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2004年4月

2004.04.27

新選組!8

新選組!第16回「一筆啓上、つね様」、ようやく壬生浪士組の結成が決
まり、24名の参加者が揃いました。
この24人は、決して一枚岩だった訳ではなく、分類すると次のようになり
ます。

芹沢派
芹沢鴨、新見錦、平間重助、平山五郎、野口健司

近藤派
近藤勇、山南敬助、土方歳三、沖田総司、永倉新八、井上源三郎、
藤堂平助、原田佐之助、斎藤一

幕府から派遣された取締役
殿内義雄、家里次郎

根岸派
根岸友山、鈴木長蔵、清水吾一、遠藤丈庵

水戸藩
粕谷新五郎、上城順之助

対馬藩
阿比留栄三郎

長州藩
佐伯又三郎

この最初の残留者については諸説あり、13名説、20名説、25名説などが
あります。この24名説は、会津藩庁の記録にあるもので、ドラマではこの説
を採用したのですね。

さて、この24名のうち殿内義雄と家里次郎は、近藤、芹沢によって粛正され
てしまいます。幕府の意に沿う様に壬生浪士組を動かそうとしたのですが、
近藤等と意見が対立し、内部粛正に遭ったものとされています。殿内は、3
月25日に四条大橋で斬殺、家里は4月24日に大阪で芹沢等に追いつめら
れ、切腹したと言われています。どうやら、次回のドラマでは、どちらも芹沢が
単独で殺害したという設定になるようですが、実際には殿内については近藤
が手を下しているようです。(失策があったので天誅を下したと書いた近藤の
手紙があるそうです。)

根岸友山は、武州大里郡甲山村の人で、千葉周作に北辰一刀流を学んでい
ます。1833年(天保4年)、故郷で荒川改修組合を組織し改修工事に関わり
ますが、その中で幕吏と業者の不正を発見し強訴します。しかし、返って捕らえ
られ牢に繋がれてしまいます。出獄後は、三余堂という塾や剣術の道場を開き、
桂小五郎や久坂玄瑞ら長州の志士と親交があったと言われてれます。浪士組
では一番組小頭となりますが、このとき既に54歳と、当時としてはかなりの高
齢でした。ドラマの中でおじいちゃんと言われていたのは、無理もない所ですね。
友山は、殿内殺害後、鈴木、清水、遠藤と共に江戸へ帰ります。友山は、この
あと新徴組の世話役になりますが、すぐに脱退し、その後は倒幕の志を抱いた
と伝えられ、鳥羽伏見の戦で幕府軍が破れると祝宴を張ったそうです。その後
は、明治23年まで存命し、88歳でこの世を去りました。後の3人もやはり新徴
組に入りますが、鈴木と遠藤は共に間もなく脱退し、清水は最後まで新徴組に
属し、庄内藩と共に戦っています。

水戸藩士のうち、上城順之助は、一度は残留したもののすぐに変心し、江戸へ
帰り新徴組に入っています。しかし、これもすぐに脱退し、その後の事は良く判っ
ていません。

阿比留栄三郎は、対馬の人で、この人も北辰一刀流を学んでいます。ドラマに
あるように病身で、壬生浪士組発足から1ヶ月も経たない4月6日に病気で亡く
なっています。また、これとは別に殺害されたという説もあるようです。

佐伯又三郎は、これからドラマに出てくるかも知れませんね。長州の人で一説
には江戸の人とも言います。最初から浪士組に居たのではなくて、京都で参加
した人です。後に副長助勤を勤めていますが、新選組始末記では、芹沢鴨のお
気に入りで、芹沢の意を受けて、隊士の佐々木愛二郎の恋人を芹沢のものとす
るために佐々木をだまし討ちにします。しかし、そのときその恋人をも殺めてしま
ったために、怒った芹沢に殺された、となっています。また、これとは別に、佐伯
は久坂玄瑞が間者として壬生浪士組に潜入させていたのですが、かえって長州
藩の機密を新選組に漏らしたため、久坂によって粛正されたとする説もあります。
さて、このドラマでは、どちらの説を採るのでしょうか。

最後に、粕谷新五郎ですが、実はこの人は最近この「ねこづらどき」のスターと
なっている人です。沢山の方に訪れて頂いているのですが、その割に書いてあ
る事が不親切なので、もう一度まとめ直しておきます。

粕谷新五郎は、1820年(文政3年)に水戸藩士粕谷忠兵衛の子として産まれ
ています。残念ながら、どこで剣の修行をしたとか、学問を修めたかなどの前半
生については手元に資料がなく、判りません。比較的はっきりしているのは、中
年以降の事績です。

1858年(安政5年)、幕府は朝廷の勅許を受けないまま日米修好条約に調印
してしまいますが、これを怒った孝明天皇は、幕府と水戸藩に幕政改革を迫る
勅書を下します。この勅書は幕府の定めた手順を踏んでおらず、また水戸藩へ
直接下されたものであったことから、幕府はこれを政府転覆の企てと受け取り、
ここから安政の大獄が始まります。水戸藩に対しては、関係者を処罰したほか、
勅書の返還を迫ります。

この対応を巡って、水戸藩内の意見は分かれます。水戸藩では、元々幕府に忠
実な保守派と、尊王攘夷思想を抱く尊攘改革派が居ましたが、保守派は返納、
また尊攘改革派の中でも返納派(鎮派)と反対派(激派)に別れます。1859年
(安政6年)、12月、激派は勅書返納を実力で阻止するために、水戸と江戸の間
にある長岡に集まります。(長岡勢)

この長岡勢の中に粕谷新五郎もいました。彼は、家督を嗣子親之助に譲り、この
挙に参加しています。長岡勢は、藩からの追討を受け、また藩主の説得もあって
翌1860年(万延元年)2月に解散しますが、この内一部の勢力が江戸へ向けて
脱出し、桜田門外の変を起こしています。

粕谷新五郎は、同年8月に激派の中の同士38名と共に江戸の薩摩藩邸に駆け
込み、攘夷の先鋒を勤めたいと意見書を提出しています。しかし、薩摩藩では粕
谷らを拘束し、水戸藩に引き渡してしまいます。粕谷は、これ以後、1862年(文
久2年)12月に赦免されるまで、獄中で過ごす事になります。

粕谷は、翌1863年(文久3年)浪士組が募集されるとこれに参加、取締手附と
なります。そして、壬生浪士組創設のメンバーの一人となりますが、興味深い事
に彼が壬生に居た間は、新見錦と一緒に南部家に寝泊まりしていた様です。もし
かしたら、芹沢以上に新見と繋がりが深かったのかもしれません。

粕谷は、殿内が殺害された後、根岸友山と共に脱退し、故郷御前山村に戻りま
す。翌1864年(元治元年)天狗党の乱に参加しますが、追討を受け、下野小山
の持宝寺で自刃したと伝えられます。享年44歳。彼の墓は、靖国神社にあるそ
うです。

長々と書いてきましたが、ドラマの中で「様々な組織に入っては内部の醜い争い
を見て来た。」と言っているのは、以上のような経歴があったからですね。水戸藩
というのは、なかなか解りにくい所で、私もまだ十分には把握仕切れていないの
ですが様々な党派に別れては抗争を繰り返していた様です。

例えば、激派の中でもいくつかの分派があり、まず桜田門外の変を起こしたグル
ープが出ています。そして、粕谷らのグループが薩摩藩邸に駆け込んだとき、芹
沢は同じ激派ながら、粕谷らとは別に、直接行動を主張する玉造党に参加し、そ
の幹部になっています。また、浪士組が結成された頃、芹沢や粕谷はこれに参
加しますが、他の激派の一部は、水戸藩主と共に上京の途につき、長州藩の手
引きで京都本国寺に集結し、本国寺党と呼ばれるようになります。芹沢や新見は、
この本国寺党と頻繁に連絡を取っていた様です。

水戸藩が、幕末の動乱が始まった頃には時代の主流をなしていたのが、幕末ぎり
ぎりの段階になると全くの傍流となって、時代に取り残された様になってしまうのは、
こうした分派とそれに伴う内部闘争が繰り返されてきた結果、人材が居なくなったた
めだと言われています。

ドラマでは、粕谷は近藤に内部抗争はしないと約束させていますが、殿内殺害によ
り、その約束が破られたと憤り、脱退するという設定になりそうですね。


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2004.04.23

湯波半 3

YUBAHAN7.jpg

今日は、湯波半の巻ゆばです。要するに乾燥湯葉なのですが、
くるくると巻いてあるだけで、よくあるように一口分に切ってある
訳ではなく、30cm程度の長さがあります。うっかり強く握ると
ばらばらになってしまうので、持ち帰る時には注意が必要です。

普通、乾燥湯葉を食べるときにはそのまま鍋に入れれば良い
のですが、この巻ゆばは大きいのでそうもいきません。そこで、
あらかじめ湿らせた布巾で巻いて、しばらく置きます。すると、
湯葉全体がしんなりとして来ますので、包丁で適当な大きさに
切ってやり、調理に使います。

YUBAHAN3.jpg


今回は、湯豆腐に入れてみました。4人家族なので4等分して
鍋に入れます。味の方は、これまで食べた中では一番味が濃
く、おいしいように感じました。

1本320円。少し手間が掛かりますが、お買い得だと思います。


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2004.04.22

湯波半 2

YUBAHAN2.jpg

写真は、湯波半のつまみ上げゆば。いわゆる汲み上げ湯葉ですね。
豆乳に火を通して膜が張ったものが湯葉になるわけですが、これは
その膜になる直前の状態で汲み上げて、水気を切ったものです。
言うなれば、湯葉のうま味が凝縮されたものですね。

食べ方は色々ですが、今回はそのままの状態で、ネギを添えてワサ
ビ醤油で食べてみました。

うーん、さすがに美味しいです。豆腐をうんと濃くして、ほんのり甘味
を加えた味と言いましょうか。それでいて、あくまで上品な味わい。

一箱1200円とちょっと高価なのですが、それだけの値打ちはあると
思います。お勧めです。

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2004.04.21

湯波半 1

YUBAHAN5.jpg

息子達に依る京都探訪、今回は、老舗を訪ねて貰いました。行き
先は、湯波半。

湯波半は、1716年(享保元年)の創業で、今年で288年になるという
老舗です。場所は、麩屋町通御池上がる。インターネットで、場所や店
構えを調べておいて、さあ、二人で出発です。

今回は、前回撮れなかった京都御所の周辺の撮影も兼ねていて、まず
はそこからスタートです。御所までの道順は、前回に経験済なので迷わ
ずに着けました。ここから、広い京都御苑の中を一周する訳ですから、
結構大変です。地図を頼りに慣れない砂利道の中をポイントを探して歩
きます。全部撮り終わった時には1時間半近く経っていました。

ここから、麩屋町通を探します。この界隈は、名探偵コナンの迷宮のクロ
スロードの舞台になったあたり。丁度、2日前にテレビで見たばかりだか
ら、その雰囲気も味わっておいでと言ったのですが、特に判らなかったそ
うです...。

無事に麩屋町通を探し当て、後は南下するばかり。丸、竹、夷、二、押、
御池とコナンの映画にも出ていた手まりうたを覚えさせておいたのです
が、これもあまり役に立たなかったとか...。それでも、ちゃんとたどり
着けたんだから、大したものです。

湯波半の店構えは、老舗らしく古めかしいものです。この二人、ちゃんと
中に入って買い物が出来るかと少し不安だったのですが、漬物屋さんみ
たいだったとあっけらかんとしています。何度も連れて行った村上重で慣
れていたのですね。

お店では、二人を歓迎してくれたようです。汲み上げ湯葉の味見をさせて
もらったと大喜びで帰って来ました。

さて、二人が買ってきたのは、つまみ上げゆば(汲み上げ湯葉)と巻ゆば
です。どんなもので、どうやって食べたかは、明日アップする予定です。

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2004.04.20

新選組!7

今回の新選組!「行くか、残るか」、三谷流が炸裂していましたね。
近藤一派が清河をかばって逃がすというのは、初めて見た設定で
す。芹沢と土方が一緒になって清河を狙ったという小説もある位で
すから。それにしても、「清河先生、ありがとう!」は、幾ら何でもや
りすぎなんでは。まあ、私は三谷ファンですから、これからも見つづ
けますけどね...。

今回、残留するかどうかで悩んでいた堺雅人演じる山南啓助。これ
まで、なよなよした印象しかなかったのですが、前々回あたりから存
在感が出て来ました。やさしそうに見えて、内面には激しさを秘めて
いる、そんなキャラクターが良く出ていると思います。従来から、新選
組隊士の中でも沖田に次いで女性に人気の高い人ですね。

山南と書いて「やまなみ」と読みますが、三南と書いた署名があり、
「さんなん」が正しいとする説もあります。仙台脱藩で、北辰一刀流の
免許皆伝者と伝えられ、近藤と立ち会って竹刀を巻落とされ、天然理
心流に入門しなおしたとされます。また、このとき、近藤の人柄に惹か
れたのだとも言われています。

よく土方歳三と対比され、冷酷な土方に対して温厚な山南、隊をまと
めるのに長けた土方に対して政治力には乏しい山南、実務家の土方
に対して教養派の山南などが代表的なところでしょうか。しかし、温厚
と言われながらも芹沢鴨の暗殺には参加しており、やはりこの時代に
生きる人らしい非情な一面も持っていたようです。

山南は、最初副長の職にあり、後に総長となりますが、隊の実権は土
方が握っていたようです。山南が後に隊を脱走する背景の一つには、
この土方との軋轢があったのではないかと言われています。

山南が免許皆伝を得ている北辰一刀流は、伝統的に水戸学派の影響
が強く、尊王攘夷の思想が強いとされる流派です。清川もそうで、今回
山南が残留を迷ったと理由も、清川を逃がした理由も、同門という事が
あったという設定になっていました。

以前書いた芹沢や新見錦なども筋金入りの尊王攘夷の志士で、後の
新選組の性格から考えると、何故彼等や山南がここに居たのか判らな
くなってきます。しかし、新選組が当初は尊王攘夷のための結社という
性格を持っていた事を考えると、この謎は解けます。

他ならぬ近藤自身が、攘夷の魁たらん事を欲し、幕府に対してこのまま
幕府が攘夷に踏み切らないのなら、自分たちは解散すると迫った事が
あり、彼等の真の目的は攘夷にあった事が判ります。しかし、現実は幕
府の警察機構に組み込まれ、尊攘派の志士を切る側に回ってしまいま
す。山南とすればとんでもない話で、池田屋事変の時に彼が参加しな
かったのは、同じ思想の徒を切る事に反対だったからではないかとも言
われています。

山南が、決定的に近藤、土方と対立するのは、西本願寺への移転から
だとされます。山南は、尊王攘夷の傾向が強い西本願寺に同情的で、
また新選組のような殺戮集団は寺に入るべきではないと考えたらしく、
極力反対しますが、結局二人に押し切られます。この直後、山南は脱走
しており、直接にはこの件が引き金になったものと思われます。しかし、
全体としては、新選組のあり方が、当初抱いていた攘夷の先鋒という姿
から大きく変貌し、山南の思想と全く相容れない姿になった為ではないで
しょうか。その一方で、近藤に対する個人的な思い入れは残っており、沖
田に追いつかれるや、従容と屯所に戻り切腹の座についたのは、そのせ
いではないかという気がします。

山南の人柄を表す逸話が、切腹に際しての明里との別れの場面です。明
里は、島原の輪違屋の天神で、山南のなじみでした。永倉新八が山南の
頼みで連絡してやったと言います。二人は、前川邸の西にあった出窓の外
と中で、30分ほどの間、別れを惜しんでいたそうです。最後に障子が中か
らしまったときの明里の悲しむ様子は見る者の涙を誘ったそうです。

このドラマの設定では、山南がより格好良く描かれている様に思えます。
今後、山南の人気はぐっと上がって来るのではないでしょうか。

山南啓助の墓は、光縁寺にあります。


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2004.04.12

新選組!6

新選組!、ようやく京都に着きました。これからようやく新選組らしく
なりそうです。

ドラマでの、八木家の人々の反応が面白いですね。伊東四朗扮する
八木源之丞は、どことなくユーモラスで人の良さそうな感じですが、実
際の人物もあんな感じだった様ですね。

結成当初の新選組は、貧乏ですから何も持っておらず、槍だの弓だの
提灯だのと何かにつけて八木家から借り受けていたそうです。そして、
返してきた時には、大抵どこか損じていたとか。八木家にしてみれば、
大迷惑だったことでしょうね。新選組が八木家を引き払った後、礼金と
して置いていった金が5両だったそうです。源之丞は、「2年も3年さん
ざん荒らしていった家賃にしてはやすいなぁ。」とにこにこ笑って、この
金で祝いの酒樽を買って、隊に届けたそうです。こういう人だから、新
選組の世話も出来たのでしょうね。

ドラマの中で、箒が逆さまになっているのを近藤が何度も元に戻すとい
う場面がありましたが、あれは早く帰れという京都のまじないですね。
これと少し似ている逸話があって、八木家で葬儀があったとき、葬列に
従う人が槍を持つのですが、これを左手に持っていたそうです。それを
見た芹沢が、槍は右に持つものだと間違いを指摘しますが、八木家の
人は、これがこのあたりの風習だと言って直さなかったそうです。今で
もそうですが、当時は関東と関西の風習の違いは大きかった事でしょう
ね。こうした風習を知らなかった事も、彼らが最初壬生浪と呼ばれた要
因の一つだったのかも知れません。

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2004.04.06

新選組!5

今回の新選組!は、芹沢鴨に焦点が当たっていましたね。芹沢鴨と言えば、
とんでもない乱暴者というイメージがありますが、佐藤浩一演ずる芹沢は、ど
こか風格を感じさせるものがあります。

芹沢鴨は、水戸の郷士芹沢家の三男「玄太」として生まれ、元服後弟橘媛
神社の神官下村家に養子に入り、名を下村継次と改めます。彼は、養父を
継いで神官となり、水戸流の尊王攘夷思想を学ぶと同時に、水戸の剣術師
範であった戸ケ崎熊太郎の下に入門し、免許皆伝を受けています。

安政の大獄が行われたとき、朝廷から水戸藩に対して対処を促す勅書が下
ります。これを知った幕府は、勅書を朝廷に返すよう迫りますが、水戸の下級
武士達はこれに反発し、反対運動を起こします。これを勅書降下事件と言い
ますが、このときの同士の一人に粕谷新五郎が居ました。継次がこのメンバ
ーに居たという記録はありませんが、この事件の前後に下村家を出ている様
です。

翌年、水戸斉昭の死と共に水戸の尊王攘夷派の中で分裂が生じ、このとき
粕谷新五郎と継次は袂を分かっています。継次は攘夷を断行しようとする玉
造党(後の天狗党)に入り、幹部となります。しかし、玉造党は、一部党員が
資金集めとして豪商を強請るなどしたため、藩当局から追われる身となり、継
次も投獄されてしまいます。継次は、斬首と決まりますが、朝廷からの内意
により大赦が行われ、危ないところを助かっています。

牢を出た継次は芹沢家に戻り、ここで芹沢鴨と名を改めました。そして、間も
なく行われた浪士組の募集に応じ、京都へ向かいます。以後の経過は省略
しますが、前回の番組の中で粕谷新五郎と険悪な雰囲気があったのは、か
つては同士であったが、思想の違いで袂を分かったという事に起因している
様ですね。

以上の様に、芹沢鴨は、元々は尊王攘夷派の志士でした。そして、無知な乱
暴者と言う訳ではなく、玉造党の幹部を務めていたことからも判るように、教養
もあり、人望もある人物だったようです。

そういう彼が、新選組局長となり、尊王攘夷派の志士を取り締まる側に廻った
あたりから、おかしくなる様ですね。幕府に対する敬意の多寡の違いこそあれ、
彼が取り締まろうとする志士達は、水戸の尊王攘夷思想の信徒なのですから。
いわば、かつての仲間に対する裏切り行為であり、自らの思想を否定する事
も意味しました。

芹沢の腹心であった新見錦もまた近藤勇達によって粛正されていますが、彼
は勤王の志士として霊山に祀られている様です。このことから、新見の場合は
芹沢以上に勤王思想にこだわり、その結果粛正されたのではないかという説
があります。

芹沢鴨は、幕府の治安維持部隊の長としての立場と、尊王攘夷思想との間に
挟まって身動きが取れなくなったのではないでしょうか。その結果が、酒に溺
れての乱暴狼藉だったのかも知れません。

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2004.04.01

ねこづらどきの語源

このページのアクセス解析を見ていると、時々ですが、検索キーワードに「ねこ
づらどき」が出て来ます。ちょっと風変わりなこのページのタイトルを見て、何か
語源があるのかな、と調べてみたくなるものなのでしょうか。でも、ネット上で
検索しても、出てくるのはこのページだけの様ですね。

「ねこづらどき」の意味は、ページのトップに書いてあるように「黄昏どき」です。
この言葉は、小豆島を舞台にした壺井栄さんの小説「母のない子と子のない
母と」に出て来るもので、作品の中では「ねこづら時」と最後が漢字になってい
ます。ですから、小豆島の方言と思われますが、今でも使うかどうかは、判り
ません。語源は、この小説でも「なぜこういうのか判らない」と書かれており、
不明と言うしかないですね。語感から考えると、黄昏時に人の顔が見分け難
くなる状況を、猫の表情を見分けるように判りにくいと表現したものでしょうか。

この小説を読んだのは高校生の頃だったのですが、この言葉はずっと覚えて
いました。黄昏時というのも良い言葉なのですが、「ねこづらどき」というのも
何だかユーモラスで面白いと思ったのです。また、作品上でも、行方不明だっ
たお父さんが、夕暮れの中を息子を迎えに来るという印象的な部分ですから
ね。

ねこづらどきは、そういうほっとするような、懐かしいようなページにしたいとい
う意味を込めて付けたタイトルです。

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