新選組!5
今回の新選組!は、芹沢鴨に焦点が当たっていましたね。芹沢鴨と言えば、
とんでもない乱暴者というイメージがありますが、佐藤浩一演ずる芹沢は、ど
こか風格を感じさせるものがあります。
芹沢鴨は、水戸の郷士芹沢家の三男「玄太」として生まれ、元服後弟橘媛
神社の神官下村家に養子に入り、名を下村継次と改めます。彼は、養父を
継いで神官となり、水戸流の尊王攘夷思想を学ぶと同時に、水戸の剣術師
範であった戸ケ崎熊太郎の下に入門し、免許皆伝を受けています。
安政の大獄が行われたとき、朝廷から水戸藩に対して対処を促す勅書が下
ります。これを知った幕府は、勅書を朝廷に返すよう迫りますが、水戸の下級
武士達はこれに反発し、反対運動を起こします。これを勅書降下事件と言い
ますが、このときの同士の一人に粕谷新五郎が居ました。継次がこのメンバ
ーに居たという記録はありませんが、この事件の前後に下村家を出ている様
です。
翌年、水戸斉昭の死と共に水戸の尊王攘夷派の中で分裂が生じ、このとき
粕谷新五郎と継次は袂を分かっています。継次は攘夷を断行しようとする玉
造党(後の天狗党)に入り、幹部となります。しかし、玉造党は、一部党員が
資金集めとして豪商を強請るなどしたため、藩当局から追われる身となり、継
次も投獄されてしまいます。継次は、斬首と決まりますが、朝廷からの内意
により大赦が行われ、危ないところを助かっています。
牢を出た継次は芹沢家に戻り、ここで芹沢鴨と名を改めました。そして、間も
なく行われた浪士組の募集に応じ、京都へ向かいます。以後の経過は省略
しますが、前回の番組の中で粕谷新五郎と険悪な雰囲気があったのは、か
つては同士であったが、思想の違いで袂を分かったという事に起因している
様ですね。
以上の様に、芹沢鴨は、元々は尊王攘夷派の志士でした。そして、無知な乱
暴者と言う訳ではなく、玉造党の幹部を務めていたことからも判るように、教養
もあり、人望もある人物だったようです。
そういう彼が、新選組局長となり、尊王攘夷派の志士を取り締まる側に廻った
あたりから、おかしくなる様ですね。幕府に対する敬意の多寡の違いこそあれ、
彼が取り締まろうとする志士達は、水戸の尊王攘夷思想の信徒なのですから。
いわば、かつての仲間に対する裏切り行為であり、自らの思想を否定する事
も意味しました。
芹沢の腹心であった新見錦もまた近藤勇達によって粛正されていますが、彼
は勤王の志士として霊山に祀られている様です。このことから、新見の場合は
芹沢以上に勤王思想にこだわり、その結果粛正されたのではないかという説
があります。
芹沢鴨は、幕府の治安維持部隊の長としての立場と、尊王攘夷思想との間に
挟まって身動きが取れなくなったのではないでしょうか。その結果が、酒に溺
れての乱暴狼藉だったのかも知れません。
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コメント
http://gaagle.jp/gagazine/print.php?kiji_id=5294
http://matome.naver.jp/odai/2144074576044873801
http://www.amazon.co.jp/dp/4434213881
芹沢鴨の出身については近年芹沢村出身ではないのではと言う説が強くなってきていますね。長谷川庄七という人が貞幹の子供として見つかったことで、年齢計算が合わなくなったのが理由なのと、「玄太」は「兵太」の読み間違いで少なくとも鴨とは違うと言うことが判明したからだそうです。
分家の芹沢又衛門の子供なのではないかとも言われてはいますね。
下村嗣次については養子に入っていたことを裏付ける史料は出て来たようです。
書籍も出ているようですね。
投稿: 山岡 | 2016.05.14 16:42
山岡さん、はじめまして。コメントありがとうございます。
なるほど、芹沢鴨については、こういう説が強くなっているのですね。
暫く新選組からは離れていたので知らなかったです。
また勉強し直さなければなりませんね。
情報の提供ありがとうございました。
投稿: なおくん | 2016.05.14 22:16