新選組!8
新選組!第16回「一筆啓上、つね様」、ようやく壬生浪士組の結成が決
まり、24名の参加者が揃いました。
この24人は、決して一枚岩だった訳ではなく、分類すると次のようになり
ます。
芹沢派
芹沢鴨、新見錦、平間重助、平山五郎、野口健司
近藤派
近藤勇、山南敬助、土方歳三、沖田総司、永倉新八、井上源三郎、
藤堂平助、原田佐之助、斎藤一
幕府から派遣された取締役
殿内義雄、家里次郎
根岸派
根岸友山、鈴木長蔵、清水吾一、遠藤丈庵
水戸藩
粕谷新五郎、上城順之助
対馬藩
阿比留栄三郎
長州藩
佐伯又三郎
この最初の残留者については諸説あり、13名説、20名説、25名説などが
あります。この24名説は、会津藩庁の記録にあるもので、ドラマではこの説
を採用したのですね。
さて、この24名のうち殿内義雄と家里次郎は、近藤、芹沢によって粛正され
てしまいます。幕府の意に沿う様に壬生浪士組を動かそうとしたのですが、
近藤等と意見が対立し、内部粛正に遭ったものとされています。殿内は、3
月25日に四条大橋で斬殺、家里は4月24日に大阪で芹沢等に追いつめら
れ、切腹したと言われています。どうやら、次回のドラマでは、どちらも芹沢が
単独で殺害したという設定になるようですが、実際には殿内については近藤
が手を下しているようです。(失策があったので天誅を下したと書いた近藤の
手紙があるそうです。)
根岸友山は、武州大里郡甲山村の人で、千葉周作に北辰一刀流を学んでい
ます。1833年(天保4年)、故郷で荒川改修組合を組織し改修工事に関わり
ますが、その中で幕吏と業者の不正を発見し強訴します。しかし、返って捕らえ
られ牢に繋がれてしまいます。出獄後は、三余堂という塾や剣術の道場を開き、
桂小五郎や久坂玄瑞ら長州の志士と親交があったと言われてれます。浪士組
では一番組小頭となりますが、このとき既に54歳と、当時としてはかなりの高
齢でした。ドラマの中でおじいちゃんと言われていたのは、無理もない所ですね。
友山は、殿内殺害後、鈴木、清水、遠藤と共に江戸へ帰ります。友山は、この
あと新徴組の世話役になりますが、すぐに脱退し、その後は倒幕の志を抱いた
と伝えられ、鳥羽伏見の戦で幕府軍が破れると祝宴を張ったそうです。その後
は、明治23年まで存命し、88歳でこの世を去りました。後の3人もやはり新徴
組に入りますが、鈴木と遠藤は共に間もなく脱退し、清水は最後まで新徴組に
属し、庄内藩と共に戦っています。
水戸藩士のうち、上城順之助は、一度は残留したもののすぐに変心し、江戸へ
帰り新徴組に入っています。しかし、これもすぐに脱退し、その後の事は良く判っ
ていません。
阿比留栄三郎は、対馬の人で、この人も北辰一刀流を学んでいます。ドラマに
あるように病身で、壬生浪士組発足から1ヶ月も経たない4月6日に病気で亡く
なっています。また、これとは別に殺害されたという説もあるようです。
佐伯又三郎は、これからドラマに出てくるかも知れませんね。長州の人で一説
には江戸の人とも言います。最初から浪士組に居たのではなくて、京都で参加
した人です。後に副長助勤を勤めていますが、新選組始末記では、芹沢鴨のお
気に入りで、芹沢の意を受けて、隊士の佐々木愛二郎の恋人を芹沢のものとす
るために佐々木をだまし討ちにします。しかし、そのときその恋人をも殺めてしま
ったために、怒った芹沢に殺された、となっています。また、これとは別に、佐伯
は久坂玄瑞が間者として壬生浪士組に潜入させていたのですが、かえって長州
藩の機密を新選組に漏らしたため、久坂によって粛正されたとする説もあります。
さて、このドラマでは、どちらの説を採るのでしょうか。
最後に、粕谷新五郎ですが、実はこの人は最近この「ねこづらどき」のスターと
なっている人です。沢山の方に訪れて頂いているのですが、その割に書いてあ
る事が不親切なので、もう一度まとめ直しておきます。
粕谷新五郎は、1820年(文政3年)に水戸藩士粕谷忠兵衛の子として産まれ
ています。残念ながら、どこで剣の修行をしたとか、学問を修めたかなどの前半
生については手元に資料がなく、判りません。比較的はっきりしているのは、中
年以降の事績です。
1858年(安政5年)、幕府は朝廷の勅許を受けないまま日米修好条約に調印
してしまいますが、これを怒った孝明天皇は、幕府と水戸藩に幕政改革を迫る
勅書を下します。この勅書は幕府の定めた手順を踏んでおらず、また水戸藩へ
直接下されたものであったことから、幕府はこれを政府転覆の企てと受け取り、
ここから安政の大獄が始まります。水戸藩に対しては、関係者を処罰したほか、
勅書の返還を迫ります。
この対応を巡って、水戸藩内の意見は分かれます。水戸藩では、元々幕府に忠
実な保守派と、尊王攘夷思想を抱く尊攘改革派が居ましたが、保守派は返納、
また尊攘改革派の中でも返納派(鎮派)と反対派(激派)に別れます。1859年
(安政6年)、12月、激派は勅書返納を実力で阻止するために、水戸と江戸の間
にある長岡に集まります。(長岡勢)
この長岡勢の中に粕谷新五郎もいました。彼は、家督を嗣子親之助に譲り、この
挙に参加しています。長岡勢は、藩からの追討を受け、また藩主の説得もあって
翌1860年(万延元年)2月に解散しますが、この内一部の勢力が江戸へ向けて
脱出し、桜田門外の変を起こしています。
粕谷新五郎は、同年8月に激派の中の同士38名と共に江戸の薩摩藩邸に駆け
込み、攘夷の先鋒を勤めたいと意見書を提出しています。しかし、薩摩藩では粕
谷らを拘束し、水戸藩に引き渡してしまいます。粕谷は、これ以後、1862年(文
久2年)12月に赦免されるまで、獄中で過ごす事になります。
粕谷は、翌1863年(文久3年)浪士組が募集されるとこれに参加、取締手附と
なります。そして、壬生浪士組創設のメンバーの一人となりますが、興味深い事
に彼が壬生に居た間は、新見錦と一緒に南部家に寝泊まりしていた様です。もし
かしたら、芹沢以上に新見と繋がりが深かったのかもしれません。
粕谷は、殿内が殺害された後、根岸友山と共に脱退し、故郷御前山村に戻りま
す。翌1864年(元治元年)天狗党の乱に参加しますが、追討を受け、下野小山
の持宝寺で自刃したと伝えられます。享年44歳。彼の墓は、靖国神社にあるそ
うです。
長々と書いてきましたが、ドラマの中で「様々な組織に入っては内部の醜い争い
を見て来た。」と言っているのは、以上のような経歴があったからですね。水戸藩
というのは、なかなか解りにくい所で、私もまだ十分には把握仕切れていないの
ですが様々な党派に別れては抗争を繰り返していた様です。
例えば、激派の中でもいくつかの分派があり、まず桜田門外の変を起こしたグル
ープが出ています。そして、粕谷らのグループが薩摩藩邸に駆け込んだとき、芹
沢は同じ激派ながら、粕谷らとは別に、直接行動を主張する玉造党に参加し、そ
の幹部になっています。また、浪士組が結成された頃、芹沢や粕谷はこれに参
加しますが、他の激派の一部は、水戸藩主と共に上京の途につき、長州藩の手
引きで京都本国寺に集結し、本国寺党と呼ばれるようになります。芹沢や新見は、
この本国寺党と頻繁に連絡を取っていた様です。
水戸藩が、幕末の動乱が始まった頃には時代の主流をなしていたのが、幕末ぎり
ぎりの段階になると全くの傍流となって、時代に取り残された様になってしまうのは、
こうした分派とそれに伴う内部闘争が繰り返されてきた結果、人材が居なくなったた
めだと言われています。
ドラマでは、粕谷は近藤に内部抗争はしないと約束させていますが、殿内殺害によ
り、その約束が破られたと憤り、脱退するという設定になりそうですね。
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