色をしています。」と山崎。どうやら、土方は気が付いた様ですね。

咳が出て思わず座り込んだ沖田の前に落ちてくる血染めの布。屋根の上にもまた一枚が。「会津藩お預かり新撰組である。御用改めである。主人は居るか。」と宣言したのは土方。出て来た番頭に向かって「長州の落ち武者を匿っているという事は無いだろうな。」と血染めの布を示す沖田と土方。そこに現れたお登勢。「いんど呉れやす!」と近藤と対峙し、「うちに駆け込んできやはったお方は、どなたはんでも匿います。それが、新選組はんでもな。」と嘯きます。「中を改めさせてもらうぞ。」と上がろうとする土方に「例え話や!」と一喝するお登勢。一瞬ひるむ土方。お登勢さん、なかなかの迫力です。「ではこれをどう申し開く。」と差し出された血染めの布をしげしげと眺め、「これは鼻血どすわ。」と白を切るお登勢。「鼻血を出しているものなど、どこにも居ないじゃないですか。」と詰め寄る沖田。進退窮まったかに見えましたが、そのとき丁度外から雷鳴のような音が聞こえて来ます。その音に気を取られて外を見る近藤達。その隙に番頭の鼻を叩いて鼻血を出させるお登勢。「佐吉、お前また鼻血が出ている。ほやからゆうたやないか。落花生の食べ過ぎやて。」それを見て「居たじゃないか、お前のお姉さんが。」と沖田に向かってささやく近藤。これって、近藤の婚礼の日に斉藤一を庇った時におみつが使った手と同じなんですね。お登勢の手の内を知りながら「それでは又来る。」と引き上げる近藤。お登勢の度胸と義侠心に免じたのでしょうか。なかなかの貫禄ぶりです。

舞台は蛤御門に移ります。燃えさかる京都の街を右往左往する民衆。蛤御門の前では会津藩と薩摩藩が陣取り長州藩と交戦していますが、どうにも長州藩の方が旗色が悪そうです。町中にある長州藩の陣営。多数の負傷者が運び込まれています。苦戦が続く中、苦悩する長州藩の首脳達。「考えがある。」と久坂。向かった先は、鷹司邸でした。長州贔屓の鷹司卿に嘆願し、帝に直接取り次いでもらおうと言うのですね。開け放たれた扉の前に捨助が現れます。こいつ、まだこんな所をウロウロしていたのか。

あちこちから火の手が上がる京都の町。伏見の陣にあった近藤は、「新選組はこれより御所に向かう。」と宣言します。ところが原田は、「ちょっと待て、仏光寺通はいいのかよ。」と見当違いな発言。原田はまさちゃんの店が心配だったのですね。「今は御所をお守りするのが先決だ。」と取り合わない近藤。「出陣だ!」という土方のかけ声と共に新選組の面々は出て行きます。しかし、原田は一人反対の方向に掛けだして行きます。「待ってろよ、おまさちゃん!」後で妻子思いと言われた原田の面目躍如ですね。でも、これって明白な戦線離脱ではないですか。無事に済む筈はないと思われるのですが。原田の行く手には、焼け出された多くの市民の姿がありました。親兄弟を亡くして泣き崩れる子供達。戦で酷い目に逢うのは、常に弱い者達なのですね。

近藤達の前に、長州勢が現れます。「長州だ。掛かれ!」近藤の命令の下、一斉に斬りかかる新選組。次々に相手を倒していきますが、鎧を着ている相手を刀で簡単に斬れる訳はないと思うのですが...。池田屋事件では、島田魁がサイボーグの様な強靱さで刀をはじき返していたのだけどなぁ。

原田の前に現れたおまさちゃん。煤で真っ黒に汚れ、いつもの快活な姿はどこにもありません。「燃えてしもうた。お店燃えてしもうた。」と崩れるおまさちゃんを抱きしめる原田。男の優しさが溢れていましたね。

鷹司邸に潜む怪しい人影。なんと捨助です。どこから持ってきたのか巨大なお椀を抱え、夢中で御飯を食べています。よほどお腹が空いていたのですね。御所に参内するという鷹司卿に縋り付く久坂。邪険に振り払う鷹司卿。「せめて帝にお取り次ぎを。」と食い下がる久坂。「どういう了見なんじゃ貴様、こないな騒ぎを起こしておいて、今さら取り次ぎなど出来る訳がない。」とどこまでも冷たい鷹司卿。「御所に向かって、銃を放つとはどういう事か。長州は朝敵となったのである。お上もお嘆きであらっしゃらいました。」久坂にとっては耐えられない言葉でした。久坂を見捨てて去っていく鷹司卿。「我らは我が殿を朝敵にしてしまった。」と久坂は寺島につぶやきます。「来島又兵衛が討たれた。」と注進してきたのは入江九一。久坂、寺島と共に松下村塾の仲間ですね。「入江、お前は生き延びて殿に事の次第を伝えてくれ。」と久坂は入江を逃がします。「全ては日本の為と思いここまでやって来た。いつ食い違ってしまったのか。」久坂の真情だったのでしょうね。久坂は、吉田松陰が最も期待を込めていた人物の一人で、数ある志士の中でも、至純な理想に燃えていた若者でした。やや策を弄し過ぎたきらいはありますが、第一級の人物だった事は間違いありません。彼の失敗は、あまりにも真っ正直に事に当たりすぎた事でしょうか。彼と双璧をなすと言われた高杉晋作は、危ないと思えば何度でも身を隠し、時が来るまで待つ事を知っていました。その点、久坂の場合は、沸騰する世論と真っ正面からぶつかり、それに巻き込まれる形で京都まで攻め上り、最後は自滅する羽目に陥ります。彼に高杉のような変幻さがあったらと悔やまれてなりません。明治後まで生かしておきたかった人物の一人ですね。

久坂に咎められ、縁の下から出て来た捨助。「怪しい者ではありません。」て、十分に怪しいのですが。何を思ったか久坂は、この怪しい捨助に切り取った髷を託します。「これを桂先生に届けてくれ。」一緒にいた寺島もこれに倣います。「命は大切にした方が。」と、捨助にしてはまともな発言。「これからどうなって行くのか、長州は、幕府は、日本は。我らの為してきた事は意味があったのか。私が生まれてきた事は。」本当に久坂は無念だった事でしょうね。ドラマでは描かれなかったですが、この後彼は寺島と刺し違えて亡くなっています。享年25歳。なんて若さだったのでしょう。

このドラマでは、長州藩が一方的に敗れたように描かれていましたが、実際には相当な善戦をしていました。伏見方面でこそ鎧袖一触で敗れていますが、その間隙を縫うように天竜寺から発した一軍は、途中で邪魔されることなく御所へたどり着きました。完全な不意打ちを食らった幕府軍は浮き足立ち、中立売御門、蛤御門、下立売御門が次々に破られ、一時は長州軍が御所内に突入しかねない状況になっていました。この時、会津候は、建礼門(南門)の前の御花畑(凝華洞)の仮陣屋にあって、寝返りも出来ないほどの重篤な病に掛かっていました。しかし、銃声を聞くや飛び起きて御所に参内し、帝の側にあって公卿の動揺を押さえる役目をしています。あまりの長州の勢いに、長州を許せという声が上がりかねない為でした。会津候に代わって全軍を指揮したのが一橋慶喜で、崩れ立つ会津兵や一橋兵を叱咤激励し、かろうじて戦線を支えていました。長州藩の先頭に立って奮戦していたのが来島又兵衛で、彼は戦国武将の再来と言われた猛将でした。彼は、天皇の御座所を目指して突き進みます。この戦況を変えたのが、薩摩軍です。薩摩軍は、京都藩邸から天竜寺に向かおうとしていたのですが、隙を撞かれて長州藩が御所へ達してしまったため、急遽御所へ駆けつけたのでした。指揮を執るのは西郷隆盛。西郷の軍は、乾御門から突入するや長州軍に襲いかかります。長州軍はこれを迎え撃ち、指揮を執る西郷を狙撃して脚を負傷させ、これを落馬させています。西郷は、荒れ狂う長州軍の中心は来島であると見抜き、これを狙撃させ、重傷を負った来島は自ら命を絶ちました。来島が亡くなった場所として伝えられる位置には「清水谷家の椋」と呼ばれる大樹が植わっているのですが、御所の内塀のすぐ外であり、あと少しの余裕があれば御所内に突入出来ていたかもしれないと思える近さです。来島を失った長州軍は崩れ立ち、敗走を始めます。久坂達の軍が堺町御門に到着したのは、この直後でした。例えるなら蜂の巣をつついた後に飛び込んできた様なもので、この軍はたちまちの内に苦戦に陥ります。彼等は、堺町御門の右手にあった鷹司邸に入り込み、あたかも籠城戦のようにして戦います。久坂が鷹司卿に嘆願したのはドラマのとおりで、実際にはあんなに静かな訳はなく、矢玉が邸内に飛び交っていたと言います。久坂が逃げろと言った入江九一ですが、邸を出た所で敵に包囲され、槍で一突きにされて亡くなっています。包囲していた幕府軍は、鷹司邸に火を放ち、中に居た多くの長州兵が討たれました。

京都の大半を焼いた火は、逃走する長州兵が付けていったと長くされていましたが、実際に民家に火を放ったのは幕府軍の方だった様です。長州藩も京都藩邸を焼いていますが、残敵掃討のために幕府方が民家に火を放った事が「浪士文久報国記事」に書かれています。焼失家屋27517軒、死者、負傷者数知れずと言われたこの火事は、「どんどん(大砲の音)焼け」、「鉄砲焼け」として、長く記憶される事になります。

御所で、戦勝の報告をする会津候。「我にはどうも判らぬ。あの者たちは、何がしたかったのじゃ。」と孝明帝。この言葉で判るように、孝明帝個人としては、八・一八の政変以前の長州藩の策謀を嫌い抜いており、幕府を頼り、特に会津候を信頼されていたのでした。その点、「誠を持ってすれば帝に真意は届く。」と可憐なまでの純粋さで天皇を信じていた長州藩は、言ってみれば一方的な片思いで、哀れささえ感じてしまいますね。

佐々木只三郎から大島吉之助(西郷隆盛)を紹介された近藤が、指示を仰ぎに大島の下を訪ねます。足を怪我している大島。ちゃんと史実どおりの設定ですね。なかなかに大人物らしい風貌です。「この度は、皆さん方の働きのおかげで、無事長州の連中を蹴散らす事が出来もした。ありがとうございもした。」事実上、薩摩藩が最大の働きをしたにもかかわらず、大将らしく謙虚な大島。それを聞く近藤は、なんの手柄も立てておらず肩身が狭そうです。天王山に残敵がいる事を聞かされた近藤は、新選組が追討する事を願い出、聞き届けられます。「近藤さん、新選組にはこいからもお世話になり申す。」と別れ際に西郷。単なるあいさつなのか、これからの駆け引きを暗示しているのか。

実際に天王山に向かったのは、新選組だけではなく、会津藩と一緒であり、会津藩の方が主力だった様です。薩摩藩は天竜寺へ向かい、会津藩より早くに戦果を上げていました。あせりを感じた会津藩は、新選組を大斥候として派遣し、天王山の様子を探らせた様です。その結果、大半の兵力は逃げてしまっており、山頂付近にわずかな残党が居るらしい事が判りました。新選組は山下を固める組と山上に向かう組の二手に分かれ、近藤が山上に向かう組を率いて山を登っています。無論、この時は会津藩と一緒でした。山上に達した時には長州軍が全て自害していたのは、ドラマにあったとおりです。ドラマでただ一人生きていた真木和泉については、近藤勇と名乗り合った後、自陣に戻って自害したと「浪士文久報国記事」にはあります。

焼け残った町で桂を探す捨助。両手に髷を持って探しているあたりは健気ですが、「なんでこんな事しなけりゃなんねえんだよ。」と文句たらたらなのはこの男らしいですね。とある民家の中に桂の姿がありました。旅装している所を見ると、京都を脱出するつもりの様です。「うちは、どないしたらよろしいんですか。」と困惑を隠せない幾松。「ここで私からの連絡を待て。しかし、くそっ、京の様子を伝えてくれるものが欲しい。私の目と耳となってくれる者が。」「私がなります。」「お前にそんな危ない事は頼めん。」そこへ入ってくる捨助。預かった髷を桂に渡し、珍しくさっさと帰ろうとします。「待て、この人は私の命の恩人なんだ。」と桂。婚礼の日の事を思い出し、捨助が近藤の縁者である事を確かめた桂は、「君は近藤君から池田屋の事を聞き、それで前もって私の所に来て、わざと膳をひっくり返し、私を一度藩邸に戻らせ、新選組の襲撃から私を救った。」と礼を言います。あのう、それって「大誤解」なんですけど。しかし、捨助は「とんでもない。」とすっとぼけます。「なぜ助けた。」「俺はね、近藤勇と新選組というやつが大嫌いでね、それだけの事ですよ。」とこれは自分に冷たい近藤や土方に対する本音でしょうか。ますます誤解を深めた桂は、なんと捨助に間者にならないかと誘います。「命を救ってくれたお礼に、仕事を頼みたい。」と桂。お礼って、さっき幾松にそんな危ない事はさせられないと言ったばかりではないですか。「適当な人を捜していたのだが、なかなか見つからなくてね。」と桂。要するにこの際誰でも良かったのですね。「長州と縁がなく、しかし我らと思いを同じくし、たぐいまれな勇気を持った人物。」そう言って捨助をじっと見つめます。桂というのは、人たらしでもあったのですね。「俺?」という感じで自分を指さす捨助。確かに長州とは縁がなく、新選組が嫌いという点では一致していますが、どこに勇気があると言うのかな...。「長州と日本の未来は、捨助さん、あなたに掛かっている。」と最後の決め文句を言って捨助をその気にさせてしまいます。これまでも、こうやって何人もの間者を作ってきたのでしょうね。桂ほどの大物にここまで言われれば、捨助ならずともその気になってしまった事でしょう。これから捨助はどうなるのかな。見方によっては、どこからどう見てもまさか間者とは思えず、案外適任なのかも知れませんが...。

蛤御門の変の際の桂の行動は、謎に満ちています。その手記に当日の行動が詳しく書かれていますが、不可解な点が多くそのまま信用する事は出来ないようです。その手記によると、事変の前夜、桂は同志80人を連れて鳥取藩邸に居たとあります。鳥取藩には、桂と同調してくれる有志が居たのですね。彼は有栖川宮に働きかける事によって、最後の形勢逆転のチャンスを伺っていました。しかし、夜が明け、戦争が始まると鳥取藩は幕府軍の一員として出陣し、敵対関係になってしまった桂は居所を失ったため藩邸を出て、堺町御門へと向かいます。そこで天皇が鴨神社へ避難するという事を聞き、直接天皇に訴える為に鴨神社へと赴きます。しかし、待つこと数時間、天皇は来ることなく、ますます戦況は激しくなり、部下達は戦いに馳せ参じようと言いますが結論は出ず、さらに数時間が経過し、遂に部下達を戦場へ向かわせ、自らは天皇が来るのを待つことにします。しかし、やがて待つことを諦め堺町御門まで来ると鷹司邸に火が上がり、長州藩が敗れた後でした。さらに朔平門のあたりまで行き、天皇の動座がないことを聞き、夜に乗じて天王山に向かいますが、そこも既に味方が逃げ去った後と知り、京都へ舞い戻ったとあります。この中で不可解なのは、まず天皇の動座があると聞き、鴨神社で待っていたという点です。そもそも、御所周辺は幕府軍が固めていたはずで、手勢を引き連れた桂が無事に通過出来たというのが不自然です。また、目の前で激戦が行われている中で、何時間もの間何もせず、ひたすら待っていたというのも理解に苦しみます。さらに、堺町御門に引き返し、そこから朔平門に至ったとありますが、この頃はそれこそ幕府軍が充満していたはずで、とても桂が近づけたはずがありません。まして九門内にある朔平門にたどり着けるはずもなく、かなりの脚色が施されていると考えるよりない様です。どうやら、最後まで外交努力を惜しまずに各藩の間を走り回っていたのだが、そのうちに戦争が終わってしまい、身を隠すよりほか無かったというのが実情だったのではないでしょうか。桂はこの後、一時三条大橋の下の難民の群れの中に姿を隠し、その後つてを伝って出石に潜伏することになります。

天王山へ向かった新選組。陣屋へ踏み込みますが、既に死屍累々といった有様でした。「戦う手間が省けたな。」と土方。しかし、ただ一人真木和泉の姿だけがありました。「わしらが正しいか、お前達が正しいか、それはいずれ時代が明らかにしてくれる。その目でしっかりと見届けよ。」そう言い放った真木は、凄絶に立ち腹を切って果てました。「これで終わったな、長州は。」と土方。確かに長州はこの後存亡の危機に立たされます。まず、四国連合艦隊による下関砲撃を受け、さらに幕府による長州征伐を受ける事になります。まさに袋だたきに合う訳ですが、そこから再び立ち上がってくる強さが長州藩にはありました。

浮かぬ顔の近藤。「嬉しそうじゃないな。」と土方。「あれだけ守ると誓った京の町を焼いてしまった。」と近藤。「俺たちにはどうする事も出来なかった。やるだけの事はやった。」と土方。確かに新選組の力でどうこう出来るような戦ではありませんでした。これだけの規模の戦になると新選組はただの一部隊に過ぎず、戦局を動かすような働きが出来るはずもなかったのです。「俺たちのやった事は間違っていなかったのか。」とまだ迷いの残る近藤。「いよいよだぜ、これから俺たちの時代がやって来る。」と土方。その土方の言葉どおり、幕府は一時的に勢威を取り戻し、新選組も最盛期を迎える事になります。隊士も増え、京都の治安を守るということにおいては、最も充実した時期だったかも知れません。

この項は、木村幸比古「新選組日記」(「浪士文久報国記事」)「新選組と沖田総司」、新人物往来社「新選組資料集」(「史談会速記録)、別冊歴史読本「新撰組の謎」、永倉新八「新撰組顛末記」、司馬遼太郎「龍馬がいく」、「歴史の中の日本」、邦光史郎「幕末創世記」、学研「幕末京都」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」を参照しています。


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2004.07.27

新選組!21

新選組! 第29回「長州を討て」

冒頭、天王山の長州陣。甲冑に身を包んだ久坂玄瑞と真木和泉。続いて、会津候の前で意見を交わす近藤と佐久間象山。「なぜ、長州は攻めて来ないのでしょうか。」と近藤。「おそらく朝廷に掛け合っているのです。」と会津藩士。
長州勢が京都周辺に着陣したのは1864年(元治元年)6月24日頃。蛤御門の変は7月19日ですから、1ヶ月近く間があった事になります。この間、長州藩は朝廷に対して猛烈な陳情攻勢を行っていました。この陳情は長州系の公卿を動かし、一時は武力で対決するより長州候を京都に呼んではどうかという意見まで出るに至りました。また、桂小五郎も外交の手腕を発揮し、長州に同情的な藩を回って長州藩への協力を要請していました。この動きに牽制され、幕府の最高責任者である一橋慶喜は決定的な決断を下す事が出来なかったと言います。この動きを破ったのが西郷隆盛でした。彼は、長州に反感を抱いている11の藩の重臣、留守居役などを集め、「もし、長州征伐に反対なら、薩摩一藩でもこれを行う。追討令がかくも遅れるとは血涙を呑む程残念。」というすさまじい演説を行います。西郷は、これに同調した土佐藩、宇和島藩と三藩合同で「この際長州を討たざれば、後顧の憂い、百年にのこる。」という上奏を行います。これを「西郷の血涙会議」と呼びますが、この上奏の結果朝廷及び幕府が武力討伐へと踏み切る事となり、長州藩を追い込む事になりました。

「長州は何がしたいのか。」と会津候。「8月18日以前の状態に戻したいのでしょう。」「帝がお許しになる筈が無いではないか。」この会津候の言葉は、正鵠を得ていた様です。孝明帝は長州の過激主義を嫌い、一橋慶喜に対して長州を京都に入れてはならないという宸翰を下しています。

「帝を彦根に移してはどうか。」と佐久間象山。この彦根還幸案が尊攘過激派に漏れた事が、象山の命取りになりました。元々、象山は公武合体派としてまた開国主義者として尊攘過激派から狙われており、またこの頃、象山の寓居が池田屋に近かった事から、池田屋事件は象山が手引きして起こったという噂が広まっていました。前回のドラマで桂が象山に合って機密事項であるはずのはかり事を話したのは、このエピソードが下敷きになっていたのですね。そこに加えて、この彦根還幸案は、天皇を幕府に独占され、もはや手出しが出来なくなると尊攘過激派のあせりと怒りを誘ったようです。

「警護の者を増やしてはどうか。」と近藤。「人にはな、天命というものがある。死ぬときは死ぬ。」と象山。白い愛馬「王庭」に跨り、都大路を行く象山。小さな馬ですが、当時の馬はあの位の大きさだったのですね。それにしても、丁度良い大きさの白馬をよく見つけて来たものです。「私達のしている事が、日本の為に、京の人々の為になっているのか判らなくなってくる。」と近藤。「そんな事は誰にも判らない。国を思う誠の心があるならば迷う事はない。」と象山。これは、新選組のあり方を象徴しているかのような言葉です。結果として、新選組は幕府が敗れた事によって朝敵となり、明治以後は国賊扱いとされてしまいます。また歴史的評価としても、新選組の存在は百害あって一益なしとか、歴史に咲いた徒花とか散々な言われ方をしたりします。しかし、当時の近藤達は、一途に国を思い京都の秩序を守らんとして隊務に励んでいたのでした。その純粋さこそが新選組の魅力なのですよね。

足が痛いと座り込んでしまう捨助。そこに近づいてくる一人の浪士。「佐久間象山先生か。」「うーん?」と振り向いた所を背中から斬りつけられます。警護しているはずの捨助は、座り込んだまま騒いでいるばかり。本当に役に立たないヤツだ。とどめを刺しに近づいて来た浪士に象山が言います。「馬鹿者め。名は何という。」「何でも良かろう、おまえは死ぬのだ。」「儂を殺した男の名前だ。是非知っておきたい。」と象山。とまどう浪士。「彦斎。河上彦斎。」「かわは三本「川」の方か、それともさんずいの方か。」としつこく聞く象山。さらにとまどう彦斎。絞り出すように「さんずいの方だ!」。完爾と笑って刺される象山。なんとも凄まじい最期でしたが、象山の人間の大きさを良く表した演出だと思います。象山を殺したのは、ドラマの様に一人ではなく、10人近い人数が居たとされます。河上彦斎もその中の一人でした。彦斎は肥後の人で、茶坊主上がりの志士とされます。清河八郎とも交際があり、かなりの教養の持ち主であったそうです。京都では、岡田以蔵、田中新兵衛らと並ぶ人斬りとして知られ、この前後かなりの数の暗殺を行ったとされています。その彦斎が象山を斬った後、言いしれぬ自己嫌悪に陥り、その後人斬りを止めたと言われます。司馬遼太郎の表現を借りれば、「斬った瞬間、斬ったはずの象山から異様な人間的迫力が殺到してきて身がすくみ、このあとも心が萎えた」(歴史の中の日本「武市半平太」)のでした。このシーンは、こうしたエピソードを表現していたのでしょうね。彦斎は、この後肥後藩にあって藩庁書記・軍事掛として活動し、明治後まで生き続けますが、開国主義に走った新政府に反発して野に下り、反政府的な行動をとがめられ、最後は斬首されるに至ります。

天王山の長州陣を訪ねる桂小五郎。「こんな事をしてどうなる。わが殿を朝敵としても良いのか。」「もう決めた事です。我々は朝廷に弓を引くのではない。敵は会津と薩摩、そして新選組!池田屋の恨みを晴らすのだ!」と久坂玄瑞。桂は徹頭徹尾、京都への進発には反対でした。では、久坂はどうだったかというと、やや微妙な所があります。基本的には久坂も桂と同じく反対の立場でした。しかし、国元にあって進発強行派の来島又平衛と会うと世子進発を進言してみたり、またそれを取り消してみたりと右往左往していた様子が伺えます。京都にあっては、もはや陳情の望みが絶たれたという段階になって最後の軍議が開かれたのですが、久坂は自重論を説き、大阪へ退く事を主張します。しかし、軍議は来島又兵衛の強硬論に押され、最後は真木和泉が苦渋の決断を下して京都侵攻が決まったのでした。このドラマでは久坂が猪突猛進して長州藩を誤らせたように描かれていましたが、決してそうではなく、沸騰した国元の世論を押さえる事が出来ず、それを代表する来島に引きずられるように京都に来てしまったというのが実情だったようです。「残された道は、帝に直に嘆願書を渡し、汚名を晴らすのみ。誠を持ってすれば思いは通ずる。」この久坂の言葉は、追いつめられた長州藩の最後の思いでもありました。

場面は変わって、新選組の屯所。土嚢が積まれ、槍を持った門番が居て臨戦態勢に入っている事が判ります。中庭で槍の稽古を付けているのは藤堂平助。なよなよしていた彼が、見違えるように厳しく指揮を執っています。池田屋の一件で自信を付けたのでしょうか。いよいよ、魁先生らしくなって来ました。「あの、ほんまに長州は攻めてくるのですか。」とひで。「今日か明日かと私は踏んでいます。」と山南総長。さすがに戦況を良く見てますね。彼は今回も屯所を守る役目に就いているのですね。山南は「浪士文久報国記事」では「病気に付き引きこもり居り」とあり、「新撰組顛末記」にはその名は見あたりません。このことから、蛤御門の戦には参戦していなかったと考えられており、このドラマでは池田屋事件の時と同じく留守部隊に配置して史実と辻褄を合わせているのですね。

訓練中にへたり込んで平助から叱責を受ける浅野と葛山。「私達は監察方なので。」「敵がそんな言い訳でみのがしてくれると思っているのか。」と手厳しい平助。水をぶっかけられて訓練を再開する浅野達。葛山については判りませんが、浅野については「浪士文久報国記事」に天王山へ攻めていった時に「軍事方」として武田観柳斎と共に従軍していたとあり、実際には近藤の幕下にあったものと思われます。

銭取橋の新選組陣地。「我らの先には、彦根藩と大垣藩が陣を張っております。」と武田観柳斎。ただ、扇子で指している位置が先の南ではなく北の京都市内なんですけど...。「我らももっと前に出たいところだな。」と近藤。「構う事はねえ。戦が始まったら前に出て行きゃ良いんだ。」と土方。周平と名を改めた昌武。永倉が剣術、原田が槍、松原が柔術、そしてそろばんが河合と豪華な先生陣が出来てしまいます。あまり有り難そうでもない周平。ここで注目は河合。彼も浅野と同じく剣術は全然駄目という設定ですが、浅野と違ってしっかり仲間に溶け込んでいる様子が伺えます。このあたり、後に失策を犯してもかなりの温情を掛けてもらったという河合の人柄が出ていますね。

医者の下を訪れている沖田。「本当に労咳なんですか。だって今は何ともないんですよ。」と沖田。「何ともない人間が丼一杯の血を吐くか。」と孝庵先生。沖田の顔色が悪いですね。「何で私が。」「そりゃ、わしに聞くな。」「治して下さいよ。だってあんた治すのが仕事だろ。」と態度の悪い沖田。不治の病と宣言されたショックを、どうにかしてまぎらそうとしているのでしょうか。「滋養のあるものを食べて静養しているよりない。」「そんなの無理だよ。」「ほたら、わしは知らん。」「この藪医者!」とどこまでも失礼な沖田。「死ぬんですか、私は。」一番気がかりな事を聞く沖田。「人はいつかは死ぬ。全てはおまはん次第じゃ。」と孝庵。気休めを言う事なく真実を伝え、それでいて親身になっている様子が伺えて、孝庵はなかなか良い医者ですね。

再び、新選組の陣地。近藤の前に武田と土方の二人。「違う!」と遠慮なく指摘する武田。思わず顔を上げる土方。武田に対する土方の感情が悪い方向に向かっていく暗示でしょうか。それを気遣ってか「先へ進めてくれ。」と近藤。小芝居ですが、なかなか意味深な場面でした。そこへ入ってくる沖田。「もう大丈夫です。」と沖田。「心配かけやがって、この馬鹿野郎。」と抱きつく井上。やっぱり、良いおじさんですね。事情を知っている永倉と原田が沖田を連れて行きます。気遣わしげに見送る土方。「医者はなんと言っている。」と永倉。「別になんでもないですよ。」と沖田。「じゃ、もう平気なんだな。俺、胸なで下ろしちゃうぞ。」と単純な原田。しかし、永倉は信用していない様子。「血を吐いた事は、近藤さんと土方さんには内緒にして下さい。心配掛けたくないから。」と沖田。沖田がこの戦いに参戦していたかについては、意見が分かれている様です。「浪士文久報国記事」では「病気に付き引きこもり居り」とあり、参戦していない事になっています。一方「新撰組顛末記」では甲冑に身を固め、参戦していた事になっています。また、西村兼文の「元治甲子戦争記」には参戦していた旨が書かれており、どちらを取るのか難しいところですね。また、池田屋で倒れてから時間があまり経っておらず、果たして体力が戻っていたのか疑問視する向きもある様です。

夜になって、長州軍が動き出します。これに呼応するように御所周辺でも動きが慌ただしくなってきます。兵士に起こされる乞食?よく見ると、象山が殺された現場から逃げ出した捨助でした。「ここはなんていう所?」「蛤御門だ。」さりげなく場所の設定を説明してくれます。「蛤食べたいな~。」とあくまで戦とは無縁な捨助。むしろを持った姿が哀れです。

天王山で動きがありましたという報に接して、出陣する新選組。京の町を走る姿が格好良いですね。しかし、現場に駆けつけた時には、戦が終わって累々たる死体が転がっているだけでした。実際にも、新選組が居た伏見方面の戦いは、あっという間にけりが付いた様です。この方面に居た長州兵は、福原越後に率いられた上士を中心にした選鋒隊でした。この選鋒隊は、長州藩の中でも弱兵として知られ、守っていた大垣藩から一撃を食らうやたちまちにして混乱に陥り、潰走してしまった様です。このとき、大垣藩を指揮していたのが小原鉄心で、幕末期の大垣藩を立て直し、軍を洋式化して幕府軍の中でも最強と言われる程にした名将でした。幕府は、上士を中心にしたこの伏見の軍を長州藩の主力と見て最も重視しており、幕府軍の主力をこの方面に集中させていたのでした。

今回も長くなったので、この続きは明日アップします。


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2004.07.23

梅酒 途中経過1ヶ月目

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梅酒を仕込んで1ヶ月が経過しました。現在の状況は写真のとおりで、梅は浮いたままですが、氷砂糖が8分がた溶けています。梅の成分が出ているのか、瓶の上部はやや色が変わっていますね。もっと混ぜた方が良いのでしょうか。梅シロップと違って、完成までにはまだ時間が掛かりそうです。

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2004.07.20

新選組!20の3

まず、冒頭でお詫びと訂正です。
昨日アップした新選組!20の2の中で、望月亀弥太の最期について誤った記述をしていました。最初アップしたときに「土佐藩邸に向かう途中で角倉邸の角で力尽きた」と書いてしまったのですが、これは「長州藩邸に向かう途中で角倉邸の角で力尽きた」が正解です。土佐藩邸跡と同じ場所に角倉了以顕彰碑というのがあるのですが、これと邸宅跡を混同してしまったのが原因です。実際の角倉邸跡は二条にあり、正反対の方向に走らせてしまいました。朝になってから誤りに気付いたので本文の方は出勤前に訂正しておいたてのですが、それ以前に70名程の方が拙文をご覧になって下さっていた様です。ここに改めてお詫びして訂正させて頂きます。

さて、本日のマイナー隊士の紹介は、浅野薫です。ドラマでは、中村俊太がどこかミステリアスな役柄を演じていますね。池田屋ではせっかく近藤隊に志願しながら、物陰でがたがたと震えている情けない姿をさらしていました。なぜこんなキャラクター設定になっているかというと、それなりに理由があるからです。

浅野薫については資料が少なく、謎の多い隊士です。現在彼について判っている事績の多くは「史談会速記録」に記録されている元御陵衛士阿部十郎の談話に依るもので、そこでは浅野の出自を備前であるとして「かなり学問もございまするし、手もよく書きます。剣術もちょっと使います。」と語っています。また、日を改めた談話では「医者が本業」とも話しています。

生年不詳、入隊時期も不詳と判らない事だらけなのですが、彼の活動が最初に記録されているのが「島田魁日記」で、1864年(元治元年)5月頃の事として、古高俊太郎について「当組島田、浅野、山崎、川島是ヲ探索シ、会津候ヘ達ス」とあり、諸士調役兼観察として活躍していた事が窺われます。当時は浅野藤太郎と名乗り、ドラマにあるように池田屋事件では近藤隊に属して参戦したと考えられています。彼は報奨金として隊士としては最高の20両を受け取っており、また真偽は判りませんが、彼の刀は討ち入り後左に曲がっていたとも言われ、ドラマと違って相当の活躍をしたと考えられます。永倉新八の「同志連名記」には副長助勤とあり、この時の功で昇進したのかも知れません。

浅野は池田屋事件の直後、6月10日に起こった明保野亭事件で犠牲となった柴司の葬儀に土方、井上、武田、河合らと共に参列し、弔歌を詠んでいます。このことから、もしかすると明保野亭事件にも係わっていたのではないかと推察する説もありますが、定かではありません。ただ、この事件の直後に薫と名を改めているようです。

7月19日に起こった禁門の変では、浅野は軍事方として出動したと「浪士文久報国記事」にはあります。天王山の残党を撃つために出動した新選組は、近藤の隊が敵を求めて山上へと駆け上り、土方の隊が山下を固めました。浅野は、武田観柳斎と共にこの土方隊に属し、おそらくは参謀の様な働きをしていたものと考えられています。これは相当な出世と言って良く、阿部の回顧録にも「近藤はこれを非常に用いていた」とあり、当初から優秀な人材として買われていた事が伺えます。

9月23日、浅野は土方と共に松代藩士北沢正誠の元を訪れています。これは、当時新選組で預かっていた佐久間象山の息子、三浦敬之助の松代藩への帰参を打診するためでした。佐久間象山は、禁門の変に先立つ7月11日に京都木屋町で暗殺されたのですが、そのとき背中に傷を受けた事を理由に佐久間家は松代藩によって断絶とされてしまいます。その子三浦敬之助は父の敵を討つ為に、勝海舟の紹介で新選組に客員として迎えられていました。ところが、京都所司代であった松平定敬の松代藩への働きかけで、佐久間家の復活と敬之助の帰藩の動きが出て来ます。土方、浅野が北沢を訪ねたのには、こうした背景がありました。二人の意を受け三浦の説得に乗り出した北沢でしたが、当の敬之助は断固としてこれを拒否し、新選組への残留を選んでいます。

この後、理由は判らないのですが、浅野に関する同時代の記録は途絶えてしまいます。11月頃に作成された「行軍録」や翌年の組織改編に浅野の名前はなく、忽然と姿を消してしまったかの様です。しかし、死亡あるいは脱走したのかというとそうでもなさそうで、後年の資料からこの後も新選組に居た事が伺われます。

これ以後の浅野の事績は、まず冒頭に紹介した阿部十郎の回顧録に出て来ます。そこには、伊東甲子太郎が加入した頃と言いますから、1865年(慶応元年)初頭に阿部の下を浅野が訪れたとあります。この頃阿部は新選組から脱走して大阪に潜伏していました。浅野は近藤と共に大阪へ下ってきたのですが、阿部に向かって、「今度入った伊東甲子太郎という人は非常に優れた人物で、この人が居れば新選組に戻っても大丈夫だ。」と言って帰参を勧めます。阿部はこの助言に従って新選組に帰ったのですが、浅野と阿部は「かねて意を共にした」とありますから、以前から二人は懇意だった事が伺えます。

次に浅野が登場するのは、西村兼文の「新撰組始末記」においてです。1866年(慶応2年)9月、京都三条大橋で制札事件が起こります。幕府が出した長州藩を非難する制札を何者かが抜き去るという事件が頻発し、これを重視した幕府は、新選組にその取り締まりを命じます。新選組では、原田佐之助、新井忠雄ら20名を派遣し、大橋の東西に潜ませ、下手人が現れるのを待ちました。このとき、浅野は橋本会助と共に乞食に扮して橋上で待機し、犯人が現れた時はそれぞれ待機している隊士の下へ知らせに走る事になっていました。果たして、土佐藩士ら8名が現れ、制札に手をかけます。これを見た橋本は、難なく下手人の背後を通って西詰めの仲間へ連絡を付けました。ところが浅野は恐れをなし、犯人達の近くを通る事が出来ずに河原へ降りて川の中を通って行ったため連絡が遅れ、東詰の隊士は戦闘に遅れる事になったと言います。新撰組始末記では、この後「東詰の隊士達が大いに憤り、浅野は卑怯の名を得て、後日放逐される。」とあり、この記述から浅野=臆病者という図式が生まれたのでした。ドラマの浅野も、このエピソードを踏襲しているものと思われます。

ところが、この記述をゆるがす資料が土佐側にありました。中城惇五郎という人の書簡に当日の様子が記載されているのですが、そこには、「制札を引き抜こうとしたところ、橋の下に二人居て、河原を南へ走り行き」とあります。つまり、この二人が橋本と浅野だとすると、二人とも河原を迂回して通報した事になり、浅野だけが臆してしまったという事にはなりそうにもありません。ちなみに、「浪士文久報国記事」には、二人の探索役は出て来ません。軍事方まで勤めた浅野がただの見張役をするというのも不自然で、「新撰組始末記」の記述には疑問がつきまといます。

浅野の最期については、いくつかの記述が見られます。まず、永倉新八の「同志連名記」では、浅野を広島浪士とした上で、島原で斬首としています。次に「新撰組始末記」では、「浅野は(勝手に金策を行った事が発覚したため)沖田総司により葛野郡川勝村で斬られた。」となっています。そして、阿部十郎の談話では、「伊東甲子太郎が御陵衛士として分離したあと浅野も脱走し、伊東を頼ってきます。しかし、新選組との約束で新選組からの脱走者は受け入れる事が出来なかったため、これを山科に匿い、土佐へ落とす算段をしていました。ところがその途中で浅野は近藤を説き伏せる積もりで出かけたが近藤が不在で、沖田総司が桂川へ行って斬ってしまいました。」と語っています。

この中では、当事者であったとする阿部十郎の説が最も信頼できるものと思われます。しかし、なぜ浅野は新選組を脱退したのか、また危険を冒してまで近藤の下を訪ねていったのかは不明で、やはり謎は残ります。

この浅野薫をモデルにした小説が「新選組血風録」の「胡沙笛を吹く武士」で、鹿内薫という名で登場します。この小説はもう一人吉村貫一郎もモデルにしている様ですが、元は勇敢な隊士であった鹿内が、妻を娶り、子をなしていくうちに臆病となり、三条制札事件で決定的なしくじりを犯し、土方によって粛清されるという最期を迎えます。この小説では、池田屋において鹿内は敵を避けて戦わなかった様子が描かれており、ドラマはむしろこの鹿内をモデルにしているのかも知れませんね。

一度は幹部として重用されながら、最期は脱走して斬られてしまった浅野薫。不可解な面が多い隊士ですが、少なくとも臆病者のレッテルは剥がしてやりたい気がします。

この項は、木村幸比古「新選組日記」(「浪士文久報国記事」「島田魁日記」)、新人物往来社「新選組資料集」(「史談会速記録」「新撰組始末記」)、「新選組銘々伝」、別冊歴史読本「新撰組の謎」、永倉新八「新撰組顛末記」、司馬遼太郎「新選組血風録」を参照しています。

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2004.07.19

新選組!20の2

新選組!第28回「そして池田屋へ」 その2

祇園会所から御用改めの開始です。ここで、さりげなく新しい説が登場していましたね。池田屋事件については、従来の山崎蒸が先に潜入していたという説は否定され、このドラマの様に二手に分かれて一方は木屋町、一方は祇園の茶屋や旅館の御用改めを行っていったという説が有力視されているのですが、その中でも片端から当たっていくローラー作戦を展開していたとする説が普通ではないかと思われます。ところが、このドラマでは、いくつかの有力な拠点を選び、そこを重点的に当たっていくという説を採っていました。
この祇園会所から池田屋に至るまでの御用改めについては、「浪士文久報国記事」にある「祇園会所から祇園一帯、鴨東から三条へと探索して行く中で池田屋が怪しいという情報を得た」という記載のほか、「孝明天皇記第五」に「5日夜六ツ半頃に壬生浪士(新選組と唱える)が20名程で祇園町越房という茶屋に探索に来た。」という記事や「11時半頃、祇園井筒という茶屋に新選組が探索に来た。」という記事がある事、「甲子雑録」に「四条祇園町建仁寺上がるの嶋村屋へ壬生浪士が探索に来た。」という記事がある事から確からしいと考えられています。しかし、従来のようにローラー作戦で一軒一軒当たっていったとするとあまりにも数が多すぎて時間が足りないと考えられる事から、あらかじめ候補を絞っていたという今回の説は合理的で頷けるものがありますね。「新選組 with ほぼ日TVガイド」の中でも触れられていますので、参考にして下さい。

さて、御用改めのシーン。旅館の店先で新選組隊士が「御用改めである」と叫びますが、裸の子供がはしゃぎ回り、それを親が追いかけるというほのぼのとしたシーンが展開され、新選組は全く無視されてしまいます。何軒目かには河合が「これってたまんないなあ、もう」と泣きを入れますが、この頃の新選組は全く知名度が無かったこと、一般市民にとっては祭りこそ重要で、過激派攘夷集団の存在はどこか浮き世離れした話として捉えられていたという事を表しているのでしょうか。

池田屋で新選組屯所に斬り込む事を宣言した宮部鼎蔵。実際にこの夜決められた事として伝わっている内容としては次の様なものです。(「維新土佐勤王史」にあるそうですが、残念ながら私は原本を知りません。ここでは、司馬遼太郎「龍馬が行く」を参照しています。)
「前策」として新選組屯所に斬り込み、焼き討ちをもって隊士を皆殺にし、御所に駆けつけて伝奏に会い、勅命を頂戴して長州軍を京に入れる。
「後策」として、反長州公卿を討ち取って朝廷の主導権を長州派公卿に握らせ、一同切腹する。
切腹がやや猶予できるとすれば「余策」として反長州派の中川宮を幽閉し、一橋慶喜を大阪へ追いやり、会津藩を退けて長州候を京都守護職に任命し、朝議を攘夷に一決せしめる。
この挙に加わる予定の同志が何人居たのかは判りませんが、どう考えても無理のある計画で実現不可能だったと思われますが、真っ先に新選組を襲う事を計画しており、相当な敵意を抱いていた事が伺われます。しかし、結果として長州軍の上京を促し、禁門の変を引き起こした事を考えると前策の後半部分は実現出来た訳で、必ずしもこの計画が失敗だったとは言い切れないかも知れません。

いよいよ池田屋への斬り込みです。「主人はいるか。御用改めである。」と宣言したのは藤堂平助。沖田が一階にあった武器を見つけ、さらに奥へ走る主人を見つけて近藤が後を付けます。このあたりはほぼ「浪士文久報国記事」の記述に沿っていますね。二階では灯りを消して待ち受ける浪士達。緊迫した描写が見事です。扉を開けて中を見た近藤は一旦扉を閉め、付いてきていた昌武に「当たりだ。土方に知らせろ。」と告げます。このあたりの緩急の呼吸も良いですね。また昌武をこの場から去らせる事によって、多くの小説に描かれている「倅周平」の醜態から救ってやっています。

扉が開いて浪士達が出てきます。「御用改めである。手向かいすれば容赦なく斬り捨てる!」近藤が歴史の表舞台に飛び出した瞬間でした。同時に、攘夷集団を目指していた新選組が、佐幕派の警察集団として後戻り出来なくなった瞬間でもありました。最初に斬りかかって来たのが、望月亀弥太。敵と言いながらもどこかほのぼのとした関係だったのに、もはや抜き差しならぬ敵対関係に入った事を象徴しています。気配を察した永倉、沖田達も戦闘に参加。
池田屋は一気に修羅場と化します。お約束の階段落ちも出て来ました。これはやっぱり入れなきゃいけないのですかね。ほとんどの新選組映画では、玄関に待ちかまえる近藤が居て、声を聞いた北添佶麿が何気なく顔を出す。そこへ近藤が一気に階段を駆け上って一刀の下に斬り捨て、北添は頭から階段を転げ落ちる、というシーンが繰り広げられてきました。このドラマでは、極力史実を元に殺陣を繰り広げるという事だったのでこれは無いと思っていたのですが、やはり入れないと収まりがつかないのでしょうか。

植え込みに隠れて震えていたのは浅野薫。斬り込みに志願しておきながら、やはり恐くなってしまったのでしょうね。早くも彼の末路を暗示しているかのようです。

土方隊と出会った昌武。池田屋ならこっちが早いと斉藤一。京都暮らしが長い事を物語っています。「松原達にも知らせてくれ。」と昌武に言ったのは井上源三郎。永倉新八の手記「七ケ所手負場所顕ス」に「井上源三郎が10人の同志を率いて池田屋に入り8人の浪士を捕らえた。」という記述があり、これから土方隊とは別に井上が別働隊を率いていたとする説があります。これを松原隊に変えたのは、昌武に優しく指示を出すのは井上が相応しいという配慮からだったのでしょうか。

騒ぎを取り巻く市民に混じって、イカを食べている捨助の姿。なんでイカばっかり出てくるのでしょうね。昔から、祭りの屋台と言えばイカだったという事なのかな。脳天気に観戦する捨助の姿は、この騒ぎを一種のイベントとして捉えている市民の意識を象徴しているのかも知れませんね。一方、池田屋に戻ってきた桂小五郎。騒ぎに気付くや、藩邸に取って戻します。やはりこのドラマでも「逃げの小五郎」は健在なのですね。

池田屋に戻って、あまりの疲労困憊に鉢金を取って垣根のそばで一息を付く藤堂。そこを浪士に斬りつけられ、眉間を割られる平助。「平助!」と叫ぶ永倉。このあたりの描写も「浪士文久報国記事」に忠実ですね。ついでに言えば、新選組フィギュアのシーンそのままでもありました。

屋内で血を吐く沖田総司。衝撃的なシーンであるはずが、紫陽花の花びらが舞う幻想的なシーンに。なかなか凝った演出ではあるのですが、正直言ってあまり成功していないと思いました。なぜかと思うに、このドラマの沖田があまり可哀想に見えないからでしょうか。これまでの沖田のイメージとしては、薄幸の美剣士で、どこかストイックでかつほのかに甘く、全体としては普通の人という感じかな。私としては島田順司ですね。古いな~。ところがこのドラマの沖田君、美男で強い所は同じなのですが、我の強さが目立ちますね。別に私はこのドラマの沖田が嫌いという訳ではなく、悩みを持った一人の青年が様々に苦しみながら成長していくという描写は、今までの枠に囚われることなくなかかなか良いと思っています。しかしひでさんに想われ、皆から好かれかつ自由に振る舞っている沖田は、薄幸というイメージからは遠かったのですよね。そこにこの演出ですから、どこか唐突な感じがしたのでしょうか。狙いとしては判るのですが、何か違和感を感じました。

近藤の後ろから浪士が迫ります。「かっちゃん、後ろだっ。」振り向いた近藤は、危うい所を助かります。  「待たせたな。」と土方の登場。うーん、格好良いですね。後から来て、美味しい所を一人で持って行ってしまいました。「後は俺たちに任せな」 と原田佐之助。彼はいつも楽しそうですね。甲冑の上から斬りつけられながらも、相手を担ぎ上げて叩き付けてしまう怪力無双の島田魁。なんとも頼もしい男です。

二階で血を吐いてたおれている総司。駆け寄る原田と永倉に「みんなには言わないで。お願いだから。」と弱々しく頼みます。ここは、さっきと違って宿阿を負った沖田の悲劇性が出ていて違和感は無かったです。

血まみれになりながら、長州藩邸に向かう望月。悲鳴を上げる町娘が結構リアルでした。実際にあんな姿の侍に出会ったら、恐いですよね。「誰も藩邸に入れてはならない。」と苦悩の決断を下す桂小五郎。やはり彼は政治家ですね。 個人的な感情よりも藩の存続を優先します。「どうしてぜよ!」と叫ぶ望月が哀れでした。なかなかの演出なのですが、実際には池田屋から脱出した多くの志士が長州藩邸に駆け込んで助かっています。このとき、長州藩邸では留守居役乃美織江が藩邸に会津藩が押し寄せて来る事を想定し、籠城体勢を取っていたとも言い、桂が前途を思い軽挙をいましめ、藩邸から飛びだそうとする者を止めたとも言います。また、長州藩邸脇で倒れていたのは吉田稔麿で、望月はその手前の角倉邸の角で倒れていました。

再び場面は池田屋。運ばれる藤堂と沖田。沖田は階段から落ちたと説明する永倉と原田。「お大事に~。」とちゃかすような原田ですが、永倉と意味深に見つめ合います。2階で沖田の羽織を見つけ、不審そうな土方。このあたり、沖田を襲う悲劇を巡る伏線があちこちに張られていますね。

倒れていた宮部が息を吹き返し、近藤と対峙。国の行く末を語り、自分に続く何千もの志士を切り続ける積もりかと迫る宮部に対し、「おのれの生き方に一点の曇りもない。」と言い切る近藤。「愚かなり、近藤勇。」と斬りかかり、近藤に倒される宮部。このやりとりは見応えがありました。時代の流れに逆らった新選組と近藤を待ち受ける未来と、それを予感しつつも京の治安と幕府を守り抜く事を決意した近藤。このドラマの主題がここに凝縮されているかの様です。

戦果の報告をする武田観柳斎。さすがに軍師だけあって、冷静に戦況を見つめていたのですね。ようやくやって来た会津藩。「あとは、我らに任せられよ」て今頃なんなんでしょうか。これも、実際にはもっと早い段階で現場に到着し、池田屋から脱出した浪士と激闘を繰り広げています。そしてこのあとも新選組と協力して残党狩りを行っており、全てが終わって新選組が屯所に帰ったのは翌日の正午頃だったと言います。

近藤局長の「いざ!」という掛け声で新選組は帰還。さながら赤穂浪士の引き上げに似ていたと言われ、これにより一躍勇名を洛内に轟かせることになりました。この引き上げを見送る群衆の中にいたのがおりょう。彼女は寺田屋に戻って、一部始終を坂本龍馬に話します。龍馬は、望月を悲しみ、近藤の暴挙を呪い、国の行く末を思って嘆きます。江口洋介の演じるこの龍馬、イメージとしてはぴったりで、このドラマの中では最もはまり役と言っても良いかも知れません。彼を主役にして、「龍馬がゆく」でも作ってくれないかな。

「こたびの新選組の働き、名付け親の余としては嬉しい限りである。近藤、土方、これからもこの国のために心をひとつにして励んでくれ。」と会津候からお褒めの言葉を頂く近藤と土方。この事件で新選組は、会津藩からの感状と500両、朝廷からの慰労金として100両を受け取っており、これを働きに応じて隊士に分配しています。また、これはこの時点での新選組の働きは、紛れもなく治安維持のための正当な行為であったことを証明しており、単なる殺戮行為では無かった事が判ります。

池田屋事件は、間違いなく新選組の勇名を高めました。ただし、それは治安警察としてのもので、近藤の目指した攘夷集団としてのものではありませんでした。これ以後、望むと望まざるに係わらず、新選組は佐幕派の雄として認知される事になります。もはや後戻り出来ない道に入ってしまったという点において、池田屋事件は新選組にとって大きなターニングポイントでした。また、日本史においても、重大な意味を持ちました。宮部ら一流の志士の多くを失い、明治維新が3年は遅れたと言われます。しかし、すでに進発が決まっていたとは言え、長州藩の暴発をより決定的にし、会津藩に対する怨念もこのときから始まります。また幕府の衰亡を早めた長州征伐もこの事件が発端になっているとも言え、反対に維新を3年早めたとも言えそうです。

この項は、木村幸比古「新選組日記」(「浪士文久報国記事」「島田魁日記」)、新人物往来社「新選組資料集」(「七ケ所手負場所顕ス」)、子母澤寛「新選組始末記」、別冊歴史読本「新撰組の謎」、日本放送出版協会「NHK歴史への招待 新選組」、星亮一「新選組と会津藩」、永倉新八「新撰組顛末記」、司馬遼太郎「龍馬がゆく」を参照しています。

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新選組!20

新選組!第28回「そして池田屋へ」

さすがに力が入っていましたね。前宣伝が凄かっただけの事はありました。殺陣のシーンでは目まぐるしく場面が展開し、正直言って誰がだれだか見分けが付かない所もあったのですが、臨場感があって良い出来だったと思います。あのセットも細部まで作り込まれていて、本当の池田屋の様でした。どこかに保管しておいて見学させて呉れないでものですかね。

まずは、軍議の場面。山南総長は「ここは、会津に加勢を。」と提案。これに対して土方副長は、「戦の前から負けた時のことを考えてどうする。」と反発。この発言に山南は「あらゆることに備えて策を練っておくのが軍議ではないかっ!」と爆発します。総司が「山南さんも、怒鳴ることがあるんだ...。」と言ってうやむやにしてしまいましたが、この場面は今後重要な意味を持って来るのでしょうね。山南と言えば温厚なイメージがあり、このドラマでも堺雅人が知的な演技をしていますが、浪士組上洛の際に、組下の者の乱暴を注意しに来た村上俊五郎に対して烈火のごとく怒ったというエピソードや、禁門の変の際に自分の甲冑がないと言っておおごねをしたというエピソードから察するに、内には相当激しいものを秘めていたと思われます。この爆発もそうした山南の性格を表したものと思われますが、先週あった近藤に決意を促す進言などと合わせて考えると、なにやら生き急いでいるような印象を受けます。このドラマの山南は、土方以上に新選組の土台を早く完成させようと焦っているようにも受け取れ、そのあたりが土方との微妙なずれを生じさせて来るのかな、という感じがしました。

明日にでも会津藩に届けようという軍議に対して、「何を悠長な事を言っている、危機は迫っているのだ。」と的確な情勢判断をしてみせる武田観柳斎。おお、実に冴えていますね。彼を持ち上げた「ねこづらどき」としては、嬉しい場面です。彼はこの後も自ら軍師として居座り、なかなかの仕事ぶりを見せてくれます。

八木源之丞夫妻に、新選組の進み方を尋ねる近藤局長。それを受けて当惑する源之丞。いつもながら、伊東四朗の適度にコミカルな演技には好感が持てますね。少し考えた源之丞は、京都の町に火を付けて天皇を奪い去るなど罰当たりもいいところ、と近藤の決意を支持します。「攻めてくるいうんなら、戦うだけや。」すぐ後にそのとおりになってしまうのですが、京都の町衆にしてみればいかに長州贔屓とはいえ、自らの町に火を付けられるとなれば戦う方を選ぶでしょうね。わざわざこの場面を入れたのは、これから新選組が取る行動が、市民の平穏を守るための正当な警察権の行使であるという証明をしたかったのでしょうね。決して後世に言われるような「朝敵」となる暴挙ではなかったと源之丞の口から言わせたのでしょう。また、わずかに迷いの残る近藤に最後の決断をさせるためのものだったのかも知れません。

一方、知らせを受けた会津藩では、なんと新選組を見捨てるという決定が下されます。そこには、ここで新選組がしくじれば会津候は京都守護職を解かれ、国元へ帰れるという計算がありました。会津藩が守護職を辞めたがっていたというのは事実の様です。主として財政上の理由(守護職就任にあたり幕府から役料を貰っていましたが、それでは全然足りず、内実は火の車だったそうです)からの様ですが、そもそも京都守護職への就任そのものが望んだものではありませんでした。会津藩でも火中の栗を拾うようなものだと最初から判っており極力辞退したのですが、一橋慶喜や松平春嶽から強要されてやむなく就任したのでした。この池田屋事件の前に会津候は、一時京都守護職を離れ軍事総裁職に就いています。守護職の後任には松平春嶽が就きますが、すぐに任にあらずと辞表を提出し、再び会津候に守護職の辞令が出されます。これに対して、会津候も直ちに辞表を提出して任を逃れようしますが、これは認められずに結局復職したのでした。このドラマの設定は、こうした史実を踏まえての事なのでしょうね。子母澤寛の「新選組始末記」によれば、池田屋への出兵については、放置しておく訳にも行かず、さりとて長州藩と決定的に対立する事もためらわれることから軍議の決定までに時間を要し、さらに一橋慶喜や所司代との打ち合わせにも時間を取られた結果出動が遅れたとあります。

佐久間象山を訪ねている桂小五郎。古高が捕縛されているというのになんとなくのんびりした印象なのですが、桂は幕府に仕えている象山に京都挙兵のはかりごとを漏らしてしまいます。これが事実だったら、聞かされた方もさぞ迷惑だったでしょうね。桂は落ち着いている様でもやはり上の空だったのか、土産にと渡された地酒を忘れてしまいます。ここに登場したのが捨助。象山に「般若」と呼ばれて拗ねていましたが、人を人と思わぬ傲岸さが災いを招いたとされる象山の一面を表しているのでしょうね。捨助はいやいやながら桂に酒を届けに行かされます。

再び新選組の軍議に戻って、山南総長は浪士の襲撃に備えるために屯所の守備に回る事が決まります。浪士が新選組を襲うという風聞は実際に何度かあった様で、永倉新八の「浪士文久報国記事」には、前年の11月頃の事として、長州の間者の御蔵伊勢武が近藤に対して、「長州藩が新選組の屯所を焼き討ちにしようとしているから、ここから立ち去った方が良い。」と警告しています。また、「島田魁日記」には、池田屋事件後の6月8日の事として「長州浪人が屯所へ斬り込みに来るという風聞があり、屯所の表門に2門、裏門に1門の木砲を置きいて警備を固め、待ち伏せをした。」とあります。当日襲われるという風聞があったという記録はない様ですが、当然の配慮として屯所を守る留守部隊が居た事は考えられると思われます。

池田屋での浪士の会話。「桝屋から武器を運び出させているところ。」との事。これって、前回のレビューで史実には無いと書いてしまいましたが、一旦封印した桝屋の土蔵が破られ、甲冑や武器の一部が持ち出されたという記録がある様ですね。ですから、前回の望月亀弥太が桝屋に斬り込んだ場面は、史実に基づいた脚色なのでした。お詫びして訂正します。それにしても、白昼堂々と斬り込んだり、それを悠々と運び出したりする設定はやはり無理が感じられ、いかがなものかとは思いますが...。

池田屋に居る桂の元を訪れた捨助。酒を届けるだけでなく自分を雇ってくれと言い出します。あげくに踊りも踊れると言って膳をひっくり返してしまう粗相を犯し、またしても強制撤去されてしまいます。このとき、着物を汚された桂は衣装を代える為と言って藩邸に引き上げますが、三谷幸喜は捨助を実に効果的に使っていますね。池田屋事件の時の桂の行動には不可解な部分が多いのですが、捨助によって見事に辻褄を合わせています。そして、シリアスな場面の前に笑いを持ってきて、ドラマとして見やすくしてくれていますね。

祇園会所に集合した新選組の面々。会津藩の援護が無い事を知った近藤は、遂に単独で行動開始する事を決意します。部隊を二手に分けてそれぞれを近藤、土方が率いる事にし、自らは10名を率い、残りは土方に託します。近藤が指名したのは、沖田、永倉、藤堂、それに倅周平(昌武)。武田は誰にも頼まれないのに自ら軍師として随行することに決め、後は土方が決めていきます。面白かったのが谷三十郎。徹底的にスルーされていましたね。幾ら何でも気の毒ですが、新選組始末記で大活躍した事になっている三十郎、実は活躍したのは弟の万太郎の方でした。八木家から聞き取りを行った子母澤寛の取り違えがあった様なのですが、このあたりのエピソードを入れているのかも知れませんね。そしてもう一人、見慣れない顔が出て来ました。一瞬誰だか判らなかったのですが、浅野薫なんですね。確か前々回だったかな、テロップで名前だけが出ていました。彼もマイナー隊員の紹介要員ですので詳しくは後日アップしますが、地味な探索方を厭い華やかな斬込隊へ志願します。

さて、あまりにも長くなりましたので、一度切り上げる事にします。後半はその2として後刻アップします。


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2004.07.17

池田屋騒動之址

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祇園祭の帰りに通りかかった池田屋跡は、人だかりがしていました。パチンコ屋さんの隣には、いつの間にか池田屋事件の概要を要領よくまとめた説明書きが出来ています。地元商店街が作ったのでしょうね。パチンコ屋さんにしては迷惑かも知れませんが、これまでほとんど放置されてきた池田屋跡が注目を集めるのは良い事だと思います。なにせ、ちょっと前までは石碑が看板に隠れて見えなくなっていたものね。

説明書に見入っているのは若い人がほとんど。時々はツアー客らしい団体が、添乗員の説明を聞きながら立ち止まっています。これは、ちょっと通行の邪魔になっているかな。こうしてみると、大河ドラマはなかなか人気があるではないですか。

これまで何度も来ているのですが、わが家のゆこはやっと池田屋跡を認識できた様子。池田屋事件がなんだったのか、良く判っていなかった様ですね。これで明日のドラマは家族そろって盛り上がれそうです。

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祇園祭 山鉾巡行

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祇園祭の本番、山鉾巡行に行ってきました。今日は土曜日とあって殺人的な混雑を覚悟していたのですが、まだ行列が四条通に居た9時20分頃、三条河原町では意外なほど人が少なく、交差点の東北角の最前列を確保する事が出来ました。先回りして待つ作戦が効を奏した様です。

そのまま待つ事45分、先頭の薙刀鉾の到着です。この頃には、沿道は人で溢れかえっていました。鉾の前に飛び出して写真を撮る人が続出し、お巡りさんが制止するのに忙しくなっています。わが家は最前列に居ましたから眺めは最高で、こんなにじっくり巡航を見たのは初めてです。釘を使わずに木を縄で縛って組み立てた鉾は、大勢の囃子方を乗せて動くにはさすがに華奢で、ギシギシと軋み、車体がゆらゆら揺れているのが判ります。それでも崩れないのはさすがに伝統の技なのですね。きっと乗っている人達は気味が悪いんじゃないかな。

ねこづらどきにしては大きな写真は鶏鉾。古代中国の堯の時代に世の中がよく治まって太平が続き、訴訟用の太鼓が使われなくなって苔が生え鶏が宿ったという故事に因んだ鉾だそうです。このように、鉾や山毎にちゃんと由来があるのですね。綱方が被る笠が赤いのが印象的でした。

やっぱり生で聞く祇園囃子は違います。このお囃子、鉾や山によって異なり、さらに鉾毎に何種類もの曲(約40曲とか)があるのですね。四条通を東に向かう時、辻回しの時、巡航が後半に入った時、鉾町に帰る時などシチュエーションによって使い分けがある様です。もっとも、私に聞き分けるだけの知識はないので、どれも同じように聞こえてしまうのですが。

今日は気温は高かったですが、風があってさほど暑さを感じることもなく、アーケードの下の日陰に居る限り快適な日でした。約2時間頑張って23基目の船鉾まで見てから引き上げました。いわゆる前の祭りを見た訳ですね。北観音山からの後の祭りは、またいつか機会があれば見たいと思います。

このレポートは、近日中にホームページに掲載する予定です。

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2004.07.16

新選組 with ほぼ日TVガイド

すでにご存知の方も多いと思いますが、ほぼ日刊イトイ新聞の「新選組 with ほぼ日TVガイド」、無茶苦茶面白いです。毎週金曜日に前回の「新選組!」についての対談形式の感想が掲載されているのですが、やはり切り口が違います。ちゃんと笑いのツボもおさえてあって、読んでいて実に楽しいですよ。ほぼ日刊イトイ新聞は、ねこづらどきのサイドバーにリンクが貼ってありますので、他の記事も見て下さい。「ジブリの仕事のやりかた。」も面白いですよ。お勧めです。

ところで、「新選組 with ほぼ日TVガイド」の女子部の方で触れられていますが、沖田に化けた藤堂の相手の舞妓さん、やっぱり本物だったのでしょうか。私もあのしゃべり方は本物ではないかと思っていたのですが、どうなのでしょうね。どなたかご存知ありませんか。

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2004.07.15

梅シロップ完成

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6月19日に仕込んだ梅シロップが完成しました。出来上がった様子は上の写真。ほんの少しホワイトリカーを入れただけだったのに、8分目まで水分で埋まっています。これって、梅から出て来たのですよね。うーん、なんとも不思議な感じです。

umesiroppu3.jpg

早速試飲です。グラスに4分の1程度シロップを入れ、水で倍に薄めてみました。梅シロップらしくするために、実を一ついれてあります。香りは梅酒に似ていますが、アルコール臭が無くさわやかな感じです。味の方はほんのりと甘く、梅酒よりもすっきりとしています。それでいて、梅の味はちゃんとして、なかなか美味しい。まずは成功と言って良いのかな。

TOKIKOさん、わが家の梅シロップはこんな所です。梅リンクへの登録、よろしくお願いしますね。

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祇園祭宵々山と池田屋事件

今日7月15日は、祇園祭の宵々山。今頃、四条界隈はさぞ賑わっている事でしょうね。私、このお祭りの雰囲気が大好きで毎年の様に出かけていたのですが、ここ数年はご無沙汰しています。今年も残念ながら行く事が出来ません。うーん、口惜しいよ。

祇園祭の宵々山と言えば池田屋事件ですね。1864年(元治元年)6月5日、近藤勇率いる新選組が三条小橋の旅宿池田屋に御用改めをかけ、尊攘派浪士と乱闘の結果、多数を斬殺又は捕縛に成功しています。

ところで、この日付はおかしいと思いませんか。無論これは旧暦ですが、例えば今年の7月17日は旧暦の6月1日にあたります。どうにも辻褄が合わないのですが、調べてみると次の様な事が判りました。

江戸時代には前後の2度に渡って山鉾の巡行が行われていました。日付は旧暦6月7日と6月14日。6月5日は、前の祭りの宵々山に当たっていたのですね。この2度に分けた祭りは意外に最近まで行われていて、昭和41年に前後を合わせて7月17日に行うようになったそうです。また、巡航のコースが今の様になったのもこの時とか。それ以前は前後の祭りでコースが違っていましたが、共通項としては河原町通ではなく寺町通を通っていた様です。観光の便宜を図るために河原町~御池通を通るコースにしたということですが、伝統ある祭りにも色々と変遷があったのですね。

今年は宵々山を楽しんだ後、池田屋跡を訪れる人も多いでしょうね。私は20年以上前まだ学生だった頃に、この日を選んで池田屋跡に行った事があります。今はパチンコ屋さんになっていますが、当時は池田屋ビルといって一階はレストランだったかな、そして階段を上がった最上階は古本屋になっていました。そこで扱っているのは池田屋跡らしく幕末関係の本が主だったように記憶しているのですが、賑やかな三条界隈にあってそこだけ別世界の様に静かな店でした。その頃私は、司馬遼太郎の「燃えよ剣」や「新選組血風録」を読んで新選組フリークになったばかりで、賑やかな祭りに行くよりも池田屋事件の雰囲気を味わいたいと思っていたのですね。当時は今のようにブームがあった訳ではなく、そんな事をするのは私くらいのもので、店に居る客と言えば私一人だけでした。静かな店の中で古本を見ながら、どこからか剣戟の響きが聞こえてきはしまいかと耳をすませていたのですが、そんな事がある筈もなくすぐに閉店時間が来てしまいました。階段を降りて賑やかな三条通に出ると、異次元の世界から戻ったような気がしたものです。どこからともなく祇園囃子が流れていましたっけ。

今は、剣戟の響きがあったとしても、パチンコの騒音でかき消されてしまっている事でしょうね。池田屋事件、今から140年前の出来事です。

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2004.07.14

新選組!19の2

新撰組!マイナー隊士の紹介、今回は山崎蒸です。

山崎蒸といえば池田屋事件、池田屋事件といえば山崎蒸と言われる程、従来はこの事件に深く係わっているとされて来た人物です。ドラマでは桂吉弥が影の薄さを生かした役を演じています。

まず、本題に入る前にこの桂吉弥の紹介。この方、名前から判るように桂一門の落語家で、桂吉朝の弟子であり、また上方落語の大御所桂米朝師匠の孫弟子にあたる方です。私、米朝師匠の大ファンでありまして、その孫弟子ともなれば応援したくなりますね。詳しくは、桂吉弥のホームページでご覧下さい。新選組の史跡を訪ねたレポートもあってなかなか楽しいですよ。

さて、山崎蒸に戻りますが、彼は本名を「林蒸」といい、子母澤寛の「新選組遺聞」に八木為三郎の話として「大阪の針医者林五郎左衛門の息子」とあります。林家の過去帳などから概ね裏付けが取れることからこれが通説なのですが、島田魁の残した「英名録」には「阿波徳島」となっており、やや謎が残ります。

山崎の出自としては、もう一つ赤穂浪士にからむ奥野将監の子孫という説があります。赤穂市のホームページにも登場しておりかなり広く知られた説なのですが、元はといえば司馬遼太郎の「新選組血風録」に書かれていることから始まっている様です。おそらくは池田屋事件に関係した大高又大高又次郎と大高忠兵衛(赤穂義士大高源吾の子孫と伝えられる)と対にするために司馬氏が創作したものと思われますが、肯定する確証もなければ否定するだけの根拠もありません。

山崎の生年は判っていませんが、「新選組遺聞」に「32、3でしたろう、身体は大きい方で、色の黒い、余りハキハキ口を利かぬ人でした。」とあり、また「近藤芳助書簡」には亡くなった年(1868年(慶応4年))に34、5歳だったとあります。入隊は1863年(文久3年)冬から翌年にかけての事と考えられる事から、入隊時には30歳前後だったのではないかと思われます。

山崎と言えば棒術の名手となっていますが、これも「新選組血風録」の影響が大きいようで、「新選組遺聞」には「長巻」が上手だったとあります。「近藤芳助書簡」には、「文筆学才あるをもって諸士取調役」となるとあり、どちらかといえば武術よりも文才で採用された隊士だったのかも知れません。

山崎が最初に活躍するのは、池田屋事件の発端となった古高俊太郎についての探索です。「島田魁日記」に古高俊太郎について「当組島田、浅野、山崎、川島これを探索し」とあり、事前の探索に従事していた事が判ります。そして池田屋事件が起こる訳ですが、当初に上げた様に従来この事件において山崎が大きな役割を果たしたとされてきました。その元となったのが西村兼文の「新撰組始末記」で、その記述は大略次のとおりです。

池田屋に浪士が潜み密議を交わしているという報に接した近藤は、山崎に探索を命じます。山崎は薬売りの商人に身をやつし、一旦大阪へ下って船宿へ泊まり、そこで池田屋への紹介状を書いて貰らいます。山崎は、その紹介状を持って池田屋を訪れ、一度は満室だと断られますがなじみの船宿からの紹介という事で下座敷表の間に入り込む事に成功します。そして、実際に薬問屋へ出入りしては取引を行って周囲をすっかり信じ込ませ、池田屋に出入りする浪士達の動向を調べ上げては、宿の前で乞食に化けて座っていた同心渡辺幸左衛門を通して屯所に連絡をします。そして、事件当日は、下座敷にあった浪士達の武器弾薬を隠し、表戸を開けて隊士達を招き入れたとあります。

子母澤寛の「新選組始末記」もほぼこれに沿った記述になっており、「新選組血風録」を始めとする小説もほとんどがこの説に従って書かれてきました。それほど具体性に富んだ記述なのですが、最近の研究ではこれは創作だろうと言われています。永倉新八の「浪士文久報国記事」には、祇園会所から祇園一帯、鴨東から三条へと探索して行く中で池田屋が怪しいという情報を得たという記載があり、現在ではこれが真実に近いのではないかとされています。これを裏付けるように池田屋事件の報奨金を受け取った隊士のリストに山崎の名前はなく、当日の現場にはいなかった事が伺えます。そもそも浪士が池田屋に集合したのは古高の捕縛を受けてその善後策を練るためでした。古高捕縛は池田屋事件当日の早朝であり、それより先に池田屋に浪士が集合するという情報が得られる筈はなく、山崎が大阪へ下って戻ってくる時間的余裕は全くありません。以上のように山崎の活躍はフィクションと判る訳ですが、小説としては従来の説の方が面白いですよね。それにしても、西村兼文がどうやってこの説を創作したのか不思議な気がします。全くの私見ですが、この説の元になった風聞のようなものが当時あったのかも知れないという気がしないでもありません。

山崎が次に記録に表れるのは、1864年(元治元年)7月19日に起こった禁門の変においてです。「浪士文久報国記事」に、諸士取調役として山崎、島田、林が出動したと記載があり、恐らくは長州兵の動向を探っていたものと思われます。山崎は、7月21日に長州兵の残党を追って天王山にも出動しており、土方と共に山下の通りを固めたとあります。さらにその後の7月25日には河合耆三郎と共に摂津国の昆陽宿へ向かい、長州藩が遺棄した武器の押収及び移送を行っています。

山崎はまた、1865年(慶応元年)2月23日に切腹した山南敬助の埋葬を依頼する頼越人として光縁寺を訪れている事が判っています。この山南の切腹の原因となったと言われる西本願寺への屯所の移転について、実地に交渉していたのが山崎でした。「新撰組始末記」に土方、井上、斉藤一、山崎が交々西本願寺に現れては堂宇を貸すよう要求し、「暴言威力罵詈威力を示した」とあり、皮肉な巡り合わせを感じさせます。

この西本願寺の屯所時代の話として、幕府典医の松本良順が訪れて新選組の衛生管理について意見を述べた事があり、その際元医家の子である山崎を選んで救急法を伝授しています。このとき、山崎は笑って「私は新選組の医師だ」と言っていたそうです。

この年の11月に、山崎は他の諸士調役兼観察と共に近藤に従って広島へ下っています。近藤は12月には京都へ帰っていくのですが、山崎は吉村貫一郎と共に広島に残り、これ以後翌年の7月まで長州藩の探索を行っています。彼は周防方と呼ばれ、探索によって得た情報を文書にして京都へ報告していたらしく、第二次長州征伐の戦況を知らせる文書に基づいて中山忠能が作った資料が残されているそうです。

第二次長征が失敗に終わり、京都へ戻った山崎は、その後大和や近江に出かけて新選組に依頼のあった事件の解決にあたっていたようです。1867年(慶応3年)6月10日に新選組は正式に幕臣に取り上げになりますが、このとき山崎は「大御番組 助勤」となっており、諸士調役から昇進していた事が判ります。これは、御陵衛士となった伊東一派が抜けた事に伴う異動によるものと思われ、長年の活躍が認められたという事だったのでしょう。副長助勤としての山崎は、9月14日に本多勘解由らの捕縛に向かい、10月に尾方長栄を屯所に連行して尋問しています。そして、11月18日に近藤が伊東甲子太郎を暗殺するために妾宅に招いた席に山崎がいた事が「新撰組始末記」に記されています。

山崎蒸の最後は、翌1868年(慶応4年)1月に訪れました。前年の暮れに京都を離れて伏見の守備に就いていた新選組は、1月3日に開戦した鳥羽伏見の戦いにおいて奮戦し、5日には淀千両松、6日には橋本で戦いますが、戦況に利なく大阪へと敗走します。山崎は「淀で討死」あるいは「橋本で討死」という記録もありますが、実際にはどこかで負傷し、大阪へと後送されていました(「近藤芳助書簡」)。山崎について残る謎の一つに水葬があります。「新選組遺聞」には、八木為三郎が明治もずっと遅くなってから壬生に戻ってきた林信太郎という隊士から聞いた話として、「山崎は淀で深手を負い、船で江戸へ向かう途中紀州沖で亡くなり、水葬に付した」とあります。これが日本で最初に海軍式の水葬を行った例とされるのですが、これは創作とする説があります。その根拠として、為三郎に伝えたとされる林信太郎は、明治元年10月に戦死している事が明らかになっており、為三郎が話を聞けたはずはないとするものです。これはかなり信憑性のある説で、現在の通説ともされていますが、その一方で為三郎に伝えたのは山崎林五郎という隊士であり、水葬は事実ではないかとする説があります(「新選組銘々伝」)。山崎林五郎は林五郎左衛門の息子といい、山崎蒸の父親と同じ名前である事から弟ではないかと考えられると言います。山崎の過去帳には新次郎の兄とあることから山崎林五郎の本名は林新次郎となり、林信太郎と酷似して来ますね。このため為三郎はこの二人を取り違えたのではないかと考えられるとしています。ただ、これはあくまで推測にすぎず、確証があるわけではありません。しかし、山崎の死亡場所を船中とする資料は御香宮の「東軍戦死者霊名簿」や壬生寺の山崎の過去帳にもあるらしく、少なくとも船の中で死んだ事は確からしいと言えそうです。

この項は、木村幸比古「新選組日記」(「浪士文久報国記事」「島田魁日記」)、新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」(「新撰組始末記」「近藤芳助書簡」)、子母澤寛「新選組始末記」、「新選組遺聞」、別冊歴史読本「新撰組の謎」、司馬遼太郎「新選組血風録」を参照しています。


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2004.07.13

新選組!19

新選組!第27回「直前、池田屋事件」

池田屋事件という新選組最大の事件に向って怒濤の展開、刻々と状況が変わっていきます。その一方で、ドラマの後半へ向けての様々な伏線がありました。

まずは、近藤と対峙する永倉新八。芹沢鴨暗殺と内山暗殺について、何も知らされていない永倉が近藤に事実関係を質します。近藤は表情を眩ませて、「やっていない」と言い切ります。このときの近藤が新見錦にかぶって見えたのは私だけでしょうか。とりあえず納得した永倉でしたが、この時のやりとりがいずれ真実を知った時に大きく意味を持ってきそうですね。

その永倉が会っていた小常さん、永倉が落籍して一女をもうける人ですが、市川宇八郎の恋人だったという設定だったのですね。宇八郎が出て来たのは随分と前の事だったので、このエピソードはすぐには思い出せませんでした。宇八郎は亡くなったのですね。ところで、この市川宇八郎とは後に永倉と共に靖共隊を作った芳賀宜道の事なのでは。彼をここで殺してしまって後はどうするつもりなのでしょうか...。永倉は近藤と別れておしまいという事になるのかな。

谷三十郎が、末弟昌武を養子にと売り込みます。なんだか唐突な印象なのですが、当然土方は反対します。しかし、意外な事に山南は「考慮に値する」と賛成の様子。谷家はさして名誉の家柄という程でも無いはずなのですが、彼は昌武が板倉候の隠し子という情報を密かに握っていたのでしょうか。

その山南と近藤のやりとり。尊王攘夷の徒を斬る事に疑問を感じる近藤に、彼等は尊王攘夷はお題目に過ぎず、反幕府が目的なのだと諭す山南。まるで土方が言いそうな事で、この設定は意外でした。山南は尊王攘夷派と争う事に耐えられず土方と対立するに至るという設定だと思っていたのですが違うのですね。だとすると、山南はなぜ切腹するのでしょうか。これからの展開が見物になってきました。

「私が見つけました。」とうるさい武田観柳斎。新選組!18の2で紹介した中の「新撰組始末記」に描かれた人物像を再現しているのですね。火薬の扱いについて神経質な程うるさく、沖田が火薬に触ったとたんに外に飛び出します。火の気がなくても粉塵爆発などがありますから火薬の扱いには慎重になるべきなのですが、いくらなんでも怖がりすぎです。これは、武田の知識が学問上だけの事で、実地に基づいた役立つものでは無いという事を表しているのでしょうか。

松原、河合、葛山、昌武の4人とコミュニケーションを持つ近藤。これって、ものすごく意味深な場面ですよね。みんな後に近藤とは別れ別れになる面々なのですから。中でも良く判らないのが葛山武八郎。ここでプチマイナー隊士紹介をすると、この人は会津藩の出身で、この後に起こる池田屋事件には土方隊に属して参戦しています。17両の報奨金を貰っていますから、かなり活躍したのでしょうね。それから3ヶ月後、1864年(元治元年)9月6日に切腹して亡くなってしまいます。その原因は新選組!17の2で紹介したとおり、永倉と共に会津藩に提出した近藤の非行五箇条を認めた建白書だとされています。この事件は、会津候のとりなしで表面的には収まったのですが、土方の判断で最も影響が少なくて済む葛山に腹を切らせる事により、隊内への見せしめにしたと考えられています。彼について判っている事はこの程度で、新選組に入る前の経歴や実際の人となりを知る手がかりはありません。三谷幸喜としても彼を描き様がなく、「さしたるお役に立つとも思わないんで、あかん時には言うて下さい」と言うようなキャラクター設定にしたのでしょうね。私としては、先日壬生寺を訪れた時彼の墓にお参りして来たばかりなので、親しみを感じてしまいました。

おまさちゃんと原田の関係も明らかになって来ました。盗んだ大根を持って嬉しそうに走る原田が何ともおかしかったですね。嫌いと言いながら字はきれいだと含みを残した言い回しが見事です。

沖田の名を騙って遊ぶ偽物。一瞬捨助かと思ったのですが、藤堂平助でした。近藤に詰め寄られ、沖田に対する劣等感を吐露する平助。それを諫め励ます近藤。兄の様であり、父の様でもある近藤はなかなか良いですね。でも、これも後の藤堂が持つ苦悩への伏線なのでしょうね。

一方、宮部鼎蔵ら浪士達は武器弾薬の奪回を計ります。望月亀弥太ほか数名で斬り込んで見事に奪還に成功しますが、情けないのが逃げ出した新撰組の隊士達。しかしこの場面をなぜ入れたのでしょうね。史実にもなく、数人で真っ昼間に斬り込むなど無茶も良いところで、必然性が無いと思うのですが。この時期の新選組はまだこの程度で、池田屋後にその実力が知れ渡ると言いたいのでしょうか。でも、まともに戦わず戦線離脱したのなら、隊規違反で切腹ものだと思うのですが...。それとも、浪士達にも活躍の場を与えたかったのかな。

桝屋喜右衛門こと古高俊太郎に対する拷問。五寸釘と百目蝋燭が出て来ました。永倉新八の「新撰組顛末記」に依れば、足の甲に五寸釘を打ち付けて蝋燭を立てて火を灯し、流れ落ちる蝋が傷口を伝い、あまりの苦痛に遂に自白したとなっています。さすがにこの場面の描写はありませんでしたが、もし仮にこのとおりの事をしたとしたら蝋は直接床に落ちるばかりで少しも拷問にはならないという記事を読んだ事があります。だとしたら、直接蝋を打ち抜いた釘に垂らしたのでしょうか。どっちにしてもむごたらしい事です。書いていて気分が悪くなってきた。これだけの事をしてきた割に土方副長の表情は、いつもとあまり変わらない様に見えたのですが...。

さて、池田屋事件に向けての忙しい展開の中にこれだけの内容を詰め込んだ三谷脚本、見事としか言い様がありません。次回池田屋事件でクライマックスを迎える訳ですが、その後の展開にも十分期待出来ると考えて良さそうですね。

この項は、永倉新八「新撰組顛末記」、別冊歴史読本「新撰組の謎」を参照しています。


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2004.07.11

新選組! 壬生詣

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昨日、新選組の故郷、壬生へ行って来ました。最近とみに新選組を興味を持ちだした息子達に教えてやるためで、八木邸前川邸壬生寺光縁寺と巡ります。壬生界隈は、雨のせいか思っていた程の人出ではありませんでした。

まず訪れたのが八木邸。芹沢鴨が襲われた日もこんな雨の暗い日だったのでしょうか、ドラマを見た後なので余計に臨場感があります。息子達もガイドさんの解説に真剣に聞き入っている様子。鴨居の刀傷には、ドラマと同じだと驚いていました。

続いて訪れたのは壬生寺。壬生塚で芹沢鴨と平山五郎を始めとする隊士達の墓に手を合わせ、河合耆三郎の墓の前で、「あの入隊試験の時に藤堂と立ち会って、真似ばかりしていた人だよ。」と教えてやるとすぐに納得してくれました。ドラマの映像効果といもうのは、なかなか凄いものがありますね。ただ、土方ファンの次男は近藤の遺髪供養塔や胸像があるのに、土方関係の史跡が無い事が不満な様子です。

前川邸では、門内に入れる様になっていたのに驚きました。といっても庭先だけで建物内部の見学は出来ませんが、全く入れなかった以前からすると嬉しい変化です。中にはパネル展示コーナーやおみやげ物コーナーが出来ていました。

光縁寺は静かなもので、わが家以外に訪れている人は居ませんでした。ここでは、山南さんを始めとする隊士達の墓に手を合わせ、沖田氏縁者の墓について本堂の前に書かれている説明書を元に息子達に教えてやったのですが、もう一つピンとこない様子。ドラマの「ひで」さんのイメージが強すぎるのかな。

帰りは四条河原町へ出て、古高俊太郎邸跡を訪問。子供達に今日のドラマに出てくるからねと教えてやりましたが、周辺は全くの歓楽街ですから当時を偲ぶのは難しいですね。

京都の町はそこかしこで祇園囃子が流れており、池田屋事件の放映を前に訪れるには絶好の日だったかも知れません。新選組の世界にすっかり浸った一日でした。

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2004.07.07

新選組!18の2

今回のマイナー隊士の紹介は、武田観柳斎です。

ドラマでは、八嶋智人が人を食ったようなキャラクターを演じていますね。

武田観柳斎は、出雲母里藩(島根県能義郡伯太町母里付近)の出身で、医者の書生だったといいます。本名は福田広で、甲州流の軍学を納めたことから、甲州の名家にあやかって武田と改めたと思われます。子母澤寛に依れば、年は32、3歳で、背が高く、頭は坊主だったとあります。髪を長く伸ばしたドラマの姿とは随分と違っていますね。

西村兼文の「新撰組始末記」によれば、「すこぶる世智に賢い」とあり、「軍師のような地位に座り、自負に誇って奸策を巡らして金策を謀ったが、誰も近藤土方に告げるものが無かったために無事だった。」とあります。また、子母澤寛の新選組物語では、「上に対しては天才的のおべっかで、その代わり下の者に対して意地の悪い事大変なものであった。」とあり、あまり良い人物像は浮かび上がってきません。新選組物語では、さらに続けて武田は男色家であり、隊にいた馬越三郎という美男子に言い寄ったが相手にされず、返って薩摩藩邸に出入りしている所を馬越に見られ、これを近藤に密告されたことから粛清にあったとされています。どうにも禄な事が書かれていない武田なのですが、実際にはどうだったのでしょうか。

武田が入隊したのは、1863年(文久3年)の後半だったと思われます。12月27日に光縁寺に葬られた野口健司の過去帳に、頼越人(依頼人)として武田の名前があり、これ以前に入隊していた事が判かります。この頼越人として武田と共に馬越の名が仲良く並んでおり、武田と馬越の男色を巡る逸話は、この過去帳を見た子母澤寛の創作ではないかというのが今の見方のようですね。武田も思わぬ所で濡れ衣を着せられたものです。

武田は、入隊当初から重く用いられた様です。入隊後間もない1864年(元治元年)3月10日に、多摩の名主である富沢政恕という人が島原で新選組から接待を受けているのですが、武田は近藤、土方、井上、沖田、藤堂といった試衛館のメンバーと共にこの「身内」の席に出ています。このことから、武田は元々近藤達とは旧知の仲だったのではないかという推測があるのですが、彼がその後異数の抜擢を受けている事を考えると、あながち的はずれとは言えないかも知れません。

武田は、軍学者として隊内で調練の指揮を執る一方、隊士としても活躍します。まず、元治元年6月5日早暁、武田は隊士7名を連れて四条小橋の薪炭商桝屋喜右衛門方を急襲しています。彼は、主人の喜右衛門を捕縛すると共に、武器弾薬や文書を押収しました。桝屋は尊王攘夷派の志士の一人古高俊太郎と判り、彼の自白と押収した文書から過激派志士による京都騒擾計画が明るみに出ます。これが池田屋事件に繋がる訳ですが、武田はこれにも近藤隊に属して参戦しています。彼は、戦闘の当初には階下の固めに回り、天井から落ちてきた浪士を一人斬った(浪士文久報国記事)とされ、沖田、永倉らと共に20両の報奨金を受け取っています。これは近藤、土方を除くと最高の報酬で、その働きぶりが大きく認められたということなのでしょうね。

次いで6月10日に隊士14名と会津藩の応援5名を連れて、東山にあった明保野亭に出動しています。明保野亭に多数の長州人が潜伏しているという情報に基づく出動だったのですが、実際には長州人はおらず、捜索を続けていると座敷から逃げ出した人物が居ました。武田は近くにいた会津藩士の柴司に「取り逃がすな」と命じ、柴はこの人物を追いつめ槍で傷つけます。ところが、この人物は長州人ではなく、正規の土佐藩士「麻田時太郎」でした。土佐藩は理由もなく藩士を傷つけられた事に激高し、会津藩の謝罪も受け付けず、ついには両藩の断交かという事態にまで発展します。しかし、まず麻田が自らの怯懦を恥じて切腹をし、次いでこれを聞いた会津藩が柴に切腹を命じて事態は収まりました。武田は責任を感じたのでしょう、柴の葬儀に参列し、弔歌を献じています。

しかし、武田はその後も活躍を続け、7月19日にあった禁門の変では軍事掛として参戦しています。軍学者としての武田の経歴が買われたもので、参謀のような地位にあたると考えられています。さらに、1865年(慶応元年)に作成された長州征伐を想定した「行軍録」では、伊東甲子太郎と共に「戦奉行」とされており、副長、参謀と同格に扱われていた事が伺えます。

武田の事歴の中で特異なものとして、禁門の変の後、永倉新八らが近藤の非行五箇条を認めた建白書を会津藩に提出したとき、武田が永倉の前に両刀を投げ出して、捨て身の覚悟でこれを諫めたという事件があります。永倉は、普段近藤にへつらっている武田が、永倉達に粛清されかねない事を察して機先を制したパフォーマンスを演じた(永倉新八「新撰組顛末記」)としていますが、近藤にとっては嬉しい行動と映った様で、その後の武田の重用に繋がっていった様です。

武田の活躍はなおも続きます。彼は、慶応元年の再編成により、6番組長、その後5番組長となり、併せて文学師範に命じられています。組長としての彼は、閏5月に矢野玄道を捕らえ、8月8日には、山科奴茶屋に金策強談に押し込んだ薩摩藩士の捕縛に向かい、一人を斬り、一人を捕らえています。

そして、11月には長州藩に対する尋問使の一行と共に広島に向かう近藤の随行員として、伊東甲子太郎、尾形俊太郎と共に従っています。武田は、近藤、伊東と共に岩国藩まで赴いていますが、藩重役との会見は拒否され、やむなく京都へ帰っています。

しかし、武田の栄光もここまででした。この後、武田は凋落の一途を辿る事になります。まず、翌慶応2年に近藤は長州藩尋問のために再度広島へ出張しているのですが、このとき武田は随行の人選から漏れています。そして、この頃から武田の記録が忽然と途絶え、次に現れるのは翌慶応3年6月22日に竹田銭取橋で斬殺されてこの世を去った時でした。

竹田の凋落の原因として、「新撰組始末記」では、新撰組に西洋式調練が取り入れられたため、甲州流軍学者である武田の出る幕が無くなったためとしています。そして、それを恨みに思った武田は、近藤と対立関係にあった伊東甲子太郎に接近しますが、日頃の行動から怪しまれ、これを拒絶されます。ついには、薩摩藩に接近を計ったので
すが、日頃恨みを持たれていた隊士に密告され、近藤によって粛清されたとあります。

この最期の場面として「新撰組始末記」では、次のように描かれています。慶応2年9月28日、近藤は酒宴を設けて武田を呼びます。近藤は武田に「近頃薩摩藩邸に入られる様だが、めでたい事である。」と言い、酒を勧めます。武田は、「あれは薩摩藩の内情を探ろうとしての事。」と弁明に努めますが、近藤はなおも酒を勧めて散々に酔わせ、夜に至ってようやく武田を解放します。そして、近藤は途中の用心のためとして、斉藤一、篠原泰之進の二人を随行させます。一行が武田を先頭に武田銭取橋に差し掛かったとき、背後から斉藤一が斬りかかり、一刀の下にこれを倒してしまいます。

司馬遼太郎の「新選組血風録」にも採用されている説ですが、尾張藩士の遺した「世態志」という資料により、現在では疑問視されています。そこには、「慶応3年6月22日、油小路竹田街道にて元新選組竹田某が殺害されていた。これは新選組の仲間の仕業であるという。」という記事があり、まず竹田が死亡した日付が訂正されます。また、「元・新撰組」とあることから、この時武田は新選組を脱退していた事が判ります。さらに慶応3年6月には、斉藤一も篠原泰之進も御陵衛士として新選組を離れており、近藤の指示で武田を暗殺するという事はあり得ません。

また、「世態志」には続けて「身寄りは判らないが、武田の遺体を貰い受けに来た3人の者が、同じく殺されてしまった。」とあり、6月27日には「武田と応意」の善応という僧侶が「悪事の筋」があったとして新選組に殺害され、武田の同志の一人が枚方で切腹したと記されています。

これらの記事から、武田は何らかの理由で新選組を脱退し、その後仲間を募って勤王活動を開始したのだが、それが新選組の知るところとなり、仲間と共に粛清された、というのが現在考えられている武田の最期です。武田を斬ったのは斉藤ではなく、新選組隊士の誰かだったのでしょう。また、枚方で自刃したとされる人物は、加藤羆という新選組隊士ではなかったかと言われています。

こうして詳細に見て来ると、武田観柳斎は、おべっか使いの口先だけの隊士というのではなく、数々の事績を遺した有能な隊士だったという姿が浮かび上がって来ます。その最期には謎がつきまとっていますが、恐らくは隊内での地位の凋落と時勢への乗り遅れのあせりが交錯して、脱退~勤王活動へと走らせたのではないでしょうか。実際の人柄がどうだったのかまでは判りませんが、西村兼文や子母澤寛の記述によって、相当に低く評価されてしまっている人物ではないかと思われます。

この項は、永倉新八「新撰組顛末記」、木村幸比古「新選組日記」(「浪士文久報国記事」)、新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」(「新撰組始末記」)、子母澤寛「新選組始末記」、「新選組物語」を参照しています。

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新選組フィギュア 山南敬助

以前紹介した新選組フィギュア「山南敬助」の画像がアップされています。岩木升屋事件で不逞浪士に襲いかかる勇姿が再現されていますね。山南の愛刀「赤心沖光」はこの打ち込みで折れてしまったのでしょうか。

堺雅人演じる山南のイメージとは違った戦う剣士の姿になっていますが、血染めの刀の押し型から受ける印象からすると、これくらいの迫力は欲しいところです。

でも、堺ファンの為にはもう少し知的なイメージの方が良かったような気がしますね。土方とペアで相談しているシーンとか、欲しい人はいないかな。

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2004.07.06

新選組!18

新選組!第26回「局長近藤勇」

芹沢なき後の新選組、新しい隊士が続々と入隊してきました。武田観柳斎、谷兄弟、山崎蒸などなど。ねこづらどきとしては、マイナー隊士のネタが増えて嬉しいですね。

近藤局長、総髪になったり月代を剃ったりと髪型がコロコロ変わって居ましたが、なかなか貫禄が出て来ました。特に内山とのやりとりは迫力がありましたね。やっぱり、近藤には厳しさがなければ、らしくないです。

山南啓助は総長になっていました。相変わらず、新隊士の面接は山南の役目なんですね。知的な感じのする堺雅人に試験官の役割は良く似合っています。

ところで、この山南の局長に次ぐ総長という地位ですが、本当にあったのかどうか、やや疑わしいところがある様です。この山南総長が出てくるのは西村兼文の「新撰組始末記」だけで他の資料には見あたりません。同じ「新撰組始末記」の中でも西本願寺移転に絡んで近藤と対立したときに、「我れ、いやしくも副長に従事す。その言入れざるは土方の奸媚による。」と言い放って自刃したとあり、総長とはなっていません。一方、永倉新八の「浪士文久報国記事」では禁門の変の頃のこととして、明確に書かれてはいませんが、山南副長と読める記事(後出)があります。また同じく永倉の「新撰組顛末記」や子母澤寛の「新選組始末記」には山南総長は出て来ません。こうした事からか、新選組の変遷の中に山南総長を入れない研究者も居る様ですね。(「血誠新選組」所収「新選組の組織と変遷」小島政孝)ちなみに「新撰組始末記」の続きとして、慶応元年に伊東甲子太郎の加入後の組織改編では、近藤が局長に代わる総長という地位に就いています。

その山南敬助ですが、史実ではこの頃は空白の時期となっており、新選組における謎の一つになっています。その実態を知る手かがりの一つが1864年(元治元年)1月27日に出している年始状で、「特に変わりはなく年を越した」旨が書かれており、この頃は無事だった事が伺われます。ところが、2月2日に多摩の名主である富沢忠右衛門が壬生の屯所を訪れた時には、「山南は病に伏し逢わず。」とその日記にあり、4月13日に京都を去るまで逢えず仕舞いだった様です。その後に起きた6月5日の池田屋事件、7月19日の禁門の変にも山南は参戦していません。永倉新八の「浪士文久報国記事」では、禁門の変の際の山南の消息として「副長土方歳三病気にて引入居り代山南啓助」と記しており、依然として病気が続いていた事を伺わせます。さらに、11月頃に作成されたと思われる「行軍録」にもその名はありません。次に山南の名が出てくるのが翌年の西本願寺移転に絡んでであり、山南は近藤、土方と対立したあげく脱走し、切腹するに至ります。この長期に渡る病が何だったのかは判っていません。

ひとつの説として、1863年(文久3年)秋から暮れ頃にあったと思われる大阪岩城升屋事件の時に重傷を負ったのではないかとするものがあります。これは多摩の小島家に伝わる「異聞録」にある山南の愛刀「赤心沖光」の押方を写し取った絵に添えられた文章から判る事件で、「新撰組局長助山南敬助、岩木升屋江乱入ノ浪士ヲ討取候節、打折候刀」として、会津候からご褒美として8両を頂いたとあります。この資料は「新選組!展」に展示されており、私も実際に見たのですが、山南の刀は切っ先から三分の一のあたりで折れ、あちこちが刃こぼれしており、何より血糊のあとが生々しく、相当な激戦があったことを伺わせます。秋山香乃が書いた小説「藤堂平助」では、この説に沿って、かつ一緒にいた土方を庇ったために重傷を負ったとされていますね。そういう想像をしたくなる程、この刀の絵からは怪しい迫力が溢れています。小説が出たついでに書くと、北方謙三の「黒龍の柩」では負傷は負ったものの真の理由は癌だったとして描かれていますね。

これから8月末に放映される予定の切腹に向けて、この謎に満ちた山南を堺雅人がどう演じてくれるのでしょうね。岩城升屋の事件は出てくるのか、明里との逢瀬はどう描かれるのか、楽しみに待ちたいと思います。

この項は、永倉新八「新撰組顛末記」、木村幸比古「新選組日記」(「浪士文久報国記事」)、新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」(「新撰組始末記」)、子母澤寛「新選組始末記」、学研「血誠新選組」を参照しています。


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2004.07.05

新選組!内山彦次郎暗殺

第26回「局長近藤勇」で出て来た「内山彦次郎の暗殺」については以前に少し書いた事があるのですが、昨日から今日に掛けてかなりの数のアクセスがありました。どういうものか簡単に書いた事柄ほどアクセスに引っかかる事が多く、せっかく来て頂いた人に申し訳ない気がしてしまいます。そこで、「内山彦次郎の暗殺」についてもう少し詳しくまとめて見ることにしました。

内山彦次郎は実在の人物で、大阪西町奉行所の筆頭与力を務めていました。彼が暗殺されたというのも事実で、当時は犯人は不明とされていた様です。この与力殺しと新選組を初めて関連付けたのは、明治22年に西本願寺の侍臣西村兼文が書いた「新撰組始末記」です。

「新撰組始末記」を意訳すると、内山彦次郎は「事務ニ練達シタルノミナラズ、気節正シク且ツ勇烈ノ聞コエ高ク、若年ニシテ大塩平八郎親子ノ追捕ニ向カイタル気概アリ。」という人物でした。内山は、新選組(壬生浪士組)が大阪の富商に対して金策を強談する事を憂い、「暴業ノ挙動ヲ挫カン」としていました。そんな折り、1863年(文久3年)6月3日に新選組と大阪相撲との間で刃傷沙汰が起こり、近藤勇が町奉行所に届けて来ます。近藤は、「平民が武士に対して無礼を働いたので斬り捨てた。」と暴慢に言い放ちますが、内山は「これは町奉行所の管轄する所であって、是非曲直を糾弾せざるを得ない。」と譲りません。近藤は、「我らは京都守護職御預かりの者であり、疑義があるなら会津候に照会せよ。」と言い捨てて立ち去ります。京都に戻った近藤は、沖田総司と永倉新八を呼び、「内山の様な者が居ては、今後大阪で自由に振る舞えない。聞けば内山は灯油を多く買い入れ、これを密かに売って商売しているという。これを理由に暗殺し、天誅組の仕業に見せかけよう。」と相談して決めます。

翌1964年(元治元年)5月20日、沖田総司、原左之助、永倉新八、井上源三郎の4人は内山の帰りを天満橋で待ち受けます。内山は駕籠に乗り、用心棒として剣客が一人付いていました。駕籠が天満橋に差し掛かると、右から沖田と原田、左から永倉と井上が斬りかかります。用心棒と駕籠かきは驚いて逃げ去り、沖田が重傷を負っている内山を駕籠から引きずり出して首をはねます。そしてその首を青竹に突き抜き梟し、「この者奸物にして灯油を買い占め庶民を困窮せしむるをもって天誅を加る。」と書いた捨て札を添えて立ち去ります。そして、22日には、京都三条の制札場にも同じ捨て札を掲げました。この事は誰一人として新選組の仕業とは知らなかったのですが、その後大阪の与力同心に勇気のある者は居なくなりました。

この「新撰組始末記」に次いでこの事件と新選組の関係に触れているのが、永倉新八の回顧談をまとめた「新撰組顛末記」です。これは、明治44年頃に「小樽新聞」の記者によって取材が行われ、それをまとめたものが大正2年に新聞に掲載されたものです。

この「新撰組顛末記」によると、新選組の屯所が不動堂村に移った頃とありますから1867年(慶応3年)6月頃、大阪の米相場が高騰を始めました。世情騒然としてきたため、新選組として山崎蒸に命じて大阪の事情を探ってみると、筆頭与力の内山彦次郎が、長州倒幕党の命を受けて大商人に圧力を掛けて米相場を引き上げさせている事が判りました。内山自身も刺客に襲われるを想定して、自宅に抜け穴を設ける程用心していることから、斬り込む事は容易ではなさそうでした。そこで、内山が役所から帰宅する途中を襲うほかはないと考え、近藤、土方、沖田、永倉、原田、井上、島田など約10名の隊士が天神橋の左右で待ち伏せをしました。内山は、用心棒として剣客と力士を2名ずつ駕籠側に配して警戒していましたが、天神橋に差し掛かった頃、左右から踊り出した近藤達に驚き、用心棒達は逃げてしまいます。左から進んだ土方がまず駕籠の中に一刀を突き刺すと、「あっ」と叫んで右の戸から内山が転げ出しました。すると、右から進んだ近藤が一刀の下に首を打ち落としてしまいます。最初は、内山の首を晒しものにする予定だったのですが、かなたから人が来る様子なので近藤は紙の端に「天下の義士之を誅す」と書いて死体の胸の上に置き、一同は姿をくらましました。その後、京都へ戻ってから内山暗殺の次第を詳しくしたため「士風振興のため内山を改易せしめられるべく候」と付記して老中の門前に貼り札しました。後に、これが新選組の所行と知れ、庶民は大いに徳としました。

これより後に書かれた子母澤寛の「新選組始末記」では、日付以外はほぼ永倉新八の「顛末記」の記事を踏襲し、反新選組の説として西村兼文の「新撰組始末記」の説を引用しています。

これに関連する資料としては、明治2年から同5年頃にかけて書かれたと思われる「島田魁日記」があり、そこには、1863年(文久3年)6月頃の事として「この頃、大阪与力の風聞が悪く、新選組で探索をしていた。」とあります。これ以外に特に暗殺については触れられていませんが、内山について良からぬ噂があった事を伺わせる記事です。

このほか、西国浪士による仕業とする資料もあるそうですが、残念ながら手元に出典の判る資料はありません。また、永倉新八がもう一つ遺している「浪士文久報国記事」にはこの事件は記載されておらず、このことから「新撰組顛末記」の記事は、小樽新聞の記者による創作ではないかとする説もあるようです。

以上諸説を並べて来ましたが、それぞれの資料において少しずつおかしな部分がありそのまま100%信用する事は出来ないようです。

例えば「新撰組始末記」において近藤を内山が取り調べていますが、近藤が届けを出したのは東町奉行所であり、西町奉行所の内山が出てくるはずはありません。ドラマでは、このあたりを逆手に取って巧みに取り入れていましたね。

次に「新撰組顛末記」では、日付が内山が実際に殺された日と大きく異なっています。また、仮に内山の不正が真実であったとしても、幕府上層部から指示があったのならともかく、幕府の機関である大阪町奉行所の配下に対して新選組が手を下す事は筋違いも甚だしく、正義のために独断で殺害したというのでは不自然極まりません。

恐らくは何らかの形で新選組はこの事件に係わっていたものと思われますが、単に探索をしていただけなのか、本当に暗殺を実行したのか決め手になるものは無く、結論は藪の中としか言いようがないようです。

ただ、内山彦次郎が評判の悪い与力だった事だけは確かな様で、当時の町民の日記に「内山彦次郎という悪与力は、当時筆頭にいる事を良いことに好き勝手に事を取り裁くので市中の者が困っていたのだが、多分そうなるであろうと思っていたとおり天神橋南詰において、浪士7、8人に撃ち殺された。」という事が書かれているそうです。ただし、これが職務に熱心なあまりに取り締まりが厳しくなった為のものか、不正を働いていた為なのか迄は判りません。


この項は、永倉新八「新撰組顛末記」、木村幸比古「新選組日記」(「浪士文久報国記事」、「島田魁日記」)、新人物往来社「新選組銘々伝」、「新選組資料集」(「新撰組始末記」)、子母澤寛「新選組始末記」を参照しています。


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2004.07.02

新選組フィギュア 2

sinsenkumi2.jpg

以前紹介した新撰組フィギュアの続きをゲットしました。

相変わらず近所のコンビニでは見かけないのですが、先日訪れた新撰組!展の会場では沢山売っており、今度は家族1個づつ、合計4個をゲット。内訳は、「近藤勇A」、「土方歳三」、「永倉新八」、「武田観流斎」。幸いな事に前回と重なることもなく、5体並べるとなかなか壮観なものがあります。Project"B"で紹介されていたように永倉新八と藤堂平助はペアになっており、今は本箱の中で傷ついた平助の悲鳴を聞いた新八が振り返っています。

ところで、YRENAさんが欲しがっていた山南敬助のフィギュアが新撰組戦場録シリーズとして今秋に発売される様です。山南のシチュエーションは「岩木升屋不逞浪士取締り事件」。刀が折れるまで戦って、その刀の拓本を取って故郷へ送ったという事件ですね。YRENAさんのみならず山南ファンは急増していますから、きっと人気が出ることでしょう。ただもう少し早く、ドラマで切腹してしまう前に売り出してくれればもっと良かったのでしょうけど。

このシリーズ、芹沢鴨の画像だけがアップされているのですが、大和屋焼き討ち事件で大砲を撃っているシーンですね。どうせなら屋根に登って酒をあおっているシーンにすればもっと面白かったのに。あるいは、八・一八の政変の時の勇姿にして欲しかったかな。

今度は、発売と同時にコンビニへ駆けつけなきゃね。

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2004.07.01

湯波半 5

yubagohan.jpg

今日は、ゆばを使った料理の紹介です。

写真はゆば御飯。
作り方は割と簡単で、鰹と昆布のだし汁に塩で味付けをし、お酒少々
を入れて、風味付けに薄口醤油も少々加えてやります。その中に湯
波半で買った引き上げゆばを入れて30秒程度温め、片栗粉でとろみ
をつけてやります。これを御飯の上に乗せてやれば出来上がり。だし
汁は少し濃い目にしておくのがこつかな。

仕上げに刻みねぎをふりかけ、好みでおろしショウガやワサビを添え
ても良いです。

これがまた、滅茶苦茶美味しい。ゆばのなめらかな舌触りと、温めた
事で活性化されたゆばのうまみの二重奏が楽しめます。

是非、お試しあれ。


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