桂の木の下で 5
やがて卒園の日を迎えた。
卒園式は母親同伴だった。親たちは一様ににこやかに笑い、無事に卒園を迎えた事を称えあった。小学校に上がる事は、なるほど目出度いに違いなかった。でも、私の中の不安は消えていなかった。小学校で友達になれそうな何人かの子にあたりは付けたけれども、正直言って心許ない相手ばかりだった。
卒園式は無事に終わり、最後のお別れを言うべく皆で教室に戻った。私は不安を隠すため、出来るだけ快活を装って仲間と別れのあいさつを交わした。
近くに住む子達には、
「また会おな!」
の一言を添え、遠くに住む子には、
「大きくなったらまた会えるって。」
と言った。どちらも私にとっては希望の言葉だった。いや、不安を打ち消すための魔法の言葉だったかも知れない。親たちは私の言葉を笑って聞いていたが、私は祈る様な気持ちで、仲間にまた会おうと言っていたのだった。
気がつくと、亜紀ちゃんがお母さんと二人で立っていた。あの日、先生はきつく何かを言っていたけれど、二人の様子は何事も無かったかの様に見えた。彼女のお母さんもまた、控えめながら笑顔で立っていた。ただ、どのお母さんとも話をしようとはしなかった。
私は亜紀ちゃんにもあいさつをしたかった。けれども、話しかけないでと何度も言われた以上、近づく事はためらわれた。
本当は亜紀ちゃんと仲直りをし、一緒に小学校に行けたらどんなに良いだろうと思っていた。亜紀ちゃんとなら行き帰りは同じ道だし、また帰りに家に寄って遊んで帰る事も出来る。学校で嫌な目にあっても、亜紀ちゃんと一緒ならきっと何とかなる。そう思っていた。
けれども、亜紀ちゃんは○○小学校には行かないと言ったきりだった。その後、話す事も出来ないまま今日まで来てしまっていた。毎日バスではすぐ前に座っていたにも関わらずだ。
一通りあいさつを済ました私は、母親の側に行った。もう幼稚園でする事は何も残ってはいなかった。あとは先生にあいさつをして帰るだけのはずだった。ところが、ふと横を見ると亜紀ちゃんがすぐ隣に来ていた。そして、素早く私の耳に囁いた。
「今日、家に行くから待ってて。」
亜紀ちゃんはそう言うと、驚いた私を残して、さっさと母親の下に戻っていった。亜紀ちゃんのお母さんは、私と彼女を等分に見比べ、何をしていたのと亜紀ちゃんに聞いていた。ううん、何もと答えた亜紀ちゃんは、素知らぬ顔をして向こうを見た。亜紀ちゃんのお母さんは少し首をかしげ、それから私を見てにこりと笑って会釈をした。
家に帰った私は制服を脱いで普段着に着替えた。卒園したのだから、もう制服は着ていられないと思ったのだった。そして、いつかの様に家の表に出て亜紀ちゃんが来るのを待った。話しかけるなと言っていた亜紀ちゃんが、家に来ると言ったのは意外だった。しかし、最後の日に会えるのは嬉しくもあった。また、何を言われるのだろうと不安でもあった。
やがて、鳥居の向こうから亜紀ちゃんが出てくるのが見えた。亜紀ちゃんはまだ制服のままだった。小柄な亜紀ちゃんは、まるで手まりが転がる様に駆けて来た。私の前まで来て止まった亜紀ちゃんを、私は家の中に誘った。とこころが亜紀ちゃんは、
「外がいい。家の人に会いたないの。」
そう言って私を桂の木の下に引っ張って行った。桂の木は、ちょうど芽吹き始めたところだった。上を見上げれば、冬枯れの枝にうっすらと緑が萌えているのが判った。私は亜紀ちゃんが何かを言い出すのを待った。
亜紀ちゃんは暫く黙ったあと、堰が切れた様に話し始めた。
「ごめんな、いけずばっかりゆうて。ほんまは、ずっと話たかってん。もっと遊びたかってん。でも、お母さんがあかんて言うてん。もうあの子と遊んだらあかん、家にも呼んだらあかんて。」
亜紀ちゃんは何を言い出したのかと思った。聞き間違えたのかとも思った。亜紀ちゃんは謝っている。そうか、私に冷たくしたのはお母さんに止められたからなのか。そうなんだ。お母さんの言いつけだったのなら仕方がないか。亜紀ちゃんの言葉を聞き、私の心の中にあったわだかまりがすっと消えていくのが判った。
「良かった。嫌われたかと思てた。」
「ううん。そんな事ない。ずっと一緒に居たかってん。何回も話しかけてくれたの、嬉しかってん。でも、もう話したらあかんて言われてたん。」
一生懸命の顔で亜紀ちゃんは言った。
私の思いは亜紀ちゃんに通じていた。私は目の前の霧が晴れ、心に暖かいものが満ちあふれて来る様な気がした。
「私な、もう幼稚園にも行ったらあかんて言われてたん。外にも出たらあかんて。でも、幼稚園だけは行かせてて頼んだん。泣いて頼んだん。」
なぜお母さんがそう言ったのかは判らなかった。聞いても亜紀ちゃんは答えなかっただろう。でも、私にはお母さんの事情はどうでも良い事だった。
「もうええよ。それより、小学校一緒に行こな。○○小学校に行くんやろ。」
心から安心した私は亜紀ちゃんにそう言った。きっと、小学校も楽しくなる。でも、行き帰りに一緒に歩くのは彼女が嫌がるかな。家の近くなら良いか。またあの家で遊べる、小学生になったら何をして遊ぼうか。
ところが亜紀ちゃんは声を落としてこう言った。
「○○小学校には行けへんて言うたやろ。」
意外な彼女の言葉に私は動揺した。
「けど、他にどこに行くところがあるの。」
「判らへんねん。」
亜紀ちゃんは俯いてそう言った。そして、やがて決心した様に私に言った。
「私、引っ越しするねん。そやから、小学校には一緒に行かれへん。」
引っ越し?引っ越しって何だろう。亜紀ちゃんがどこかに行くという事?小学校には一緒に行けない?そう言えば亜紀ちゃんは鎌倉から来たのだった。じゃあ、また鎌倉に帰るのか。せっかく仲直りしたのに、もう会えなくなる?そんなの嫌だ。それとも、引っ越すって京都の市内?京都の中なら何とかなる。
一瞬のうちに、様々な思いがよぎった。ついさっき見つけた暖かな幸せが消えようとしていた。このままじゃ駄目だ。何とかしなきゃ、何とか。そう思った私は、あの台詞を口走っていた。
「大丈夫。大きくなったらまた会えるって。」
本当はずっと一緒に居たかった。引っ越しなんてしないでと言いたかった。幼い私たちでは、離ればなれになっては、また会うことは難しいのは判っていた。でも、親が決めた事を変えるのは無理だとも判っていた。だから、私は亜紀ちゃんとの絆をこの言葉でつなぎ止めようとしたのだった。大きくなったらまた会えると。
でも亜紀ちゃんは寂しそうに言った。
「もう無理やわ。」
「何で。そんな事あれへん。」
「私、遠くに行くの。」
「遠くってどこ。京都のどこか。」
「私、兵庫、行くねん。」
兵庫?兵庫ってどこだ?確か西の方?大阪なら知ってる。おばあちゃんが居る所だ。大阪なら電車で行ける。兵庫はどこだっけ。大阪より向こう?それとも手前?電車で行けるのかな。どこかで乗り換えるのかな。乗り換えの電車は判るかな。
時刻は日暮れ時だった。西日が桂の木を赤く染めていた。私は夕日を探した。夕日は西に沈むと教えて貰っていた。あの日が沈む山の向こうに兵庫があるはずだ。でも、どうやったらあそこまで行けるのだろう。
亜紀ちゃんの顔も半分西日で染まっていた。心が一杯になった私は、亜紀ちゃんにこう言った。
「大丈夫。大きくなったら絶対会えるって!」
私はこの魔法の言葉に縋るほか無かった。もう会えなくなるとは、どうしても思いたくはなかった。
「そやね、そうやったらええね。」
亜紀ちゃんは寂しそうに言った。
「ほんまは、引っ越すて、誰にも言うたらあかんて言われてたん。ここにも来たらあかんて言われてたん。家の人の迷惑になるからって。でも、どうしても来たかってん。そやからお母さんには黙って来てん。」
亜紀ちゃんは親の言いつけを破ってまでも私に会いに来てくれた。彼女にはこれが最後のチャンスだと判っていたからだった。私はもうどうしようも無い事を悟った。幼い私の力で出来るのはここまでだった。でも、せめて亜紀ちゃんとの最後のこの時間を思い出に残るものにしたいと思った。
「なあ、もうちょっとええやろ。最後に遊ぼ。何して遊ぶ。」
「あかんわ。もう帰らなあかん。引っ越し、今日やねん。遅なったら、お母さんに叱られる。」
私はこれ以上言うべき言葉が見つからなかった。私は亜紀ちゃんをつなぎ止める術を全て失ったのを知った。
「いっぱい遊んでくれてありがとう。優しくしてくれて、ありがとう。嬉しかった。」
そう言った亜紀ちゃんの目には、涙が一杯たまっていた。
「それじゃ、行くね。」
さよならとは言わず、亜紀ちゃんは走り出した。鳥居に向かって駆けていく亜紀ちゃんは振り向く事はしなかった。その代わり時々腕を顔の前で交差した。きっと涙を拭いているのだろうと思った。やがて亜紀ちゃんの小さな姿は鳥居の向こうに消えて行った。
私は不思議に涙も出なかった。失ったものが大きすぎる時、悲しいとも感じないものらしいと幼な心に思った。ただ、心に大きな隙間が出来た様に感じた。心が寒いと感じた。
そして、同時に亜紀ちゃんの事は忘れようと思った。忘れなければ前に進めそうになかった。小学校に一人で通うには、亜紀ちゃんを失った痛手を抱えては居られなかった。だから私は、懸命に亜紀ちゃんの事を忘れ様とした。亜紀ちゃんとの事は最初から無かったんだと、そう思い込こもうとした。
でも、年とともに亜紀ちゃんの記憶は鮮明に蘇って来た。彼女の置かれた数奇な境遇も、今はおぼろげながら想像が付く。そして彼女が抱えていたであろう悲しみも今では判る。
親の都合に翻弄された彼女に、私も巻き込まれた形だった。でも、亜紀ちゃんを恨む気持ちなど毛頭無い。亜紀ちゃんと過ごした楽しい記憶は、今でも私の宝物である。そして、亜紀ちゃんが残した別れの言葉も。
兵庫に行った亜紀ちゃんは、その後幸せに暮らせただろうか。今となっては知る術も無いけれど、幸多かれと願うばかりである。
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