京都の散歩道 幻の銅閣
今日紹介するのは、幻に終わった銅閣、祇園閣です。
祇園閣は、大倉財閥の創始者大倉喜八郎が、隠居所として建てた別荘「真葛荘」に
由来します。1927(昭和2年)に竣工し、設計は伊東忠太が担当しています。この伊
東忠太は、明治から昭和にかけての建築界の権威として知られる人で、他に平安神
宮や明治神宮など多くの設計に携わっています。
さて、大倉喜八郎は、伊東忠太に対して、当初、金閣、銀閣に次ぐ銅閣の設計を依
頼します。その内容は、傘が逆さまに開いた形という奇抜なものであったらしく、あま
りに斬新過ぎたためか伊東は実現困難であるとして断ります。これに変わる案として
提案されたのが祇園祭の鉾で、一年中鉾が見られのも楽しいだろうという発想でした。
ただ、銅閣の夢は忘れられず、屋根は銅葺きにするよう頼んだという事です。
大倉喜八郎は、この祇園閣の完成直後に亡くなっています。せっかくの別荘も、当人
は住むことなく終わってしまったのでした。
祇園閣は、その後大倉家の手を離れ、高島屋の所有に変わります。高島屋では、こ
の別荘を内覧会などの会場として使用していましたが、1974年(昭和48年)に店舗
拡張のために隣接していた大雲院に土地の交換を持ちかけ、以後祇園閣は大雲院
が所有することになります。
この祇園閣をまだ高島屋が所有していた頃、内部を見せてもらった事があります。当
時、私は小学生だったのですが、学校の課外授業の一環として、祇園閣を調べに行
ったのでした。私の学校は祇園閣からは離れた場所にあったのですが、東山に聳え
る高閣は当時の小学生にとっても謎の存在で、歴史クラブにおいても意見百出の状
態でした。それなら直接聞きに行けば良いではないかという先生の意見で、代表して
私が調べに行く事となりました。
母親に付き添ってもらって祇園閣を訪ねたのですが、当時の管理人さんは親切な方
で、学校の授業の一環ですと言うと、すぐに中に入れてくれました。中に入ってまず
目についたのが洋館建の建物で、壁に1927と数字が入っています。洋画に出てくる
建物のようで、当時の私にはとても新鮮に映りました。
さて、肝心の祇園閣ですが、まず大きな金属製の扉が目を惹きます。この扉を開ける
と、内側に描かれた2羽の鶴が出迎えて呉れます。扉の中は左右に分かれた階段に
なっており、展望台へと続いています。実は、中には豪華な部屋があるのではないか
と期待していたのですが、案に相違してがらんとした空間があるだけで、ちょっとがっ
かりした記憶があります。ただ、天井には極彩色の模様が描かれており、その点は華
やかな感じがしました。また、この時は気づかなかったのですが、この天井画の周囲
には、伊東忠太得意の怪獣の姿をしたランプ台が設置されているようです。展望台か
らの眺望はさすがに素晴らしく、市内が一望に出来るものでした。
このとき管理人さんに聞いた話は、冒頭に書いた内容と少し違っています。まず、銅
閣を止めた理由ですが、設計が難しかった事もありますが、時の将軍家が建てたも
のを真似するのは恐れ多い事ではないかと指摘する人があり、やむなく断念したとい
う事でした。また、大倉喜八郎が亡くなったのは祇園閣が完成する2ヶ月前のことで、
出来上がった姿を見ることはなかったとの事でした。
このあたりについて今回調べてみたのですが、喜八郎が亡くなったのは昭和3年の
事、祇園閣の完成年については昭和2年とする説と3年とする説に分かれており、正
確な事は判らないというのが正直な所です。
最近、この祇園閣がある大雲院を銅閣寺と呼ぶそうです。祇園閣の成立の経緯を踏
まえての事と思いますが、銅閣を断念して祇園閣として建てている以上、今さら銅閣
と呼ぶのはどうでしょうか。話としては面白いと思いますが、ちょっと無理があるような
気がします。
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