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2004年6月

2004.06.30

湯波半 4

yubahantenpo.jpg

これまで何度か取り上げてきた湯波半()、今回はお店の紹介です。

まずはお店の位置から。

京都市役所の前から西に向かい、3本目の筋が麩屋町通です。そこを右(北)に曲がって少し歩いた左側(西側)に湯波半はあります。目印はお店から通りを挟んだ向かい側にある白山神社。鳥居を探して歩くと判りやすいかもしれません。

お店は写真のとおり、昔ながらの町屋風の建物。なんでも明治以前の建物とか。おそらくは蛤御門の変の後に建て直されたものではないでしょうか。入り口には白地に「湯波半」と書いた暖簾が掛かっています。

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お店の中はこんな感じです。入るといきなりゆばを作る作業場になっていて、ショーウインドウやカウンターといったものは一切ありません。ですから初めて行くと、きっととまどう事と思われます。お品書きもないから、何を頼んだら良いかすらも判かりません。でも、心配は無用。お店の人が親切に教えてくれます。

ここで買えるのは、乾燥ゆば1本320円、引き上げゆば1枚210円、つまみ上げゆば1箱1200円など。ほかに値段は判らないのですが、刺身用のゆばもあります。あらかじめ何が欲しいか考えておいた方が話が早いでしょうね。

生のゆばは持って帰る途中で傷まないように、容器ごと凍らせた地下水を一緒に袋に入れてくれます。この地下水はゆばを作っている水なので、沸かしてお茶に使っても美味しいですよ。

ところで、以前湯葉と湯波の違いについて調べた時に、京都の老舗である湯波半が、なぜ日光で使う「湯波」を屋号にしているのかが謎だったのですが、最近になってようやくその理由を知る事ができました。なんと、日光に「湯波」を伝えたのが湯波半だったのですね。このため、日光では「湯葉」とは書かずに「湯波」と表記するようになったのだそうです。まさか、逆だったとは思いもしませんでした。

湯波半では、「湯葉」と「湯波」の混乱を避けるために商品は「ゆば」とひらがなで表記するようになったとか。確かに、それが一番確実で判りやすいかもしれないですね。


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2004.06.29

新選組!17の2

今回はメジャー隊士の永倉新八を取り上げます。主として、芹沢鴨との関係を探り、なぜ芹沢暗殺の刺客からはずされたのかを見ていきたいと思います。

ドラマでは、永倉は芹沢排斥については穏便に済ましたいと発言し、山南はこれを受けて「彼は義理堅い」から」と、当日は伏見警護を命じて遠ざけてしまいました。では、実際のところはどうだったのでしょうか。

永倉新八の経歴を簡単に記すと、彼は1839年(天保10年)に江戸の松前藩中屋敷で、江戸定府取次役を務める長倉勘次の次男として生まれています。ちなみに母は柳生藩家老の娘で、彼の剣の才能の根元はここにあるのかも知れませんね。兄が早世したため彼が跡取りでした。

8才の時に神道無念流岡田十松道場に入門し18才で本目録を得ています。19才の時に藩邸を出て同流の「百合元昇三道場」に住み込み、剣術の修行に打ち込みます。このとき、藩邸を出た事と関係があるのでしょう、名を「永倉」に改めています。この道場では22才まで修行し、免許皆伝を得ました。この頃、野口健司もこの道場で修行しており、恐らくは顔見知りであったと思われます。その後、心形刀流の坪内主馬の道場から招きを受け、師範代になっています。この道場では、島田魁と出会いました。

近藤との出会いが何時、どういう経緯であったのかは定かではありません。恐らくは、出稽古や道場巡りをしている内に知り合い、意気投合して試衛館道場に居着いたのではないかと考えられています。「浪士文久報国記事」では、「近藤の道場では、稽古が終わると議論をしては国事を憂いていた」とあり、その仲間として近藤、山南、土方、沖田、斉藤、藤堂、井上らを掲げています。同記事では、さらに続けてこの仲間が浪士隊に加入した時、組を作るため各自「組頭」を選ぶ様にと達しがあり、近藤の同士達は芹沢鴨を選んだとあります。これからすると、京都での宿舎が一緒だったのも、共に京都に残留したのも、元々近藤達が芹沢の傘下に入っていたからという事になる様ですね。永倉もこのとき初めて芹沢と出会っています。

ここから本題に入りますが、新選組(壬生浪士組)における永倉と芹沢の関係は、かなり良好なものだった様です。二人を結びつけたものは、やはり剣が同門だったということなのでしょう。永倉に依れば、新選組を作ったのは芹沢であり、同じく永倉の残した「同士連名記」では芹沢を特に「巨魁隊長」として「隊長」である近藤、新見とは区別しています。「浪士文久報国記事」では、会津藩より朝廷筋からの沙汰として芹沢を召し捕る様にと命じられた時に、「芹沢は新選組を創設した本人であり、まさか召し捕って差し出す訳にも行かない」と困惑している様子が伺えます。

また、芹沢と永倉が共に遊んだ事実として、新選組が大阪へ警護のために下った際に、近藤他の隊士が吉田屋へ繰り出す中、永倉と芹沢は二人して京屋に止まり酒宴を開いた事があります。このとき芹沢は酒乱の癖を出して、芸妓と仲居の髪を切るという乱行を働くのですが、永倉が間を取って事を納めています。

永倉が芹沢をどう評価していたかについては、永倉の「新撰組顛末記」において「芹沢は水戸天狗党の幹部として重きをなした人で、清河八郎でさえも一歩を譲る存在であり、芹沢の死は国家的損害であった」と記しており、相当高く買っていたものと思われます。

以上から、永倉は芹沢にかなりの親しみと尊敬の念を抱いていた事が伺えます。また、同じ道場に居た野口を始め、芹沢派の新見、平山、平間はすべて神道無念流の同門でした。永倉は、近藤派の中にあって、芹沢派と最も親しい関係にある異色の存在であったと考えられます。永倉が芹沢暗殺の刺客からはずされたのは、単に義理堅いという事ではなく、こうした人間関係があったためと思われます。もし彼に事前に話したとしたら当然反対をしたでしょうし、場合によっては芹沢方に付いた可能性もあります。近藤にしても永倉は必要な存在であり、芹沢粛清に巻き込んで失いたくはなかったのでしょう。ただし、事件当日に伏見警護に赴いたという記録はなく、角屋に泊まり込んでいたと子母澤寛の「新撰組始末記」にはあります。

しかし、せっかくの配慮にもかかわらず、芹沢の死後永倉と近藤の関係は次第に微妙なものになっていった様です。それが表面化したのが、禁門の変の後に永倉が原田、斉藤、島田等と共に会津藩主に充てた近藤の非行五箇条を認めた建白書でした。これは、近藤の増長ぶりを指摘したもので、近藤を切腹させるか、さもなくば自分たちが切腹すると強行に迫っています。この騒動は、会津藩主自らが間をとりもつ事で表面上は収まりましたが、後に建白書を共に出した一人である葛山武八郎が切腹し、永倉が一時幹部の座を追われるなどしこりを残しています。

さらに、1867年(慶応3年)には、伊東甲子太郎達と島原の角屋で酒宴を開き、伊東、斉藤の3人でそのまま3日間も流連して、隊規違反を問われて謹慎処分となっています。この時は、近藤が3人の切腹を主張したのですが土方がそれをなだめたとされています。

近藤と永倉が決定的に決別するのは、1868年(慶応4年)の事でした。永倉は甲陽鎮撫隊として近藤と共に勝沼で戦いますが、その指揮ぶりに疑問を持ち、江戸に帰ったあと原田と共に近藤と会い、今後の進み方について問いただします。近藤は、「私の家来となるならば同志とする。」と言い放ち、これに反発した永倉と原田は新選組を離脱し、芳賀宜道とともに「靖共隊」を結成するに至ります。

永倉は、沖田をもしのぐ腕を持つとされ、二番隊長として新選組を支えた幹部の一人でした。しかし、試衛館の門人であり、多摩の郷党でもあった土方、沖田、井上達とは微妙に立場が違っていた様です。その事が芹沢派との繋
がりをもたらす一方、芹沢の死後は様々な形でひずみとなって現れ、最期は袂を分かつに至りました。

近藤、土方と袂別した永倉でしたが、彼は明治以後も生き続け、近藤が処刑された板橋の地に二人の名を刻んだ墓標を建てています。ドラマで義理堅いとされた永倉の人柄がしのばれますね。

永倉は、1915年(大正4年)に77歳で亡くなりました。彼が生前に書いた記録である「浪士文久報国記事」、「同志連名控」、「七ケ所手負場所顕ス」、「新撰組顛末記」は、新選組の研究のための貴重な資料となっています。彼は、それぞれの資料において、自らの事績ばかりではなく共に生きた同志達の活躍を生き生きと書き残しており、彼等の生き様を今に伝えてくれています。

この項は、永倉新八「新撰組顛末記」、「同志連名控」、「浪士文久報国記事」、新人物往来社「新選組銘々伝」、子母澤寛「新撰組始末記」を参照しています。


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2004.06.28

新選組!17

新選組! 第25回「新選組誕生」

とうとう芹沢鴨の最期が来ました。佐藤浩市の大立ち回り、なかなかの迫力がありましたね。最期は斬られてしまいましたが、土方の刀を折り、睨みつけて射すくめてしまうしまうなど、筆頭局長としての意地は見せられたのではないでしょうか。文机に躓くかわりに瓢箪に足を取られたのも、このドラマの芹沢らしい演出だったのではないかと思います。

ドラマでは、土方が芹沢にしきりと酒を勧め酔わせようとしていましたが、芹沢に魂胆を見透かされていまいます。この時点での役者の違いを示しているかの様でしたが、実際にはもっと巧妙にふるまっていた様です。

永倉新八の「浪士文久報国記事」によると、角屋での会合が終わったあと、土方は芹沢、平山、平間の3人と共に八木邸で酒宴を開いています。このとき、芹沢はお梅、平山は桔梗屋のお栄、平間は輪違屋の糸里を呼んでいました。土方だけが相手がおらず、おそらくは座を盛り上げるのに腐心していた事でしょう。夜更けになり、芹沢達を十分酔わせた土方は、酒を下げさせお開きにします。3人がそれぞれの相手と寝入った事を見届けた土方は、討ち入りやすい様に八木邸の玄関の障子を開け、門の扉も開けたままにしておきます。

「浪士文久報国記事」では、ここで御倉伊勢武という人物が登場します。この人は長州藩の間者として後に処分された人ですが、このときは土方が冷徹な策謀を巡らせ、間者としての腕を計るため、また万が一失敗しても間者が一人死ぬだけという計算により真っ先に斬り込ませました。これに続いたのが、土方、沖田、藤堂だったと言います。襲われた3人は、一つの部屋を屏風で3つに仕切って寝ていました。平山は寝ている所を一刀の下に首を切られてしまいます。芹沢は屏風の上から刀を突き立てられ、枕元の刀を取って抜こうとした所で腕を切られて絶命してしまいました。お梅もこのとき巻き添えを喰って首を切られて亡くなっています。平間重助も屏風の上から5、6回突き立てられたのですが、何故か糸里と共に無傷に済み、この後行方知れずになったとあります。また、お栄については厠に行っていて無事でした。

この暗殺については諸説があり、実行犯としても前出の4人のほか原田佐之助と山南啓助それに井上源三郎を含めたいくつかの組み合わせがあって本当に誰が襲ったのかは定かではありません。土方と沖田が居たこと、また
近藤勇と永倉新八はその場に居なかった事は間違いないようです。

また、芹沢が殺された様子についても、最初に沖田が斬りつけたところ、起き直った芹沢が脇差しで反撃して沖田の鼻の下に傷を付け、そこを背後から土方に斬られて絶命したという説(西村兼文:新選組始末記)、番組の最後に紹介されていたように斬りつけられながらも隣室まで逃げて文机に躓いて転んだところを止めを刺されたという説などがあります。(八木家に伝わる話)このとき出来たという鴨居の傷が八木邸に残っており、これもドラマに生かされていましたね。

さらに、ドラマでは子供が障子から顔を出して様子を見ていましたが、子母澤寛の「新選組始末記」によると、芹沢は八木家の子供が寝ている布団の上に倒れ込み、刺客はそこを散々に斬りつけます。このとき、八木家の息子の一人である雄之助が足を切られてしまい、事件の翌日に沖田総司が気の毒そうに「勇坊まで怪我をしたそうですね。」と話しかけてきたとあります。

有名な事件にも係わらず真相がはっきりしていないのは、それほど隠密裏に事が運ばれ、その後も箝口令が敷かれていたためと思われます。「浪士文久報国記事」を書いた永倉新八にしても当日は何も知らされておらず、その後も真相を聞かされる事は無かったと言っています。

ドラマでは、山南が平間重助を助けます。いかにも堺雅人演じる山南らしい優しさが感じられて良い感じだったのですが、平山も助けようとしたところを逆に斬りかかられ、危ういところを原田佐之助に助けられていました。「戦場では、躊躇した方が負けなんだ。」と原田に厳しく言われていましたが、この優しさが山南の命取りになるという暗示なのでしょうか。

また、野口健司も近藤に命を助けられていました。このドラマの野口は岡本幸作が好青年を演じており、彼に詰め腹を切らせるというのは確かに辛いものがありますよね。ですから、こういう設定にしたのは判らなくもないです。

でも、マイナー隊士を紹介してきた私としては、野口と平間の設定には異議があります。それは、史実と違うということではなく、彼等の生き様の描き方という点についてです。

まず、平間については以前に紹介したように芹沢家の家臣の家柄で、用人の様な存在でした。彼は自身の意思ではなく、芹沢に尽くすために上洛して来ました。彼にとっては、新選組は二の次で芹沢こそ全てです。その彼が芹沢がまさに殺されようとしているときに、命を助けてやると言われて逃げ出したりするでしょうか。及ばずながらも山南に斬りつけて、芹沢の下に駆けつけようとするはずです。それを戦わずして逃げ出したとなれば、主筋の者を見捨てた卑怯者として一生指弾され続ける事になります。

また、野口にしてもこの時代に生きる志を持った武士として、先輩が奸計に陥り殺されようとしている時に、自分だけ助けてやると言われておめおめと生き残れるものでしょうか。この当時は臆病者とされる事が最大の恥であり、この
ドラマのとおりに生き残ったとしたら武士の世界では一生爪弾きにされ、二度と日の目を見ることは出来ないでしょう。それは武士にとって、死ぬより辛い事のはずです。

今の時代のドラマなら何よりも生き残る事の方が大事でしょうけど、この時代の背景を考えると、新見やこの後の山南の様に死場所を与えてやった方が彼等にしても本望だったのではないでしょうか。どのちみち史実とは違う設定にしているのですから、野口が近藤に斬りかかって返り討ちに合うとか、平間はせめて芹沢に説得されて落ち延びるとかいう設定には出来なかったものですかね。なんていうのは、要らざるたわごとかな。


この項は、子母澤寛「新選組始末記」、別冊歴史読本「新選組の謎」、木村幸比古「新選組日記」、新人物往来社「新選組資料集」「新選組銘々伝」を参照しています。


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2004.06.27

新選組!展

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昨日、白牡丹のつぶやきで紹介されていている「新選組!展」に行ってきました。
写真な日々
の記事によると東京ではかなり混雑していたようなので、あえて雨が
降っている日を選んで出かけてみました。

上の写真は、会場の京都文化博物館。北側から入ったのですが、こっちは裏口と
いう感じかな。

sinsenkumiten2.jpg

で、チケットがこれ。うーん、この感じ良いですね。パネルにして売ってくれないかし
らん。

会場は4階と3階の展示室。雨の日にもかかわらず、混雑という程ではないものの
かなりの人が来ていました。肝心の内容はというと、素晴らしいの一言ですね。本
でしか見たことのない貴重な資料が目の前にあるのですから、もう興奮状態。あっ
と言うまに時間が過ぎていました。永倉新八の陣羽織、島田魁が身体に巻いてい
たという東照大権現の旗、前川邸の雨戸や窓の格子、錦の御旗など見応えのある
資料がいくつもあります。

中でも面白かったのが、土方の有名なモテ自慢の手紙。活字では読んだ事があっ
たのですが、原文で読むとぬけぬけと自慢している様子がよく判りますね。長男と
一緒になって解読しながら、思わず「いい加減にせいっ」とつっこみを入れてしまい
ました。また、壬生の屯所に現れた松本捨助について、何しに来たか判らないから
追い返すと書いた箇所も、ドラマの捨助を彷彿とさせて笑えます。

新見錦が霊山護国神社に祀られているという資料も興味深かったですね。本の中
でしか知らなかった事ですが、原本を見せられるとやっぱり長州の間者だったので
は、と改めて思ってしまいます。

新選組のファンとしては堪えられない内容で、時間と体力があったら何度でも行っ
てみたくなる展示会でした。

新選組!展公式ホームページ

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2004.06.23

新選組!16の2

今回の新選組マイナー隊士の紹介は、井上源三郎です。

井上家は、遠祖は駿河今川家に属していました。今川家滅亡の後武田家に仕え、さらに武田家滅亡後日野へ移り住んだとされています。八王子千人同心の株を継いで幕末に至っており、源三郎は七代目にあたる初代松五郎の三男として1829年(文政12年)に生を受けました。家督を継いだのは次男の松次郎で、父親の松五郎を襲名しています。

井上源三郎と言えば、通称「源さん」と呼ばれ、百姓家の隠居のような風貌で、試衛館の内弟子として道場の用人の様な立場にあり、剣の腕は並以下だが篤実温厚な性格で皆から親しまれていた、というのが一般的な人物像でしょうか。司馬遼太郎の「新選組血風録」の「三条磧乱刃」に描かれた姿が代表的なイメージであり、ドラマでも概ねこうした描写がされていますね。新選組隊士の近藤芳助が残した書簡では「文武共に劣等の人なり」と酷評されており、これが源三郎のイメージを作ったのかもしれません。
しかし、調べてみると少し違ったイメージの井上源三郎が浮かんできます。

まず剣の腕ですが、子母澤寛の「新選組始末記」では目録とされており、これがその後の小説等では踏襲されて来ました。しかし、近年日野において源三郎の免許が発見され、1860年(万延元年)に免許を受けている事が判っています。また、試衛館の内弟子だったという事はなかった様で、日野の佐藤彦五郎の道場に通って修行に励んでいた様です。ドラマにもあった1861年(文久元年)に行われた近藤勇の天然理心流四代目襲名の野試合では、本陣の鉦役として参加しています。

浪士組結成の情報を試衛館にもたらしたのは、源三郎だった様です。土方歳三の書簡に江戸から伝わっていた噂を、源三郎から確かな情報として聞いたとあるそうです。その浪士組では、近藤ら試衛館の面々とは別の新見錦の組に入っています。これは草創期におけるちょっとした謎なのですが、この組には沖田林太郎ら日野の人々が加わっていることから、源三郎は試衛館一門としてよりも日野宿の人として応募したのではないかという説があります。試衛館の繋がりより地縁の繋がりの方を優先したのかも知れませんね。

京都では、源三郎はその日野組の中でただ一人残留します。他の沖田林太郎達には妻子が居た事が帰還の理由のひとつになっている様です。源三郎は、新選組創設メンバーの一人となり、副長助勤を勤めることになります。

この頃、兄の松五郎も千人同心として将軍家茂の警護の為に上洛していました。この松五郎の元に新選組(当時は壬生浪士組)の面々が訪れている事が松五郎の日記から判ります。土方歳三も日野の人ですが、この松五郎を頼りにしていたらしく、頻繁に訪れています。話の内容は、新選組草創期における色々な相談事だった様で、芹沢鴨のグループとの折り合いについてや、近藤勇の増長についての相談などでした。土方は、松五郎を訪れる時には大抵源三郎を伴っており、この兄弟に対する信頼ぶりが伺えると同時に、日野の地縁による繋がりの強さも感じられます。翌年、日野の名主である富澤忠右衛門が上洛してきた時にも、土方、源三郎、沖田総司が歓待しており、ここでも郷党の繋がりを伺わせます。

源三郎の新選組での活躍は、まず1864年(元治元年)5月16日に起きた大阪町奉行所与力の内山彦次郎の暗殺があります。源三郎は、近藤、土方、沖田、永倉、原田、島田らとともに参加したとされています。

次いで、池田屋事件においては土方隊に属して参加しており、永倉新八の「新選組顛末記」では、二階の梁の上に居た浪士を突き刺したとあります。この活躍により、報奨金として17両を受け取っています。また、禁門の変においては、20名の部下を引き連れて天王山へと向かい、土方の指揮のもと山下を固めています。

1865年(慶応元年)の編成では、源三郎は六番組長となっており、依然として幹部の一人として重要されていました。慶応3年9月には、隊士募集のために土方と共に江戸へ下っており、これが最期の帰郷となりました。この年、大政奉還が行われ、翌年1月に鳥羽伏見の戦いが始まったからです。

源三郎は、松五郎の次男泰助と共に参戦しています。泰助はこのときわずかに11才でした。源三郎は、1月5日に行われた淀千両松の戦いで最期を迎えます。ここは、鳥羽伏見の戦いにおいて最激戦地となったところで、最初は幕府軍が優勢でしたが次第に戦況は新政府軍に傾き、新選組にも退却命令が出されます。ところが、源三郎は引きませんでした。泰助が後に「おじは、普段は無口でおとなしい人だったが、一度こうと思いこんだらテコでも動かない様なところがあった。」と言っていますが、この時もそうした性格が発揮されたのかも知れません。源三郎は銃弾を浴びて、その生涯を閉じました。このとき一緒にいた泰助は、源三郎の首を落とし、刀と一緒に大阪まで持ち帰ろうとしたのですが、あまりにも重く、途中の寺の門前の田の中に埋めたと言います。残念ながらこの寺の名は伝わっていません。それにしても、11才の子供には、とても過酷な体験だった事でしょうね。

この泰助の晩年の肖像画が今に伝わっていますが、おそらく源三郎と面差しが似ていた事でしょうね。確かに、篤実な百姓家の隠居という表現がぴったり来る風貌です。ドラマでは、近藤の近くに仕えて雑務をこなす一方で、迷走する沖田を憂う姿が描かれています。実際にも一門の中の年長者として、土方や近藤から頼りにされ、調整者としての役割を果たしていたものと思われます。新選組の一つの顔である多摩の郷党を象徴する存在だったのではないでしょうか。

この項は、新人物往来社「新選組銘々伝」、永倉新八「新選組顛末記」、子母澤寛「新選組始末記」、司馬遼太郎「新選組血風録」を参照しています。


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2004.06.22

新選組!16

新選組!第24回「避けては通れぬ道」、いよいよ三谷ワールドが全開になってきましたね。これまでで一番面白かったかも知れません。

新見錦を追いつめていく土方と山南。芹沢を巻き込んだ罠の仕掛け方は、古畑任三郎が犯人を追いつめるプロセスそのままでしたね。オウムを使った演出といい、お梅に迫られた永倉新八の反応といい、随所に三谷幸喜の世界が溢れていました。

そのオウムの声は、永倉新八を演じている山口智允の声帯模写だったそうですね。「アホ。オマエ、シヌデ、シヌデ」。よく見かける演出ではありますが、佐藤浩市の演技とあいまって、実に効果的でした。

このオウムを展示した見せ物小屋については、当時の商人が書いた日記に出ており、松原烏丸にある因幡薬師で実際に行われたようです。子母澤寛の「新選組始末記」にも描かれており、オウムの他に虎の檻があったのですが、芹沢が「中に人が入っているに決まっている。」と言って脇差を抜いて突きつけたところ、虎が猛然と吼えたため、さすがの芹沢も驚いて「こりゃ、本物だ。」と言って刀を納めます。ところが、この小屋を興行していた香具師が収まらず、芹沢に食ってかかります。これに腹を立てた芹沢は、香具師に対して、「オウムは色を塗ってあるに決まっている、すぐに洗って見せろ。」と迫ります。芹沢と一緒に居た佐々木愛次郎が間をとりなして場を納めたとありますが、ドラマはこのエピソードを取り込んでいる訳ですね。

新見錦を切腹に追い込んだ局中法度。これこそ鉄の掟を持った新選組を形作ったものとして、史上最も有名なものです。

一.士道に背き間敷事
一.局を脱するを不許
一.勝手に金策致不可
一.勝手に訴訟取扱不可
一.私の闘争を不許
右条々に相背候者切腹申付べく候也

峻烈極まりない掟ですが、実はその存在については疑われています。この法度が最初に出てくるのが永倉新八の語り残しを記録した「新選組顛末記」で、次いで子母澤寛の「新選組始末記」です。「顛末記」ではドラマにあった最初の4箇条が芹沢、近藤、新見の三人で定めた禁令として記されており、「始末記」ではさらに最後の「私の闘争を不許」を加えて近藤が定めた局中法度書として紹介されています。ところが、これ以外にこの法度を記録した同時代の記録が無いこと、初期には脱走が相次いでおり、こうした法度が適用された形跡が無いことなどから、少なくとも結成当初には無かっただろうというのが定説になりつつあります。

では全く無かったというとそうでもなく、新選組と同時代を生きた西本願寺の侍臣西村兼文の残した「新撰組始末記」には、1864年(元治元年)11月に伊東甲子太郎が加盟したという記事に続いて、「厳重に法令を立て、その
処置の辛酷なる一例を挙げるに」として、田内知という隊士が「士道不覚悟」を申し渡されて切腹させられたとあります。また近藤芳助という隊士が残した書簡には、1864年(元治元年)9月に入隊した後、局内の様子を見て脱退
したいと考えたものの、「解約セントスルモ許サズ。結局死サザレバ隊ヲ脱スルヲ得ズ。」と記されています。これらから、局中法度という名称や各条文の文言はそのままではないにしても、似たような掟はあったものと思われ、その成立は中期以後だったのではないかと考えられています。

こうしたことから、新見錦の切腹理由として通説となっている隊規違反という説は疑わしいと考えられ、永倉新八の「浪士文久報国記事」にある水戸藩士とのいざこざから切腹したという説が重みを持って来る様に思われます。私としては、木村幸比古さんが説く「長州間者説」が面白いと思うのですけどね。

新見の死については、この他にドラマにあった様に土方が仕組んだという説もあります。出典を思い出せないのですが、大略を記すと、芹沢がかねて思いを寄せていた遊女が居ました。芹沢は何とかして落籍せようと考えていたのですが、それより早く新見が身請けしてしまい、これを芹沢に自慢します。芹沢は当然面白くなかったのですが、これを見ていた土方が芹沢を扇動し、新見が勝手に借金をしたという証文を見せ、新見を隊規違反で処分してはどうかと唆します。芹沢は、まんまとこれに乗り、新見に切腹を申しつけ、野口健司が介錯をしたという説です。細部は異なりますが、芹沢を巻き込んで新見を陥れたという点ではドラマと共通するところがありますね。

その新見の切腹のシーンは、見応えがありました。絞り出すように芹沢と山南に投げかけた叫び声は、迫力がありましたね。「これで良いのか」という山南に対する問いかけは、山南を襲う運命を読み切っているかの様です。先の見える新見らしいセリフですね。彼ほどの者がつまらない罠に落ちたものです。

その新見の切腹を土方と山南が介錯もしようとせず端座して見守っていましたが、私には彼等が鬼に見えました。普通、切腹の時には必ず介錯人が付き、腹に刀を突き立てたかどうかという瞬間に首を打ってしまいます。切腹はとんでもない苦痛を伴うことからなるべく苦しませない為の処置なのですが、仮に一人で腹を切った場合には凄惨な事態を招く様です。このあたりは、浅田次郎の「壬生義士伝」の吉村貫一郎の最期のシーンに詳しく描かれていますね。ドラマで介錯をしなかったのは、首を落とすという行為が残酷に見えるためと思われますが、実際には介錯をしない方がよっぽど残酷な仕打ちです。いずれ出てくる山南の切腹シーンでは、どの様に描くのでしょうね。

最後に、第20回「鴨を酔わすな」で新見がつぶやいた「だから芹沢さんは今ひとつ大きくなれないのだ。」という冷笑とも取れるセリフは、今回の「同郷だから付いてきただけだ。」というセリフのための伏線だったのですね。今さらながら三谷演出の細かさに気が付かされたシーンでした。

この項は、子母澤寛「新選組始末記」、永倉新八「新選組顛末記」、新人物往来社編「新選組資料集」、「新選組銘々伝」、木村幸比古「新選組日記」、「新選組と沖田総司」を参照しています。


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2004.06.19

梅シロップ

umesiroppu.jpg

昨日TOKIKOさんにお伺いした梅シロップを仕込んでみました。
今回は、一番オーソドックスな方法を選んでいます。使ったのは
梅と氷砂糖とホワイトリカー。梅酒と同じ材料ですが、分量が違
います。

材料の割合
梅1kg、氷砂糖1kg、ホワイトリカー100CC

梅を洗って水気を取り、へたも取って一晩置きます。この梅と氷
砂糖を容器に交互に入れ、ホワイトリカーを注ぎ込めば準備OK。
あとはカビが生えないように毎日上下をひっくり返して、全体に
液がかかる様にしてやります。念のために冷蔵庫に入れておけ
ば、より安心。

昨日教わった梅に切れ目を入れる方法は、あえて取っていませ
ん。初めてだから確実にと考えての事です。

TOKIKOさん、こんなものでいかがでしょうか。


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2004.06.17

梅酒の仕込み

GALLERYでは、梅干を漬けておられますが、わが家では梅酒を作る事に
しました。

umenomi.jpg

材料は、何はともあれ梅。分量は1kg。フルーティーな香りが素晴らしい。

umesejyou.jpg

まず、梅を洗って拭きます。このとき、水分を残さない事がポイント。水気が
あるとカビが生える原因となります。次に、爪楊枝で丁寧にへたを取ります。

umetokoorisatou.jpg

梅酒用の瓶を用意して、梅と氷砂糖を交互に入れていきます。氷砂糖は500g
から1kg。

whitelika.jpg

最後にホワイトリカー1.8Lを入れれば仕込みは終わり。後は3ヶ月程待って、
氷砂糖が溶け、梅が沈みきったら出来上がりです。

umeshuichinichi.jpg

仕込んでから1日経ったところ。梅は上に浮き、氷砂糖は全て底に沈んでいま
す。ここで疑問なのですが、こうなるのなら梅と氷砂糖を交互に入れる必要は
無いのでは...。


それはともかく、梅が沈みきるのが待ち遠しいです。

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2004.06.16

新選組!15の2

今日の新選組マイナー隊士の紹介は、松原忠司です。

松原忠司は大阪浪士という説もありますが、光縁寺の過去帳には生国播州産とあり、英名録にある播州小野の産まれが正しいようです。ドラマでもこの説をとっていましたね。生年は判っていませんが、新撰組始末記では27、8才で、でっぷりと太っていたとあります。

1863年(文久3年)5月25日付けで隊士35名の連名で幕府に提出した意見書の中に氏名が見えるので、入隊時期はこれより前と考えられます。ただし、ここには河合耆三郎の名はないので、ドラマのように一緒に入隊したという事はない様ですね。

ドラマの入隊試験では、斉藤一を相手に素手で立ち向かい見事に倒していまいしたが、彼は関口流柔術の達人であり、始めは副長助勤、後に四番隊隊長兼柔術師範を務めています。非常に豪快な性格とやさしさを併せ持っていたようで、壬生では「親切者は山南、松原」と言われていました。

八・一八の政変のときには、坊主頭に鉄入りの白鉢巻きを付け、大薙刀を持っていたため、あたかも弁慶を思わせる姿だったそうです。そして行軍の道々に「方今の形勢累卵如し」と節を付け、声高々と叫んで通ったとあります。ドラマの第23回「政変、八月十八日」ではなにやら張り切っている様子が伺えましたが、こうした逸話を踏まえての演出だったのですね。

池田屋事変では土方隊に属して参戦し、報奨金として15両を受け取っています。また、禁門の変のときに、「先鋒を承っていながら甲冑が無いとは何事だ!」とごねる山南啓助を「私が先生の前に立ってこの腹で弾を防ぎますから大丈夫です。」と大きな腹を叩きながらなだめたと言います。

この松原忠司は、1866年(慶応元年)9月1日に亡くなっていますが、その死には幾つかの説があります。まず公式には単に病死となっている様です。次いで、隊務において失策があり切腹を図ったが果たせず、平隊士として復帰したものの切腹の傷が悪化して亡くなったとする説があります。そして、良く知られているのが「壬生心中」と言われる説です。

ある日、松原が祇園で飲んだ帰りに芸者と連れだって四条大橋に通りがかったところ、浪人風の武士とすれ違いました。何を思ったかその浪人は、「このご時世に芸者連れとはいい身分だ。」とつぶやきます。これを耳にした松原は侮辱されたと思い「もう一度言ってみろ!」と浪人にからみます。浪人は何も言わないと弁解しますが、押し問答の末、松原はこの浪人を斬ってしまいます。殺してしまった後で後悔の念に囚われた松原は、浪人の懐にあった銭入れから名前と住所を知り、死体を担いでその家まで行きました。

家から出て来たのはその浪人の妻で、家の中には幼い子供が病気で寝ていました。松原はその妻に対し、「ご主人は四条大橋の上で5、6人の浪士と斬り合い果てられた。自分はご主人の加勢に出たのだが間に合わなかった。」と告げます。妻の嘆く様は尋常ではなく、気の毒に思った松原は、「これから力になるから。」と慰めた上でいくらかの金を置いて引き上げます。その後毎日のように見舞いに訪れる様になり、やがて子供が亡くなっても松原は通い続けました。この事が近藤、土方の耳に入ります。

土方は松原を呼び出して、「人妻を手に入れるためにその主人を殺し、親切面をしてその妻女に近づき、自分のものにしてしまう武士があったとしたら、君はどう思うか。」と詰め寄ります。これを聞いた松原は、「自分の不徳の致すところ。」と言い捨てて自室へ戻り、刀を腹に付き立てます。これを止めたのが同じ柔術師範の篠原泰之進でした。篠原は松原をなだめて刀を取り上げ、傷の手当てをしてやります。傷の癒えた松原は四番隊長として復帰しますが、隊務につこうとはせず、これを見た土方は松原を隊務不精励として平隊士に落としてしまいます。代わりに松原はあの妻女と深い仲になり、ますます隊内での立場を悪くしてしまいます。あれほど豪快で快活だった性格が嘘のように気鬱になり、やがてすっかりひねくれしまいました。そして、そうこうするうちに切腹しかけた時の傷が悪化してきます。進退極まった松原は、遂に妻女を柔術の技で絞め殺し、自らは腹を切って果ててしまったのでした。

以上が壬生心中のあらすじです。これは子母澤寛の創作と言われていましたが、やはり実話ではないかという説も出ています。仮に実話だとすると時代小説を地で行くような逸話ですね。「新選組!」では、どんな描き方をするのでしょうか。

この項は、子母澤寛「新選組始末記」、別冊歴史読本「新選組の謎」、木村幸比古「新選組日記」、進人物往来社「新選組資料集」「新選組銘々伝」を参照しています。


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2004.06.15

新選組!15

新選組! 第23回「政変、八月十八日」

gyoukadou.jpg

蛤御門で見せた佐藤浩一演ずるところの芹沢鴨の勇姿、なかなか見事
でしたね。もうじき居なくなると思うと残念です。もっと格好良いところを見
せて欲しかったな。

その芹沢鴨、大和屋の一件で会津藩の意向を受けた近藤に迫られると、
新見錦に向かって、「おまえ責任を取って腹を切れ。」とさらっと言ってのけ
ます。さすがの新見も唖然となっていましたが、腹心の部下に向かってな
んて冷たい仕打ちでしょうか。後でやけ酒を飲んでいた新見の後ろ姿が何
とも可哀想でした。

ドラマでは、責任を取らされた新見が謹慎の上副長に降格となっていまし
た。新見の地位については、永倉新八の「浪士文久報国記事」では副長
と記載されており、(出典は判らないのですが)どこかで降格があったとい
う説がある様です。このドラマでもこのあたりを踏まえての設定のようです
ね。新見は次回で切腹させられてしまう様ですが、彼ももう少し活躍して
欲しかったな。

さて、壬生浪士組が出陣した八・一八の政変ですが、ドラマにあった様に
当時朝廷を牛耳っていた長州藩の追い落としを図った、薩摩藩と会津藩
によるクーデターでした。薩摩藩については長州藩と同じ尊攘派のはず
なのですが、これに先立つ5月20日に起こった猿ケ辻の変をきっかけに
朝廷を追われており、長州藩の独走を苦々しく思いながら返り咲きの機
会を待っていました。そして、「大和行幸」を長州藩による政権乗っ取りの
企みと判断し、このクーデターを会津藩に持ちかけたのでした。ドラマで山
南啓助が薩摩藩は会津藩を利用しているだけではないかと心配していま
したが、その後の経過を見ると事実だったようですね。これを理解出来た
のは新見錦ただ一人。うーん、彼を死なせてしまうのは本当に惜しいです
ね。

蛤御門で活躍した芹沢でしたが、「新選組始末記」に記載されている「騒
擾日記」には、門を守る会津兵の構えた槍の穂先を扇ぎ立て、悪口雑言
を浴びせかけたとあります。これを見ていた会津兵は、その度胸に驚きな
がらも、その態度を「にくさもにくし」と書き記しており、これも芹沢粛清の一
因となったのかも知れません。

その浪士組が守備についた御花畑ですが、京都御所の建礼門の南にあり
ました。元はかなり広かったようですが、和宮降嫁の後に有栖川宮熾仁親
王の屋敷が建てられ、この事変の頃には三分の一程度の広さになっていた
様です。御所のすぐ南に位置していますから、どうでも良い場所ではないと
思われますが、最前線ではなく、後詰めあるいは敷地警備といった役割だっ
た様ですね。近藤達が望んだ華々しい戦いが繰り広げられる位置とは違っ
ていたでしょうけれども、何の実績もない以上やむを得なかったでしょうね。

この御花畑は、約一年後に起こる禁門の変(蛤御門の変)の時には松平容
保が仮本陣として詰める所となります。ここは凝華洞とも呼ばれ、上の写真
は現在の京都御苑にある凝華洞の跡地を示す木柱です。ここには銀杏の巨
木があるのですが、新選組や会津公の活躍を見つめてきた木なのかも知れ
ませんね。

新選組マイナー隊士の紹介は、明日アップします。

この項は、学研「幕末京都」、「血誠 新選組」、新人物往来社゛新選組の謎」
子母澤寛「新選組始末記」、木村幸比古「新選組日記」、司馬遼太郎「龍馬
がゆく」、「王城の護衛者」、「最後の将軍」を参照しています。

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2004.06.08

新選組!14の2

今回の新選組!マイナー隊士の紹介は、松本捨助です。

ドラマでは、良く似た名前の架空の人物「瀧本捨助」が登場していますが、このモデルとなったのが松本捨助です。中村獅童が演じる「瀧本捨助」は三谷幸喜が創作した人物ですから二人が全く重なる訳ではありませんが、調べてみるとかなりの部分を松本捨助の人物像から流用しているのが判ります。

松本捨助は、1845年(弘化2年)に武州本宿村(現在の府中市)の百姓代松本友八の長男として生まれています。この松本家は、家伝によると先祖は甲斐武田家の家臣であり、武田家の滅亡後、徳川家康に従って八王子千人同心となったとあるそうです。

子供の頃から日野宿の名主、佐藤彦五郎の道場に通い、そこには土方歳三や井上源三郎が居ました。捨助は、目録まで得ている様ですね。

ところが、捨助はここから道を踏み外します。多摩の侠客小金井小次郎一家に出入りするようになり、放蕩の限りを尽くす様になりました。実家では捨助を持てあまし、捨助が16才の時にこれを勘当とした上で、土方歳三の兄の子である錠之助を迎えて跡取りとします。

捨助が勘当された2年後の1863年(文久3年)に、浪士組結成の話が持ち上がります。捨助の周囲でも、土方歳三、井上源三郎、沖田林太郎らが参加する事となり、捨助もこれに加わろうとします。しかし、勘当されたとはいえ捨助は松本家の一粒種であり、万が一の事があってはいけないと周囲の猛反対に遭い、泣く泣く断念せざるを得ませんでした。

しかし、諦め切れない捨助は、同年11月に京都に上り、土方達に入隊させてくれる様頼みます。しかし、土方は松本家の意向を汲んでこれを拒み、郷里へ送り返しました。このとき、捨助は土方の手紙や隊士の刀を託され、持ち帰っています。故郷に帰った捨助は妻を迎え、21才のとき、一女を授かりました。

5年後の1868年(慶応4年)、新選組は京都で敗れ、江戸へ帰還します。そして、幕府より甲府城の占拠を命じられ、甲陽鎮撫隊として甲府へ向かいますが、捨助は、この甲陽鎮撫隊の一員として、晴れて仲間入りを果たす事が出来ました。

ところが、甲陽鎮撫隊は、多摩の行く先々で歓迎を受けては泊まりを重ねて時間を費やし、甲州に着いたときには既に官軍が甲府城に入った後でした。やむを得ず勝沼に布陣して官軍を迎え撃ちますが、衆寡敵せず、3月6日に鎧袖一触で敗れ、江戸へと敗走します。捨助は、この戦いで太股に銃創を負い、生家に帰って療養することになります。

傷の癒えた捨助は、五兵衛新田にいた新選組と合流し、さらに会津へと向かいます。会津での捨助は、始めは隊長付きとして斉藤一に属し、土方が会津に到着した後は常に土方の側に居たようです。捨助はここでも負傷しますが、命に別状はなく、9月には土方と共に仙台に赴き、土方が奥羽列藩同盟の会議に出席したときには、次の間で控えていたそうです。

土方は、仙台から榎本武揚と共に蝦夷へ向かいます。しかし、後の無い事を知っていた土方は捨助を説得し、10両の金を与えて離隊させます。捨助は、やむなく新政府軍に投降しますが、ほどなく許され、故郷へと帰ります。しかし、故郷では妻が亡くなっており、暫くの間は人目をはばかって土蔵で暮らしていたそうです。

その後、再び小金井小次郎の元に身を寄せ、旧幕臣の山岡鉄舟とも交流がありました。そして、1887年(明治20年)に井上源三郎の姪モトを妻に迎え、この頃正業に戻っているようです。さらに付け加えると、沖田総司の甥芳次郎がモトの妹と結婚し、捨助とは義理の兄弟になっています。

晩年に向けての捨助は、まず三河の渥美にあった三河セメント株式会社と関係している様です。さらに名古屋へ向かい八重本商店にやっかいになっています。そして、郷里に帰って生家の近くで米屋を開き、1915年(大正4年)に74才で亡くなりました。

捨助が三河セメントにいた頃の写真が残っているのですが、小柄な人で、いかにも遊び人上がりというイメージを受けます。ドラマの瀧本捨助もこの風貌を元に役作りをしたのでしょうね。

実在の松本捨助でもかなりのドラマが作れそうですが、わざわざ瀧本捨助という人物を創作したのは、三谷幸喜が喜劇作家としての腕を存分に振るいたかったかったからでしょうね。最初から創作と断っていますから、史実に囚われる必要もなく、松本捨助の美味しい部分だけを使う事が出来ますから。ドラマの捨助はどうしようもない存在ですが、どこか憎めず、多分三谷幸喜が一番楽しく書いてる人物なのではないでしょうか。

この項は、新人物往来社「新選組銘々伝 松本捨助」を参照しました。

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2004.06.07

新選組!14

新選組!第22回「屋根の上の鴨」、サブタイトルどおり芹沢は屋根に
登ってしまいました。ほとんど狂気と言って良い、鬼気迫る演技でした
ね。さすがに、佐藤浩市です。

それにしても、このところの芹沢は常軌を逸していています。佐伯又三
郎をどう始末するのかと注目していたのですが、理由らしい理由もなく、
ただ気に入らないというだけで斬り捨ててしまいました。これでは、全く
の殺人鬼です。

佐伯の死については以前も触れましたが、
1.長州藩の間者であったが、裏切りが発覚して久坂玄瑞により始末
  された。
2.芹沢の命により、佐々木愛次郎の恋人を奪うべく佐々木を斬ったが
  その恋人に手を出したために芹沢の怒りに触れ、殺された。
3.芹沢の持っていたうにこうる(ユニコーン=一角獣、一角鯨)の根付
  けを盗んだ事が発覚し、斬り殺された。
などの説があります。
いずれにしても禄な死に方ではありませんが、このドラマの設定はこの
どれよりも酷いですね。それだけ芹沢の非道さを強調しているという事
でしょうか。

大和屋の焼き討ちについては、ドラマにあった様に、天誅組に献金をし
た事を聞き込んだ芹沢がこちらにも出せと迫り、これを断られた事に腹
を立て、蛮行に及んだというのが通説になっています。また、新選組始
末記では大砲を引き出し、土蔵に向けて撃ち込んだとなっていますが、
これは子母澤寛の創作で、ドラマの様に焼き討ちにしたという方が正し
い様ですね。

そして、焼き討ちに至った別の原因として、近藤達が仕切った相撲興行
に対する当てつけではないかという説もあります。相撲興行は8月7日に
祇園北林で行われ、続いて12日にも壬生で実施されて、大いに賑わい、
壬生浪士組に対する評判も大いに上がったと言います。これを快く思わ
ない芹沢が、わざと騒ぎを起こしたのではないかと言う説です。ドラマの
設定もほぼこれに沿っていましたね。実は、この説には幾ら何でも同意し
かねると思っていたのですが、芹沢の「武士のやる事ではない。」という
セリフを聞いて、なるほどこういう解釈の仕方もあるのかな、と考え直しま
した。だとしても、あまりにも大人気ないですけどね。

さらに穿った説としては、翌日に予定されていた大和行幸の詔に対する
芹沢流の祝砲だったのではないか、とする向きもあります。この根拠とし
ては、大和屋は生糸問屋だったのですが、幕府の開港政策により生糸
は国外へ流出し、国内では大変な高値と品不足を招いていました。こう
した中大和屋は海外取引により莫大な利益を上げており、京都市民、特
に西陣あたりから怨嗟の声が上がっていました。天誅組が大和屋に目を
つけたのはこうした背景があったからですが、芹沢はさらに一歩進めて大
和屋を焼き討ちにし、攘夷のためののろしにしたと言うのです。

当日、大和屋には西陣の職工達が押し寄せ、生糸を路上に放り出して火
を掛け、また家財道具をたたき壊したという記録もあります。そして、芹沢
は屋根の上からこの様子を愉快そうに眺めていたとあります。(西村兼文
新撰組始末記)少なくとも、大和屋が恨まれていた事は事実でしょうね。

この焼き討ちは、結果として芹沢の命取りになりました。ドラマでも土方が
「墓穴を堀りやがった」と言っていましたね。この暴挙に対して、所司代や
大名から会津藩に対して抗議が相次い次ぎ、遂に会津藩は芹沢排除を決
意するに至ったとされています。

一方で、この焼き討ちは会津藩にとって思わぬ助太刀ともなりました。会
津藩では、常時1千名の藩兵を京都に駐留させていたのですが、これは
交代制で、丁度この頃国元から交代要員が到着していました。国元へ帰
る兵は大和屋の焼き討ちの前日に出立していたのですが、この事件を口
実に京都へ呼び寄せたため、会津藩の兵力は一時的に倍の二千名とな
りました。この兵力が、8月18日の政変を成功させる原動力となります。
長州藩は、この事件に目を奪われ、会津藩の企みに気が付かなかった様
です。芹沢鴨は、思わぬ形で、歴史を動かしたとも言えそうですね。

来週は、この8月18日の政変が描かれます。ここでは、芹沢の最後の勇
姿が出てくるはずですが、佐藤浩市の演技が見物ですね。

新選組マイナー隊士の紹介は、今回も明日アップする事にします。

この項は、子母澤寛「新選組始末記」、西村兼文「新撰組始末記」(新人物
往来社編「新選組資料集」より)、別冊歴史読本「新選組の謎」、歴史群像
シリーズ「血誠 新選組」、木村幸比古「新選組と沖田総司」を参照していま
す。

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2004.06.03

新選組フィギュア

toudou.jpg

Project”B”さんで紹介されていた新選組フィギュアを、ようやくゲット
出来ました。

枚方のコンビニでずっと探していたのですが、どこにも置いていないの
ですよね。人気があってすぐ出てしまうのか、人気がなくて置いていな
いのか。

やっと見つけたのは、京都の霊山歴史館。ここには沢山置いてありま
した。親子で3つ買って、中身は近藤Bタイプが2つと写真の藤堂平助。
しかし、本当に良く出来てますね。細かい所まで実にリアルに作り込ま
れています。

藤堂のフィギュアは、池田屋で額を斬られたところ。暑くてはずした鉢
鉄が下に落ちていて、額には血がにじみ、苦悶の表情をしています。

下の息子は、また歴史館へ行きたいとせがみます。おお、ついに歴史に
目覚めてくれたかと思ったのですが、何の事はない、いたくこのフィギュ
アが気に入ったらしく、この続きが買いたいからなのですね。

息子ではないですが、一通り揃えてみたくなるシリーズです。

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2004.06.02

新選組!13の2

今回の新選組!マイナー隊士の紹介は、河合耆三郎です。

ドラマでは、第20回「鴨を酔わすな」の中で、新規隊員募集に応じて
現れましたね。試験官役の藤堂平助との立ち会いで、ひたすら平助
の構えを真似する姿が何ともユーモラスでした。

河合は、ドラマで自己紹介をしていたように播磨高砂の人で、1838
年(天保9年)に、土地の大きな塩問屋河合儀平の長男として産まれ
ました。(一説に大阪浪人ともいいます。)商人の子である彼が、なぜ
新選組に応募したのかはよく判りません。童門冬二さんは、武士にな
れるのが魅力だったのだろうとされています。実際、そういう動機で応
募してきた隊士は、多かったのでしょうね。

試験立ち会いで平助に手玉に取られたように、剣術の腕は大したもの
ではなく、算術の才を買われて入隊したようです。ドラマでは、山南が
前川邸に隊士を収容した際の一人あたりの畳数を計算させ、河合がそ
れに見事に答えた事で即決になっていましたね。あのやりとりの間は
絶妙なものがありました。

そうしたいきさつにふさわしく、隊では勘定方の第二席を占めています。
商人の子らしく如才がなく、愛嬌もあって、隊内では可愛がられていま
した。また、家が金持ちですから懐具合はいつも暖かく、金に困ってい
る隊士がいれば、自分の金を貸してやったりもしていたそうです。そうい
う彼ですから近藤にはひどく信用されていたそうですが、どういうものか
土方とはそりがあわなかったらしいですね。

およそ無骨な事は似合いそうにはない彼ですが、1864年(元治元年)
6月5日に起こった池田屋騒動のときには、土方隊に属して相役の酒
井兵庫と共に参加しています。この頃の新選組は、脱走者が相次ぎ、
また病人も多かった事もあり、動員できる隊士が少なかった様ですね。
ですから、勘定方といえども貴重な戦力として駆り出されたものと思わ
れます。どういう働きをしたのかは判りませんが、15両の報奨金を受け
取っていますから、それなりの活躍をしたのでしょうね。

翌月に起こった蛤御門の変の後には、長州勢の残党がいないか、また
遺棄していった武器がないかを探索するために、摂津へ出向いていま
す。戦利品はなかったようですが、これなどは、勘定方にふさわしい任
務と言えそうですね。

その彼に、悲劇が襲いかかります。1866年(慶応2年)2月2日、彼は
隊費として保管していた現金のうち、五十両がなくなっている事に気が
付きます。このとき、直ちに申し立てていれば災難は襲ってこなかったか
もしれませんが、事が表沙汰になる事をおそれ、誰にもいわずに済ませ
ます。五十両くらいの金であれば、実家から取り寄せてすぐに穴埋め出
来ると考えたとされてますが、一説にはこのとき近藤が不在で、上司と
いえばしっくりいかない土方しかおらず、言い出しにくかったのだとも言い
ます。ところが、悪い事は重なるもので、その土方から隊内にある現金を
出す様に命じられます。額は五百両、丁度そのとき隊内にあるはずの金
額でした。このときになって初めて、彼は五十両足りない事を土方に告げ
ます。彼は誰かに盗まれたと主張しますが、土方は信用せず、河合を監
禁します。

河合は、取り調べに当たった監察の新井忠雄に対し、「金は盗まれたも
のだが、保管していた私にも責任があり、実家に飛脚を出して五十両を
とりよせて穴埋めする。」と懇願します。土方はすぐにでも斬ってしまいた
かったのですが、新井がとりなして、十日の猶予を与えられる事になりま
した。新選組にしては甘い処分の様に思えますが、このあたりは普段の
人柄がものを言ったのでしょうか。

河合は、直ちに実家に向けて急飛脚を放ちます。しかし、何日待っても
実家からの返事はありませんでした。この間、河合は何度も飛脚は来な
いかと聞いたと言います。そして、とうとうそのまま十日が経ち、2月12
日に土方が処分を決します。河合の処分は切腹ではなく斬首でした。隊
の金を盗むような者は、武士とは認めないという事だったのでしょうか。武
士にあこがれた河合にとっては、残酷な処置でした。

斬首の場に引き出されてからも、河合は「まだ播磨から飛脚は来ません
でしょうか。」と聞いたといいます。そして、「斬首ですね、切腹ではないの
ですね。」と悲しそうに何度も繰り返したそうです。斬首にあたったのは沼
尻小文吾という平隊士でしたが、あまり腕の立つ方ではなかったらしく、
初太刀をしくじり、肩を斬ってしまいます。すると、河合は泣き叫びながら
逃げ出し、沼尻がこれを追いかけてようやく斬り倒すという修羅場になって
しまいました。

播磨からの飛脚が来たのは、その三日後でした。父親が他行していたた
め河合からの手紙が届くのが遅れたのです。河合が斬首された事を聞い
た父親を始めとする親族は続々と京都に上り、屯所に抗議に訪れました。
近藤、土方は取り合いませんでしたが、彼等は収まらず、河合の葬儀とし
て、大勢の僧侶を動員し、空の輿を担いで鉦を鳴らしながら屯所の前を何
度も行ったり来たりしたそうです。そして、隊への当てつけでしょう、輿の後
ろには千両箱を背に乗せた馬を引き連れていたそうです。

その後、屯所の周囲に怪しい人影が出たり、また河合を斬った沼尻が襲
われたりという事がありました。これらは恨みに思った河合の親族の仕業
ではないかと当時は言われていたようです。

河合の墓は壬生寺の壬生塚にあります。他の隊士に比べて一際立派な
もので、予備知識を持たずに壬生塚を訪れたなら、きっと局長と並ぶ幹部
クラスの人物だったと思うでしょうね。これも、彼の親族達が建てたもので
す。裕福な彼等にすれば、わずか五十両の金を盗んだとして処刑された事
が、余程口惜しかったのでしょうね。なお、光縁寺の山南の墓碑の側面に
も彼の名が刻まれています。

ちなみに、土方が命じた五百両の金は、近藤が深雪太夫を身請けするた
めのものだったという説があります。河合の取り調べに当たった新井の後
日談ですが、深雪太夫が身請けされたのはこれより1年も前の事で、実際
にどうだったのかは良く判っていません。

河合耆三郎の墓の写真は次のところにあります。

壬生塚

この項は、子母澤寛「新選組始末記」、童門冬二「新選組の光と影」、別冊
歴史読本「新選組の謎」、新人物往来社「新選組銘々伝」を参照しています。


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2004.06.01

新選組!13

新選組!第21回「どっこい事件」、「どっこい」ってなんだろうと思って
いたのですが、相撲取りの事だったのですね。せっかく舞の海が出
て来たのに、あっさり斬られてしまって気の毒でした。

さて、相変わらず芹沢を貶め近藤を立てる展開が続いていますが、こ
う理不尽な展開が続くと、つい弁護をしてやりたくなります。まず、この
頃増長していたのは芹沢だけではなく、近藤も同じでした。土方、沖
田らが、将軍警護のために上京してきた千人同心の井上松五郎の下
を訪れて、「このところ近藤が天狗になっていて試衛館の一同が困っ
ているので、諫める手紙を書いて欲しい」と頼んでいます。局長となり、
隊士が増えて金回りも良くなり、段々と気が大きくなっていったのでしょ
うか。ずっと後の事になりますが、京都で敗れ、江戸に帰った新選組
は、近藤と永倉・原田が袂を分かって分裂してしまいます。その時も
永倉・原田は、近藤の態度が横柄だと怒ってしまったのですが、その
前兆は既にあったのですね。

また、将軍に対して攘夷実行を迫る建白書を提出していますが、これ
も近藤が単独でやったのではなく、筆頭局長である芹沢以下、隊士
全員の連名で提出したものであり、決して近藤だけが男を上げたとい
う訳ではありません。

さらに、大阪相撲との喧嘩では、ドラマでは芹沢がいきなり斬りつけて
しまいましたが、島田魁の日記では、最初の喧嘩は相手を投げ飛ばし
ただけであり、永倉の日記では2度目の力士との喧嘩があって、これ
も斬らずに殴りつけただけに止めています。その後、力士達が押し寄
せてきて今度は本当に斬ってしまうのですが、この喧嘩の始末をつけ
たのは確かに近藤でした。ただし、自分達の非を認めたという訳では
なく、きっと今夜のうちに仕返しに襲ってくるので、先手を打って奉行所
へ届け出ておくべきだと考えたのでした。届けの内容は、「無法にも多
人数で襲ってきたので、やむなく斬り捨てた。再度襲って来る様なら、
一人残らず斬り捨てる。」というものでした。この手は見事にあたり、届
けを受けた奉行所では、警護の人数を差し向けています。

この相撲取達に八角棒を渡していたのが、大阪町奉行所の筆頭与力
内山彦次郎です。この八角棒は、確かに与力から渡されたものですが、
攘夷の魁となるべくあらかじめ与えられていたもので、この事件の時に
渡されたのではありません。この与力は、この翌年に近藤達によって
暗殺されてしまうのですが、この力士との喧嘩について執拗に近藤に
迫り、京都守護職預の新選組に対して無礼であると近藤が怒り、あげ
くに殺してしまったというのが通説になっています。これに対して、島田
魁の日記では、大阪の与力が不正を働いていると評判になっているの
で、これを調べる為に大阪へ赴いた、となっています。これに符合する
ように、暗殺の後近藤は、「この与力は不正を働き、庶民を苦しめたの
で天誅を加えた」と書いた斬奸状を残しています。どちらが本当だった
のかは、よく判りません。このドラマではどう決着をつけるのでしょうね。

最後のナレーションで、相撲取りと仲直りした新選組は、壬生で相撲
興行を行って評判を得たと紹介していました。実際には、壬生の前に
1863年(文久3年)8月7日に、祇園北林で興行を行っています。こ
のとき、隊士が場内整理にあたり、なかなか好評だったようです。

祇園北林紹介ページ

そして、8月12日に、この興行の礼相撲として壬生での興行が行われ
ました。この間、10日に佐伯亦三郎が斬られ、12日の夜に芹沢が大
和屋を焼き討ちにするのですが、これは次回の展開ですね。

sinsenkumitaiki.jpg

あと隊旗が出て来ましたが、土方が作ったのは赤地に白で誠という字
を書き、下に山形のだんだら模様を入れたものです。これに対して新見
錦が、誠忠という字を書いた隊旗を作れと言っていましたが、これも本
当にあったようです。この誠忠は、精忠浪士組に対応するものだと思わ
れますが、新選組になる前に実際に精忠浪士組を名乗っていた時期が
ありました。前出の井上松五郎の4月4日の日記に書かれています。た
だし、4月8日の日記では浪士組に戻っており、ほんの数日の間の事だ
ったようですね。

隊旗には、このほか、誠の文字を金糸でおどしたものもありました。ド
ラマのタイトルバックに出てくるタイプです。あれも、なかなか格好良い
ですよね。

最後にがんばれ三谷幸喜!フレフレ「新選組!」へのエールの代
わりに、お梅について一言。
このドラマでお梅は前川家に預けられていましたが、なんだか唐突な設
定で、不自然に思っていました。ところが、木村幸比古さんの「史伝土方
歳三」を読んで知ったのですが、お梅を囲っていた菱屋太兵衛と前川家
の当主前川荘司は従兄弟同士だったのですね。実際にお梅が預けられ
ていたという事実はありませんが、少なくともお梅をもてあました菱屋が、
とりあえず従兄弟の前川家に預けたという設定は成立しますね。思わぬ
ところで、三谷ドラマの奥深さを知った次第です。

今回も長くなりましたので、マイナー隊士の紹介は、明日アップします。

この項は、木村幸比古「史伝土方歳三」、「新選組日記」、子母澤寛「新選
組始末記」、別冊歴史読本「新選組の謎」、「新選組を歩く」を参照していま
す。


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