新選組!17の2
今回はメジャー隊士の永倉新八を取り上げます。主として、芹沢鴨との関係を探り、なぜ芹沢暗殺の刺客からはずされたのかを見ていきたいと思います。
ドラマでは、永倉は芹沢排斥については穏便に済ましたいと発言し、山南はこれを受けて「彼は義理堅い」から」と、当日は伏見警護を命じて遠ざけてしまいました。では、実際のところはどうだったのでしょうか。
永倉新八の経歴を簡単に記すと、彼は1839年(天保10年)に江戸の松前藩中屋敷で、江戸定府取次役を務める長倉勘次の次男として生まれています。ちなみに母は柳生藩家老の娘で、彼の剣の才能の根元はここにあるのかも知れませんね。兄が早世したため彼が跡取りでした。
8才の時に神道無念流岡田十松道場に入門し18才で本目録を得ています。19才の時に藩邸を出て同流の「百合元昇三道場」に住み込み、剣術の修行に打ち込みます。このとき、藩邸を出た事と関係があるのでしょう、名を「永倉」に改めています。この道場では22才まで修行し、免許皆伝を得ました。この頃、野口健司もこの道場で修行しており、恐らくは顔見知りであったと思われます。その後、心形刀流の坪内主馬の道場から招きを受け、師範代になっています。この道場では、島田魁と出会いました。
近藤との出会いが何時、どういう経緯であったのかは定かではありません。恐らくは、出稽古や道場巡りをしている内に知り合い、意気投合して試衛館道場に居着いたのではないかと考えられています。「浪士文久報国記事」では、「近藤の道場では、稽古が終わると議論をしては国事を憂いていた」とあり、その仲間として近藤、山南、土方、沖田、斉藤、藤堂、井上らを掲げています。同記事では、さらに続けてこの仲間が浪士隊に加入した時、組を作るため各自「組頭」を選ぶ様にと達しがあり、近藤の同士達は芹沢鴨を選んだとあります。これからすると、京都での宿舎が一緒だったのも、共に京都に残留したのも、元々近藤達が芹沢の傘下に入っていたからという事になる様ですね。永倉もこのとき初めて芹沢と出会っています。
ここから本題に入りますが、新選組(壬生浪士組)における永倉と芹沢の関係は、かなり良好なものだった様です。二人を結びつけたものは、やはり剣が同門だったということなのでしょう。永倉に依れば、新選組を作ったのは芹沢であり、同じく永倉の残した「同士連名記」では芹沢を特に「巨魁隊長」として「隊長」である近藤、新見とは区別しています。「浪士文久報国記事」では、会津藩より朝廷筋からの沙汰として芹沢を召し捕る様にと命じられた時に、「芹沢は新選組を創設した本人であり、まさか召し捕って差し出す訳にも行かない」と困惑している様子が伺えます。
また、芹沢と永倉が共に遊んだ事実として、新選組が大阪へ警護のために下った際に、近藤他の隊士が吉田屋へ繰り出す中、永倉と芹沢は二人して京屋に止まり酒宴を開いた事があります。このとき芹沢は酒乱の癖を出して、芸妓と仲居の髪を切るという乱行を働くのですが、永倉が間を取って事を納めています。
永倉が芹沢をどう評価していたかについては、永倉の「新撰組顛末記」において「芹沢は水戸天狗党の幹部として重きをなした人で、清河八郎でさえも一歩を譲る存在であり、芹沢の死は国家的損害であった」と記しており、相当高く買っていたものと思われます。
以上から、永倉は芹沢にかなりの親しみと尊敬の念を抱いていた事が伺えます。また、同じ道場に居た野口を始め、芹沢派の新見、平山、平間はすべて神道無念流の同門でした。永倉は、近藤派の中にあって、芹沢派と最も親しい関係にある異色の存在であったと考えられます。永倉が芹沢暗殺の刺客からはずされたのは、単に義理堅いという事ではなく、こうした人間関係があったためと思われます。もし彼に事前に話したとしたら当然反対をしたでしょうし、場合によっては芹沢方に付いた可能性もあります。近藤にしても永倉は必要な存在であり、芹沢粛清に巻き込んで失いたくはなかったのでしょう。ただし、事件当日に伏見警護に赴いたという記録はなく、角屋に泊まり込んでいたと子母澤寛の「新撰組始末記」にはあります。
しかし、せっかくの配慮にもかかわらず、芹沢の死後永倉と近藤の関係は次第に微妙なものになっていった様です。それが表面化したのが、禁門の変の後に永倉が原田、斉藤、島田等と共に会津藩主に充てた近藤の非行五箇条を認めた建白書でした。これは、近藤の増長ぶりを指摘したもので、近藤を切腹させるか、さもなくば自分たちが切腹すると強行に迫っています。この騒動は、会津藩主自らが間をとりもつ事で表面上は収まりましたが、後に建白書を共に出した一人である葛山武八郎が切腹し、永倉が一時幹部の座を追われるなどしこりを残しています。
さらに、1867年(慶応3年)には、伊東甲子太郎達と島原の角屋で酒宴を開き、伊東、斉藤の3人でそのまま3日間も流連して、隊規違反を問われて謹慎処分となっています。この時は、近藤が3人の切腹を主張したのですが土方がそれをなだめたとされています。
近藤と永倉が決定的に決別するのは、1868年(慶応4年)の事でした。永倉は甲陽鎮撫隊として近藤と共に勝沼で戦いますが、その指揮ぶりに疑問を持ち、江戸に帰ったあと原田と共に近藤と会い、今後の進み方について問いただします。近藤は、「私の家来となるならば同志とする。」と言い放ち、これに反発した永倉と原田は新選組を離脱し、芳賀宜道とともに「靖共隊」を結成するに至ります。
永倉は、沖田をもしのぐ腕を持つとされ、二番隊長として新選組を支えた幹部の一人でした。しかし、試衛館の門人であり、多摩の郷党でもあった土方、沖田、井上達とは微妙に立場が違っていた様です。その事が芹沢派との繋
がりをもたらす一方、芹沢の死後は様々な形でひずみとなって現れ、最期は袂を分かつに至りました。
近藤、土方と袂別した永倉でしたが、彼は明治以後も生き続け、近藤が処刑された板橋の地に二人の名を刻んだ墓標を建てています。ドラマで義理堅いとされた永倉の人柄がしのばれますね。
永倉は、1915年(大正4年)に77歳で亡くなりました。彼が生前に書いた記録である「浪士文久報国記事」、「同志連名控」、「七ケ所手負場所顕ス」、「新撰組顛末記」は、新選組の研究のための貴重な資料となっています。彼は、それぞれの資料において、自らの事績ばかりではなく共に生きた同志達の活躍を生き生きと書き残しており、彼等の生き様を今に伝えてくれています。
この項は、永倉新八「新撰組顛末記」、「同志連名控」、「浪士文久報国記事」、新人物往来社「新選組銘々伝」、子母澤寛「新撰組始末記」を参照しています。
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