« 2004年4月 | トップページ | 2004年6月 »

2004年5月

2004.05.26

新選組!12の2

今回の新選組!マイナー隊士の紹介は、野口健司です。

野口健司はあまり資料が残っておらず、謎の部分が多い隊士です。新選組始末記で八木為三郎は、「ただ痩せた丈の高い人だったような朧な気がする。」とだけ述べています。このドラマでは岡本幸作さんが演じており、若いというより幼いという印象を受けます。それもそのはず、当時21歳だったのですね。これは、22歳だった沖田総司よりも若く、藤堂平助より一つ上という事になります。

彼は、1843年(天保14年)に水戸で生まれています。江戸の百合元昇三道場で神道無念流を学び、目録を得ました。この道場には永倉新八が住み込んでいた事があり、二人が旧知の仲だった可能性が考えられます。永倉は野口よりも4歳年長であり、二人が一緒に居た時期があるとすれば、永倉が兄貴分のような存在だった事でしょうね。

1863年(文久3年)の浪士組の募集に際しては、芹沢鴨らと共に参加しています。芹沢との接点がどこにあったのかはよく判っていませんが、おそらくは郷党の先輩であり、同流の皆伝者でもある芹沢と江戸で出会い、誘われるままについてきたというのが実態ではないでしょうか。自然、隊では芹沢のグループに属し、行動を共にします。芹沢が京都に残留を表明すると共に残り、新選組結成メンバーの一人として名を連ねる事になります。新選組での地位は副長助勤でした。

彼の事績としては、まず平野屋から借りた100両の借用書の筆頭に名前が見られます。昨日の記事に書いた様に、土方、永倉、沖田らと共に金策を行った時のものです。次に彼の名前が出てくるのが、6月3日の大阪相撲との乱闘事件です。

この前日、彼は、芹沢、近藤、山南、沖田、永倉、斉藤、平山、井上、島田と共に大阪を騒がせる浪士の取り締まりのために下阪し、浪士の捕縛に成功しています。翌日、所用のあった近藤と井上を除く8人は大川で船遊びに興じます。彼等は、船を下りた後北新地へ向かうのですが、この道すがら大阪相撲の力士と口論になり、島田がこれを投げ飛ばしてしまいます。これが発端となり、大阪相撲の力士が仲間を集めて芹沢達の居た住吉楼に押し寄せました。その数50から60人と言います。芹沢以下の隊士は抜刀してこれに立ち向かい、力士側に死者3名、手傷14名という損害を与えました。この事件は、相撲側が武家に失礼を働いたと折れる事で決着し、その後は力士が隊士に道で出会うと、道端に寄ってあいさつをする様になったと永倉の手記にあります。

この事件のあと、野口健司の名が記録されている事件はありません。9月13日に新見錦が切腹し、18日には芹沢と平山が暗殺され水戸グループは事実上壊滅してしまうのですが、彼一人は生き残ります。彼は、暗殺のあった夜は、芹沢達とは別行動を取って角屋に残っていたため、難を逃れたと考えられます。このあたりも良く判らないところなのですが、一説には、芹沢達とは世代が異なることから、芹沢と一緒に居るよりも沖田や藤堂といった歳の近い隊士と行動を共にする事が多く、芹沢とは自然と距離を置く様になっていたのではないかと言われています。また、永倉との関係があって、芹沢とはだんだん離れていったと考えられなくもありません。

芹沢の死は、対外的には病死、隊内には長州藩の刺客に襲われたものとされていたため、永倉でさえ長く真相を知る事はありませんでした。野口も芹沢が近藤達に殺されたとは知らなかったと思われ、その後も脱走する事なく新選組に止まっています。その彼も、ついには切腹に追い込まれます。12月27日、前川邸の綾小路通りに面した一室でした。その理由は、当時の隊士にも良く判らなかった様です。八木源之丞は、「芹沢との関係で、何かつまらない理由で詰め腹を切らされたのではないか。」と推測しています。

一説として、近江中羽田村において起こった騒動の責任を取らされたのではないかと言われています。これは、水戸藩士が壬生浪士を名乗り、当地であった騒動に加わって扇動していたというもので、村人から新選組に対して訴えが出ていました。これについて、野口が切腹した12月27日の日付けで、近藤から中羽田村の庄屋代官宛に、(壬生浪士を名乗っていても当方は関与しないから)そちらで善処されたいという旨の文書が出されています。この騒動と野口がどう関係していたのかは判りませんが、日付が一致すること、当時水戸出身の隊士は野口しか居なかったことから何らかの係わりがあり、その責任を問われて詰腹を切らされたのではないかとされています。

表向きはそうでも、実際には水戸グループが隊内に居る事が好ましくなかったのではないでしょうか。特に会津藩にとっては、新選組が思想集団である事は望ましい事ではなく、意のままに動く警察組織として位置づけておきたかったでしょうから。芹沢の粛清は会津藩から指示が出ており、同時に芹沢の息のかかった隊士はすべて始末する様指示が出ていたのかもしれません。

野口健司の切腹した部屋の外観の写真は次のところにありますので、よろしければご覧になって下さい。

http://www.bbweb-arena.com/users/mnaokun/維新の道_003.htm#bookmark1

この項は、子母澤寛「新選組始末記」、新人物往来社「新選組銘々伝」、木村幸比古「新選組日記」を参照しています。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004.05.25

新選組!12

新選組!第20回「鴨を酔わすな」、とうとうだんだら模様の制服
が出て来ましたね。これで、ぐっと新選組らしい雰囲気が出て来
ました。やっぱり、ユニフォームというのは大事なものですね。

この羽織を作ったお金ですが、ドラマでは芹沢が集めて来たこと
になっていますが、実際には大阪の平野屋という豪商から芹沢、
近藤、新見の連名で借りた100両でまかなった様です。この時
の手口はかなり巧妙というか執拗なもので、局長達の指示の下、
配下の土方、野口、永倉、沖田らが入れ替わり立ち替わり平野
屋を訪れ借金を申し込み、平野屋が音を上げるまでこれを繰り返
した様です。ただ、乱暴を働く様な事はしなかった様で、とにかく
しつこかったらしいですね。彼等は、この後鴻池家からも200両
の金を借り出しています。

この借金について、ドラマの中で芹沢が会津藩の広沢富次郎に
向かって「会津藩が何もしてくれないからだ」とからんでいました
が、実際にはこの事を知った会津藩が驚き、借りた金を会津藩が
立て替えて返済し、その後隊士に対して月々の手当を出す様に
なりました。しかし、新選組と大阪の豪商との縁は後々まで続き、
1864年(元治元年)には、会津藩公用の名目で近藤が保証人
となり、鴻池を主とするグループから、7万1千両(約42億円)に
も及ぶ金を引き出す事に成功しています。

さて、前回は芹沢と久坂、今回は芹沢と桂という具合に長州藩と
のからみが描かれていますが、当時は長州藩と水戸藩は概ね友
好関係にありました。1860年(万延元年)には桂と水戸藩の西
丸帯刀との間で水長密約を交わしていますし、浪士隊と前後して
京都に入った水戸藩の本国寺党は、長州藩の手引きで上洛して
います。ただ、水戸藩と言っても一枚岩ではなく、様々な党派があ
って複雑なのですが、芹沢の立場は本国寺党に近かった様で、こ
のことからすると久坂や桂ともめる事は考えにくいと思われます。
ドラマでは、芹沢や桂の口を借りて、当時の長州藩の世評や、三
谷流の芹沢の解釈を説明したかったのでしょうね。

芹沢は、久坂や桂に向かって、「長州藩は、攘夷を名目に、自分
達の野望のために朝廷を好き勝手に動かそうとしている。」と非難
しています。これは、当時の京都はほとんど長州藩の独走状態で、
これを見た幕府や薩摩藩などは、長州藩は毛利幕府を作るつもり
に違いないと観測しています。実際、ずっと後の事ですが、長州藩
主が左右に対して、「自分はいつ将軍になるのだ。」と聞いたという
逸話が伝えられています。桂や久坂が目指していたものは毛利幕
府ではなく、雄藩による連合政権という様なものだったと思われま
すが、多くは長州は政権を私にするつもりだという観測を持っていま
した。これが、後の八・一八の政変へと繋がって行きます。

また、桂は芹沢に向かって、「なぜ天狗党に入らないで、幕府の走
狗となっている。」と切り返しますが、確かにこれは芹沢にとって痛
い所でした。ただし、もう少し後になって、八・一八の政変で長州藩
を追い落とした後の事ですが。この政変以前の新選組は、芹沢達
の主導のもとにあり、あくまで尊王攘夷のための結社でした。ところ
が、八・一八の政変のときに御所の警備につき、尊王のために尽く
したのまでは良かったのですが、このあと市中警護の役目を請け、
長州藩を主とする尊攘派を敵に回す事となります。これは、芹沢に
とっては、大きな誤算だったはずです。彼の立場は佐幕には違いあ
りませんが、あくまで攘夷派であり、開国に反対する志士を取り締ま
る立場に立った事は、彼の中で大きな矛盾を産む事になったと思わ
れます。おそらく、郷党からも開国派に寝返ったと非難を受けたこと
でしょう。ドラマの中で芹沢は泣いていましたが、実際にも泣きたい
心境になった事もあったのではないでしょうか。

ここで、ちょっとおもしろいのが、新見錦の描写です。「だから芹沢さ
んは今ひとつ大きくなれないのだ。」と冷ややかにつぶやき、土方が
目をそばだてていましたが、新見と芹沢の微妙な立場の違いを表そ
うとしている様ですね。

以前にも書きましたが、新見は新選組隊士としては、唯一、京都護
国神社
に祭神として祀られています(御陵衛士となった伊東達は除
きます)。すなわち、勤王の志士として認められているという事を示
し、芹沢とは際だった違いが見られます。ウェブ上の情報でしか確
認できないのですが、長州藩が外国船に対して砲撃を行った時に
新見も応援に駆けつけたという説があり、相当に長州藩寄りだった
事が伺えます。このことから長州藩の間者だったという説もある位で
すが、そこまで言い切る資料がある訳ではありません。そういえば、
相島一之さんの演じる新見錦は、どこか神道家の様な雰囲気があ
る気がしますね。このドラマで、新見錦を今後どのように扱うのか興
味深い所です。

新見錦については、次の所にも書いていますので、よろしければご覧
になって下さい。

http://www.bbweb-arena.com/users/mnaokun/洛東.htm#bookmark2

今回は長くなりましたので、マイナー隊士の紹介は、明日アップする
ことにします。

この項は、子母澤寛「新選組始末記」、木村幸比古「新選組日記」、
新人物往来社「新選組銘々伝」、学研「新選組」、別冊歴史読本「新
選組の謎」、同「新選組を歩く」、光文社文庫「新選組読本」及びウェ
ブ上の情報を参照しています。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004.05.17

新選組!11

新選組! 第19回「通夜の日に」、八木家の姑「久」の葬儀が行わ
れました。これを近藤達が取り仕切って名を上げた訳ですが、新選
組始末記では、近藤と芹沢の二人が帳場に座って、この二人が一
切を仕切ったとなっています。亡くなったのは八木家の子供で、暇な
時には、二人でいたずら書きをしていたとか。このとき芹沢は面白い
絵を描いたそうですが、どんな絵だったのか見たいですね。このエピ
ソードを出してくれないかと期待していたのですが、採用されず、残
念でした。

この久に気に入られたのが原田佐之助ですが、彼は非常な短気者
で、二言目には「斬れ、斬れ」と言ったとか。また、若い頃に、からか
われた事に逆上し、腹を切って危うい所を助かったという事があった
様です。そこから付いたあだ名が「死に損ねの佐之助」。ここまでは、
およそ久の死に涙するドラマの設定には程遠い印象ですが、彼はま
た妻子思いの優しい面を持っていました。町人の娘を嫁にし、産まれ
た息子を非常に可愛がった様です。後の鳥羽伏見の戦いのときには、
戦が始まる直前に200両の金を持って妻の元を訪れ、繰り返し繰り
返し子供の事を頼んでいったそうです。妻の名は「まさ」。そう、あの
甘党の店の「おまさ」ちゃんですね。この二人、これから仲良くなって
いくのでしょうね。

さて、マイナー隊士の紹介ですが、今回は島田魁。彼は、近藤、沖田
等に比べると知名度は低いですが、結構人気のある隊士で、マイナー
なんて言うとファンの方から叱られるかも知れませんね。

ドラマでは、「しまだかい」と言っていましたが、御子孫の方によると
「しまださきがけ」と読むのが正しいのだとか。美濃大垣の出で、ドラマ
にあったように何度も名前が変わっています。

まず親の名前が、近藤伊右衛門。1828年(文政11年)に次男として
産まれています。この父親が仕事上の過失で自刃するという事があり、
生母の実家に引き取られ、養子となります。この実家の名が川島。の
ち、京都に出て来て丹波屋定七の入り婿となりますが、さらに大垣藩
の島田歳に望まれてその養子となり、島田姓を名乗るようになります。

29歳のとき江戸に出て坪内主馬道場で心形刀流を学び、このとき永
倉新八と出会っています。腕前はかなりのもので、名古屋城で行われ
た御前試合で優秀な成績を収め、島田家の養子に望まれたのもその
腕を見込まれたからだとか。

彼は、新選組一の巨漢で、身長182cm、体重150kgもありました。そ
のため、よく相撲取りと間違えられたそうです。そのくせ、酒は一滴も飲
めず、大の甘党で、大福餅を一度に20~30個も食べたとか。

新選組では、調役並監察、二番隊伍長を勤めています。

最初の事件は、大阪相撲との乱闘で、このとき道をふさいで悪口を言っ
た相撲取りを最初に投げ飛ばしたのが彼だった様です。

池田屋騒動のときには、他の三人の監察とともに古高俊太郎の正体を
突き止めるという手柄を立てています。また、事件当日は土方隊に属し
ており、戦闘にも参戦し、報奨金として17両を交付されています。

このほか、三条制札事件油小路の決闘など新選組の主要な事件にも
係っています。

鳥羽伏見の戦いでは、薩摩藩の陣地に斬り込みに行った永倉が味方の
陣地
に引き上げて来る時、着ていた甲冑が重すぎて塀を乗り越える事
が出来ず、危うくなってしまいます。このとき、島田が塀の上から鉄砲を
差しだし、軽々と永倉を引き上げ、その怪力ぶりが評判になるというエピ
ソードを残しています。

その後は、甲州勝沼、流山、宇都宮、会津、函館と転戦し、その間「東照
大権現」と書いた旗を掲げ、激戦になるとそれを腹に巻いて戦いました。
彼は、五稜郭で降伏し、名古屋城に3年間預けられます。こうして彼は、
新選組の結成当初から函館で新選組が壊滅するまで在籍し、生き残った
唯一の隊士となりました。

明治6年、京都に戻り、隊士時代に知り合ったという西村サトと結婚します。
彼は、榎本武揚から新政府への出仕を誘われますがこれを断り、雑貨屋、
仏具屋を経てかつて屯所があった西本願寺の警備員となります。彼は、常
に土方歳三の戒名「歳進院誠山義豊大居士」と書いた書き付けを身に付け、
終生離さなかったそうです。1900年(明治33年)、72歳の時に西本願寺
の境内で息を引き取りました。彼の葬儀には、永倉も北海道から駆けつけ、
参列したそうです。

彼は、「英名録」、「島田魁日記」など新選組の記録を書き残しており、これら
は新選組を知るための貴重な資料となっています。

こうしてみると、気は優しくて力持ち、めっぽう腕は立つが、頑固なまでに義
理堅いという姿が浮かび上がってきます。彼が特に女性に人気が高いと言う
のも頷けますね。やっぱり、マイナーというのは失礼だったかな。

ドラマで彼を演じる照英さんは、こうしたイメージにぴったりですね。ただ、もう
少し太っていた方が良いかも知れません。ドラマでは道を間違えて迷子にな
りますが、監察としても有能だった彼にはちょっと合わない気もしますね。で
も、人なつっこいイメージを出すための演出だったという事なのかな。これから、
永倉とコンビを組んで活躍してくれそうですね。


この項は、子母澤寛「新選組始末記」、木村幸比古「新選組日記」、「別冊歴
史読本 新選組の謎」を参考にしています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.05.13

新選組!番外

今日は、新選組!の小ネタの紹介です。

komamjuu.jpg

写真は、ゆこが買ってくれた「こまんじゅう」。
パッケージに「新選組!」のロゴが入っています。、NHKのシール
が貼ってある所を見ると、オフィシャル商品という事なのでしょう。
近藤、土方、沖田の3人のイラストがなんとも言えない味を出して
います。

で、中身がこっち。

komanjuu2.jpg

イラストがそのまま焼き型になっています。味の方は、まあまあか
な。

ありがちなおみやげ品ですが、あんまり可愛かったもので紹介する
ことにしました。ちなみに、ゆこが買ったのはCOOPです。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.05.11

新選組!10

今回の「新選組!」第18回「初出動! 壬生浪士」は、久坂玄瑞が立て
た数え歌の立て札を巡って、浪士組に出動が命じられます。

久坂玄瑞は文才が豊かだった人で、八・一八の政変に続く七卿落ちの際
に、即興で見事な歌を作った事でよく知られています。また、実際に数え
歌も作っている様ですね。ですから、ああした立て札を立ててもおかしくな
い様にも思えますが、番組の設定はフィクションです。今回の番組で使わ
れた数え歌は、もっと後になって大阪で流行った数え歌だったと思うので
すが、うろ覚えで、正確な資料が手元に無いので断言できません。どな
たか、ご存知ありませんか。

今回の番組の中で、山南啓助が言った「長州を敵に回す事になる。」とい
うセリフは、重要な意味を持っていますね。新選組の今後の方針を明示す
る事になるのですから。また、後の山南の脱走から切腹に至る結末を暗
示しているとも受け取れます。ただ、実際に新選組が出動し、はっきりと
長州藩を敵に回すのは、八・一八の政変の時からです。また、新選組を名
乗るのも、市中取り締まりを命じられるのも、この政変以後の事です。

さて、だんだん「ねこづらどき」のシリーズになってきたマイナー隊員の紹介
ですが、今回は平間重助です。番組では、剛州さんが人の良さそうな役柄
を演じていますね。

平間重助は1824年(文政7年)、現在の玉造町芹沢に生まれています。
芹沢鴨と同郷ですが、それもそのはず、平間家は、先祖代々芹沢家に仕
える家老格の家だったそうです。重助の家は、その分家のようですね。神
奈川県川崎の平間寺に由来し、鎌倉時代から続く由緒ある家系の様です。

重助については、1844年(天保15年)に行われた水戸藩の軍事調練の
参加者に名前があるそうです。その後、重助は芹沢家の用人として仕え、
芹沢鴨から神道無念流を学び、目録を受けています。所帯を持ち、長男に
も恵まれ、平穏な暮らしぶりだった様ですね。

1863年(文久3年)芹沢鴨が浪士組に参加する際、芹沢家では、用人で
ある重助に同行するよう頼みます。このため重助も浪士組に参加する事に
なりますが、芹沢鴨の世話役という事だったのでしょうか。重助39歳の時
でした。

新選組では、番組にあった様に副長助勤を拝命します。以後は、平山五郎
と同様に芹沢鴨の絡んだ大阪力士との乱闘、大和屋焼き討ち事件などに係
わります。

1863年(文久3年)9月16日に芹沢鴨が暗殺された際には、危うく難を逃
れています。彼が助かったのには、別室で寝ていたから、厠へ立っていたか
ら、布団の上から刺されたのですが、そのまま死んだふりをしていたから等
諸説があり、どれが正しいのかは判りません。新撰組始末記では、刺客が
去った後、裸で刀を手に持ち、「どこへ行った!」と叫んびながら、ウロウロし
ていたとあります。その後行方不明になりますが、どうやら郷里に帰っていた
ようです。重助にすれば芹沢鴨の世話役として付いてきたのであり、彼が死
んでしまえば新選組に居る理由も無くなったという事だったのでしょうか。

重助は、芹沢家に芹沢鴨の暗殺の顛末を伝えた後、再び姿を消しました。新
選組を脱走した事で幕府の目をはばかる様になった事、また故郷の水戸にお
いても、天狗党からは、反攘夷に傾いたように映る新選組に居た事が裏切り
行為と見られ、身の置き所が無かったのでしょうか。

維新後、重助は芹沢村に戻ったそうです。晩年は官軍の目を忍びつつ暮らし、
1874年(明治7年)51歳で亡くなったと伝えられます。

平間重助の経歴を見ていると、近藤派の井上源三郎と重なる所がある様です
ね。そして、人柄も用人に相応しく、おだやかだったと伝えられます。このあた
りも源三郎と通じる所がありますね。ドラマの役柄も、こうした事を押さえている
のかも知れません。

参考サイト
http://www.tamatsukuri.or.jp/shinsen-hp/

| | コメント (6) | トラックバック (2)

2004.05.03

新選組!9

新選組! 第17回「はじまりの死」、まあ予想どおりの展開でした。近藤を
徹底してよい子にし、芹沢を悪役に仕立てるという、定石どおりの展開です
ね。殿内を殺したのは本当は近藤なのにと思うと、芹沢がちょっと可哀想で
した。しかし、このあたりの暗闘は、後の大阪奉行所の与力殺しも含めて、
新選組でも最も暗い部分ですからね、汚名はすべて芹沢に被って貰わない
と、先へ進めないという事なのでしょう。

その芹沢鴨、殿内を斬った言訳をする姿がなんとも弱気に映りましたが、そ
のあたりが三谷演出の新味というべきでしょうか。「新選組始末記」に出て
来る芹沢のエピソードの中に、八木家の火鉢を借りる話があります。八木
家の唐銅の火鉢を芹沢に借したのですが、それがいつの間にか返ってきて
いる。よく見ると無惨にも刀で切った跡があり、芹沢に聞くと「済まん、済ま
ん。」と頭をくばかり。重ねて誰がやったのかと聞くと「俺だ、俺だ。」と逃げ
て行ったそうです。火鉢を切ってしまうなど乱暴この上ない話ですが、しかし、
その後の返し方が、いたずらをしてから悪かったと気づいた子供の様で、芹
沢鴨の人間味を感じる事が出来ます。同時に、意外に気弱な一面が感じら
れ、今回の三谷演出に繋がっているような気がします。

さて、その芹沢鴨の腹心で、傍若無人に振る舞ったあげく、斉藤一にこっぴ
どく脅されるという情けない役柄を演じているのが、平山五郎です。

平山五郎は、新選組始末記では水戸藩の人となっていますが、どうやら実
際には姫路出身だったようです。1829年(文政12年)の生まれで、新選
組結成当時は34歳でした。ドラマで片目にアイパッチをしていますが、故郷
で花火をしているときに火薬が爆発し、左目を失ったと言われています。こ
のため首を心持ち左に落とす癖があり、「めっかち平山」と呼ばれていました。

片目でも剣の腕前は素晴らしく、斉藤弥九郎の道場「練兵館」で修行し、神
道無念流の免許皆伝を受けています。特に、目が見えない左手から打ち込
まれると無類に強く、必ず受け返して勝ったそうです。

芹沢とのつながりは、やはり剣の同門という事でしょうか。芹沢は文久2年ま
で獄に入っていましたから、二人の出会いは浪士組結成の直前、江戸では
なかったかと思われます。芹沢派の用心棒的な剣客というのは、ドラマの設
定どおりだったようですね。

新選組では副長助勤を勤め、大阪力士との乱闘、大和屋焼き討ち事件など、
芹沢の起こした事件に関係しています。また、四条堀川西入ルの米屋に鉄
砲を持った強盗が侵入した際、永倉新八、斎藤一らと共に現地に赴き、刀が
こぼれるまで戦い、朝廷から褒賞を受けたという事があったそうです。

島原の桔梗屋の小栄となじみであり、芹沢鴨と共に暗殺されたときも一緒に
寝ていました。小栄は、刺客が踏み込んできたときに、たまたま厠へ立って
いたため無事だったと伝えられます。

ドラマの中では、最も損な役回りになっていますが、実際の人柄がどうだった
かについては、判る資料がありません。斉藤弥九郎ともあろう人が、ただの
乱暴者に免許皆伝を与えるとは思えないのですけどね。

彼の墓は、芹沢と共に名前を刻まれて、壬生寺にあります。写真が次の所
にありますので、興味のある方はご覧になって下さい。

http://www.bbweb-arena.com/users/mnaokun/維新の道_004.htm

| | コメント (3) | トラックバック (1)

« 2004年4月 | トップページ | 2004年6月 »